キューバ

キューバ共和国
República de Cuba
キューバの国旗キューバの国章
国旗国章
国の標語:¡Patria o Muerte, Venceremos!
(スペイン語:祖国か死か、我々は打ち勝つ!)
国歌La Bayamesa(スペイン語)
バヤモの歌
キューバの位置
公用語スペイン語
首都ハバナ
最大の都市ハバナ
政府
共産党第一書記ラウル・カストロ
大統領ミゲル・ディアス=カネル
首相マヌエル・マレロスペイン語版
共産党第二書記ホセ・ラモン・マチャド・ベントゥーラ英語版
副大統領英語版サルバドール・バルデス・メサ英語版
人民権力全国会議議長エステバン・ラソ・エルナンデス英語版
面積
総計110,860km2103位
水面積率極僅か
人口
総計(2018年11,338,000人(81位
人口密度102人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(xxxx年xxx,xxxキューバ・ペソ
GDP(MER
合計(2008年551億ドル(69位
1人あたりxxxドル
GDP(PPP
合計(2008年1,082億ドル(62位
1人あたり9,500ドル
独立
 - 日付
アメリカ軍軍政より
1902年5月20日
通貨キューバ・ペソCUC
時間帯UTC -5(DST:-4)
ISO 3166-1CU / CUB
ccTLD.cu
国際電話番号53

キューバ共和国(キューバきょうわこく、西: República de Cuba)、通称キューバは、カリブ海大アンティル諸島西インド諸島の一部)に位置し、キューバ本島とその周辺の島嶼からなる社会主義共和制国家。首都はハバナ

キューバ共産党による一党独裁体制が敷かれている。

概要

1492年コロンブスがキューバに来島し、1511年スペインに征服された。1898年米西戦争のスペインの敗戦でアメリカ合衆国の軍政下に入り、1902年に独立したが、1934年まではプラット修正条項に基づき事実上アメリカの保護国だった。その後も親米政権バティスタ政権のもとアメリカの影響下にあったが、1959年キューバ革命ソビエト連邦の影響下の社会主義国に転換された。

政治体制は、1961年に革命前に存在した全ての政党が解散させられ、新党結成も禁止されて以降、キューバ共産党による一党独裁体制が敷かれている。そのため多党制に基づく議員選挙や大統領選挙は存在しない。革命を指導したフィデル・カストロによる統治が革命以来2008年までの長期にわたって続いた。エコノミスト誌傘下の研究所エコノミスト・インテリジェンス・ユニットによる民主主義指数は、世界143位と後順位で「独裁政治体制」に分類されている(2019年度)。また国境なき記者団による世界報道自由度ランキングも171位と後順位であり、最も深刻な国の一つに分類されている(2020年度)。

人権状況についてヒューマン・ライツ・ウォッチは、政府が反対意見を抑圧するため、日常的に批評家や活動家、抗議者などを恣意的に拘禁していることを指摘している。

外交面では革命直後にアメリカ資本企業を国有化したことを発端に1961年にアメリカとの関係が途絶。以降アメリカから制裁を課されて対立関係となった。1962年にはソ連の中距離ミサイルが持ち込まれ、アメリカが海上封鎖を実行してソ連に断念させた「キューバ危機」が発生している。ベネズエラなどラテンアメリカ地域の反米左翼政権の支援を行っており、アメリカからは1982年以来テロ支援国家に指定されていたが、2015年にはバラク・オバマ政権下のアメリカと国交回復した。

経済面はサトウキビ栽培を中心とする農業国であり、製糖業が行われ、輸出の半分以上を砂糖が占めているが、輸出入の60%以上を頼っていたソ連が1990年に崩壊したことで経済的苦境に立ち、在外キューバ人の送金などが経済を支えている。アメリカとの国交回復で在米キューバ人のドル送金の大幅緩和を受けることに成功し、またソ連崩壊以来疎遠になっていたロシア中国との結びつきも強め、巨額の経済援助を受けている。

軍事面では徴兵制が採用されており、4万9000人の兵力を持つ。軍事予算額は不明。

人口は2017年世界銀行によれば約1148万人。先住民のインディオはスペイン統治時代の初期のうちにほぼ絶滅し、代わりの労働力として導入されたアフリカ黒人奴隷の子孫が混血も含めて今日のキューバ住民の約30%を占め、残りは大部分がスペイン系白人である。他に中国人を中心としたアジア系住民も少数暮らしている。公用語はスペイン語。宗教はカトリックが大半を占める。教会は「反革命活動」をしないことを条件に存続が許されている状況にある。

