カルメン・マキ
カルメン・マキ(旧本名:Maki Annette Lovelace、1951年5月18日 - )は、歌手、ロックミュージシャンである。本名:伊藤牧。日本国籍を取得するまでの本名はMAKI ANNETTE LOVELACEであったが、現在の本名は非公表。
来歴
誕生〜歌謡曲時代
アメリカ人の父と日本人の母との間に神奈川県鎌倉市で生まれる。父方の祖父はアイルランド人、祖母はユダヤ系ポーランド人。生まれて間もなく、父が帰国。母は肺結核を患っていたため、マキとともに日本に残った。母方の祖父母がいる東京都大田区で育つ。
1968年、香蘭女学校高等学校を2年次で中退。イラストレーターか役者になろうかと考えていた時期に、アングラ演劇の寺山修司が主宰していた劇団「天井桟敷」の舞台『青ひげ』にたまたま友人に連れられていった。その舞台に感銘を受けた彼女は即入団を決意。同じ年の8月に新宿厚生年金会館での「書を捨てよ町へ出よう」が初舞台。この時、CBSソニー関係者の目に止まり、歌手契約。芸名の「カルメン・マキ」は舞台の練習中にたまたま思いついたもの。アングラ劇団から歌手が出るのは初めてのケースだった。
翌1969年に「時には母のない子のように」(作詞:寺山修司、作曲:田中未知)でデビュー。17歳とは思えない妖艶な雰囲気、歌唱力、哀愁のある歌いっぷりが話題を呼んだ。重い旋律が時代の雰囲気と合致して、累計100万枚を超える大ヒットを記録した。この曲で第20回NHK紅白歌合戦に出場した。ステージには裸足にジーンズ姿で登場し、非難を浴びた。司会者に「ジーパンもステージ衣装になる時代が来ました」と紹介された。当時の曲は、作曲は武満徹やクニ河内が、作詞は前述の寺山修司や谷川俊太郎が、手がけた。
これ以降も個性派歌手として活動し、6枚のシングルと3枚のアルバムをリリースする。前述の「時には母のない子のように」の他にも「山羊にひかれて」や「私が死んでも」「戦争は知らない」と言ったヒット曲を出した。
1970年、写真集『篠山紀信集 NUDE』(篠山紀信)でヌードを披露。
ロックへの転向
彼女のキャリアを語る上で欠かせないのはロックへの転向である。そもそものきっかけは、「時には母のない子のように」のレコード大賞受賞でCBSソニー社長から「ご褒美」としてレコードプレイヤーとLP盤数枚をプレゼントされた時のことである。
そのLP盤の中にジャニス・ジョプリンがあった。それを聴いたマキは衝撃を受け、1970年に突然のロック転向を表明する。直後近田春夫(のちにハルヲフォンを結成)、立川直樹らと「カルメン・マキ&タイムマシーン」と言うバンドを結成するが、すぐに解散。その後さまざまなバンドがバッキングについたが、最終的には当時の実力派バンドであった、ギタリスト竹田和夫率いるブルース・クリエイション(第2期)に落ち着き、1971年にコラボレーション・アルバムである『カルメン・マキ&ブルース・クリエイション』を発表。それまで黒人霊歌を基にしたフォークなどを歌うシンガーから、女性ロッカーへとイメージ・チェンジをした。
OZ結成〜解散まで
1972年には当時18歳であったギタリストの春日博文らとともに「カルメン・マキとOZ」を結成。メンバーは、春日博文(ギター)、鳴瀬喜博(ベース、後にカシオペア加入)、樋口晶之(ドラムス、のちに竜童組)。
結成当初は順風満帆とはいえず、所属事務所からはキャバレー回りを強要され、時には客から「こんな曲では踊れない」とビンを投げつけられることもあったという。
しかし、こうした地道な活動が実を結び、1974年にポリドールからシングル「午前一時のスケッチ」でデビュー。翌1975年1月にはファーストアルバム『カルメン・マキ&OZ』をリリース。10万枚以上を売り、当時のロックアルバムとしては大ヒットとなった。このアルバムに収録されている約12分にも及ぶ大作「私は風」は、のちに様々な歌手、ミュージシャンにカバーされ、その中でも特に中森明菜のものが有名である。なお、この録音前後にマキと春日以外のメンバーが総入れ替えとなっている。ドラムは西哲也、古田宣司(たかし)の1stアルバム参加を経て、内藤正美が1975年末まで在籍。ベースは千代谷晃を経て、1stアルバム録音の後から、後期OZの音に決定的影響を与えた川上茂幸に替わった。
1975年5月にグランド・ファンクの、同年8月にジェフ・ベック(やニューヨーク・ドールズら)の、夫々の来日公演の前座を務めた。
1976年にアメリカ合衆国のロサンゼルスでセカンド『閉ざされた町』を4か月かけて制作。ファーストに引き続き「閉ざされた町」や「火の鳥」といった大作路線を継承しながらも風格を漂わせたものに仕上がっている。「閉ざされた町」でドラムを担当したのは久藤賀一。レコーディングの合間にアメリカのコンサートを見て回り、マキは「日本ではお客さんが構えて聴いてるところがあるでしょう。違うんだな、向こうは。もう生活の一部になってるみたいで武道館の二倍もあるようなホールに、子供づれの家族がギッシリ来てる。身障者が見る設備もあるんですよ」などと当時の日本のロックを取巻く現状を憂いた。またロックバンドには珍しくファンクラブが結成された。
翌1977年の10月18日新宿厚生年金会館でのステージを最後に解散。その年の12月にはサードアルバム『III』を発表。前2作とは打って変わってポップな楽曲が並んだ。 また解散の翌年8月にはシングル盤として「私は風」、そして10月の解散ステージと同年5月の日比谷野外音楽堂のライブ音源を収録した『ライヴ』がリリースされている。『III』『ライヴ』録音時のメンバーはマキ、春日、川上、武田治 (Dr)、川崎雅文(川崎真弘)(Kb) であった。
OZ以降〜活動休止まで
OZ解散後、1979年に数回の渡米を経て、ドラマーで当時ロッド・スチュアート・バンドの一員でもあったカーマイン・アピス(元ヴァニラ・ファッジ→カクタス→BB&A)のプロデュースの下でソロ『NIGHT STALKER』を発表。
翌1980年には「カルメン・マキ&LAFF」を結成。同年『カルメン・マキ&LAFF』をリリース。「60s:時には・・・、70s:OZ、そして時代は今・・・LAFF」とレコードの帯にあるようにレコード会社からも期待がかかっていたが結局思うようなヒットが出ず、1981年にヘヴィメタルバンド『カルメン・マキ&5X』へと発展解消。1982年にファースト『HUMAN TARGET』、ライブ盤『LIVE X』、1983年にはセカンド『CARMEN MAKI'S 5X』をリリースし、解散。また、この期間には村上龍原作の映画『限りなく透明に近いブルー』の音楽に参加。「青白い夕焼け("リュウ"のテーマ)」を歌っている。
1980年9月に覚醒剤所持の現行犯で逮捕され、同年11月に大麻所持で逮捕された。これら事件のため、一時的にカルメン・マキ&LAFFは活動停止を余儀なくされてしまった。
その後1986年にはOZの初代ベーシストであった鳴瀬喜博や松本孝弘(のちにB'zを結成)などがいたセッションバンド、「うるさくてゴメンねBAND」に参加。ライブ活動を中心とする。1987年にはライブ盤『うるさくてゴメンねLIVE』を発表。その後出産、育児に専念するために一時的に音楽活動の休止を宣言した。
復帰〜現在
1993年に日本国籍を取得し、音楽活動を再開。同年、寺山修司歿後十年の企画として『時には母のない子のように』(新録音)を発表し、久保田麻琴プロデュースによる子守唄のアルバム『MOON SONGS』を発表。そして翌1994年には「MOSES」を結成。1995年に『VOICES OF MOSES』を発表。1996年にはOZ時代の盟友、春日博文のプロデュースによる「UNISON」を発表。また、この時のセッションメンバーをもとに「UNISON UNIT」を結成し、ライブを中心として活動。この頃に現在もライブ、アルバム制作で組んでいるギタリスト、鬼怒無月と出会っている。
1997年12月29日、「カルメン・マキ&OZ」の一夜限りの再結成を行う(於:京都大学西部講堂)。
1998年には後藤次利、笹路正徳、春日博文、辻仁成などをプロデューサーに迎えて『SPLIT』を発表。
2000年にはライブツアー「CARMEN MAKI 世紀末を歌う」を行い、翌年にはライブ盤『CARMEN MAKI LIVE 世紀末を歌う』をリリース。
2003年には鬼怒無月らとともに「CARMEN MAKI & SALAMANDRE」を結成。また同年に同名のアルバムをリリースし、ライブ活動も活発化させていく。
2004年には全曲アコースティックのアルバム『ANOTHER WAY』を発表。
2008年には、初の朗読(ポエトリー・リーディング)CD『白い月』をリリース。中原中也、萩原朔太郎らの詩を水城雄(ピアノ)の即興演奏にのせて読み、歌に留まらない表現に新境地を開いた。
現在も全国各地をライブハウスを中心に精力的に回っている。
2014年11月25日にはLIQUIDROOMにて「カルメン・マキ45周年記念VOL.1 〜ONE NIGHT STAND〜 《ROCK SIDE》」が行われた。出演はカルメン・マキの他、春日博文 (g)、川上茂幸 (b)、武田治 (ds)、厚見玲衣 (kbd)、ジョージ吾妻 (g)、盛山キンタ (b)、大内貴雅 (ds)、Dr.kyOn (kbd)、澤田浩史 (b)、古田たかし (ds)、木暮武彦 (g)、金子マリ (vo)、Char (g) であった。
2015年2月6日・7日の2日に渡って、ザムザ阿佐ヶ谷にて「カルメン・マキ45周年記念VOL.2《アングラSIDE》2days」が行われた。出演はカルメン・マキの他、春日博文 (g)、Dr.kyOn (kbd)、太田恵資 (Vl)、桜井芳樹 (g)、佐藤正治 (ds)、清水一登 (pf)、西嶋徹 (b) であった。
2018年10月、「カルメン・マキ&OZ」名義のライブを約21年ぶり(単独公演では41年ぶり)に開催。そしてファンから多くの要望を受け、翌2019年11月より開催するデビュー45周年記念再結成ツアーを発表。
エピソード
1978年、ギタリストCharが、芸能界から追放処分を受け、四面楚歌状態にあったとき、救いの手を差し伸べたのが彼女である。当時、精神的な沈鬱状態で、ギターを弾く状態になかった彼を、自身のツアーにサイドマンとして誘って、ギターを弾く機会と場を与えた。「救われた。マキちゃんのおかげで再スタートさせてもらった」と後年Charは、デビュー20周年記念のリットーミュージックのインタビューで語った。この再スタートを足掛かりにCharは、ジョニー,ルイス&チャー(後のピンククラウド)を結成した。
ディスコグラフィ
カルメン・マキ
シングル
アルバム
オリジナル・アルバム
ライブ・アルバム
朗読
ベスト・アルバム
カルメン・マキ&OZ名義
シングル
アルバム
カルメン・マキ&Laff名義
シングル
アルバム
5X
アルバム
映像作品
主な出演作品
映画
- あらかじめ失われた恋人たちよ - 自閉症の女役(1971年、日本アート・シアター・ギルド)
- 探偵はBARにいる - マキ役(2011年、東映)主題歌「時計をとめて」も担当。
テレビドラマ
NHK紅白歌合戦出場歴
- 注意点
- 出演順は「出演順/出場者数」で表す。
ラジオ番組
- 真夜中のスケッチ(ニッポン放送)
脚注
関連項目
- 1969年の音楽#デビュー - 同じ年にデビューした歌手
外部リンク
- カルメン・マキ-Carmen Maki[1] - 公式サイト
- カルメン・マキ (@maki_carmen) - X(旧Twitter)