地理としては西インド諸島最大の島キューバ島とその属島からなり、総面積は10万9884平方キロメートル。キューバ島は東西に細長く、大部分が平地と緩やかな起伏のある丘陵地からなっており、島の四分の一を占める山地は各地に散在し、南東端のシエラ・マエストラ山脈中に同国最高峰のトゥルキーノ山(2005m)がある。ウィンドワード海峡を隔てて東にはイスパニョーラ島ハイチドミニカ共和国が、南には英領ケイマン諸島ジャマイカが存在する。西はユカタン海峡を挟んでメキシコユカタン半島と、北はフロリダ海峡を隔てて北に145キロ先のアメリカ合衆国フロリダ州フロリダ半島)と向かい合う。北東にはバハマや英領タークス・カイコス諸島が存在する。

国名

正式名称はスペイン語República de Cuba。通称Cubaクーバ

公式の英語表記はRepublic of Cuba。通称Cubaキューバ

日本語の表記は、キューバ共和国。通称、キューバ。スペイン語の原音に近い「クーバ」と呼ぶ人もいる。漢字による当て字は、玖瑪玖馬久場古巴など。中華人民共和国においては「古巴(Gǔbā)」と表記している。

国名は、カリブ海最大の島であるキューバ島からきており、「中心地」という意味のインディオタイノ族)の言葉であるクバナカン が由来であるとされている。

歴史

ヨーロッパ人の到来する以前のキューバには、南アメリカギアナ地方から海を渡ってきたアラワク族系のタイノ族や、シボネ���族カリブ族と呼ばれる先住民が暮らしていた。

スペイン植民地時代

1591年のキューバとフロリダ半島の地図

1492年10月27日、キューバ島はクリストファー・コロンブスの第一次航海でヨーロッパ人に「発見」され、スペイン人による征服が始まった。キューバの住民はインドに到達したと思ったコロンブスによって「インディオ」(インド人)と呼ばれた。インディオたちは、スペイン人に支配されたイスパニョーラ島から逃れてきたアトゥエイに指導されてスペイン人への抵抗を続けたが、1511年、スペインのベラスケスが率いる遠征隊によって征服された。その後も散発的な抵抗が続いたが、植民地化が進むにつれてスペイン人による虐殺、虐待や強制労働、疫病によってそのほとんどが絶滅したとされる。

スペイン人によるキューバの植民地化は同時に砂糖産業、奴隷貿易を盛んにした。インディオの悲劇とは別に、キューバはスペイン中南米の中継地点として著しく発展を遂げた。ハバナは、メキシコ市リマに続くスペイン領アメリカ植民地第3の都市となり、大学要塞が建設された。スペインによる開発は技術面で緩慢だった。

そこへつけこむ形で、300年かけてキューバ開発は多国籍化した。ウェストファリア条約締結によりスペイン帝国は凋落、1680年のインディアス法令集成からは王室が富鉱を独占する規定がなくなり、5分の1税を払うだけで採掘が許された。1783年の鉱業条例で、富鉱がスペイン植民地全体で解放されることが定められた。そしてマーチャント・バンクに開発されていく。

19世紀初め、シモン・ボリーバルホセ・デ・サン・マルティンミゲル・イダルゴらの活躍により、大陸部のスペイン植民地はすでに独立していたが、キューバではそのように新たに独立した国から旧王党派が亡命し、スペイン本国はフィリピンプエルトリコなどとともにわずかに残った最後の植民地キューバを決して手放すまいとして、キューバの駐留スペイン軍を強化した。

また、隣のイスパニョーラ島西部のフランス領サン=ドマングハイチとして独立したあと、王政や帝政への移行を繰り返して迷走し、ひどい混乱状態に陥っている様子が伝わってきた。このようなさまざまな事情が積み重なり、砂糖プランターだったクリオーリョ支配層はこの時期には独立を望まなくなっていた。

その後、サン=ドマングから逃げてきたフランス人農園主の技術が導入され、キューバでも大規模な奴隷制砂糖プランテーションが発達し、1840年代には世界最大の砂糖生産地となった。また、それまでスペインの専売だった葉巻の販売が自由化されると、砂糖に加えて葉巻の通商でも富を得るようになった。しかし同時に、1830年代からスペインの支配者が次第に抑圧的となり、キューバ国内の入植者の間では次第に独立の気運が高まり、一時キューバのアメリカ合衆国編入を目指す運動も起きた(こうした動きはエル=サルバドルドミニカ共和国にもあった)。

独立戦争(1868年 - 1902年)

最初の独立闘争はアメリカ合衆国への併合を求めたカルロス・マヌエル・デ・セスペデスにより1868年に始められた。これは第一次キューバ独立戦争として知られ、10年あまりにわたって続けられたが、1877年にスペイン当局によりキューバへの自治が認められると終結し、1878年にはサンホン条約が結ばれスペインと休戦した。しかし、ムラートのアントニオ・マセオ将軍をはじめとする一部の人々はこの決定を不服とし、キューバの完全独立を目指して解放戦争を続けた。1886年には奴隷制度が完全に廃止されたが、もはやキューバ人への独立への願いを留めることはできなかった。

1892年、ホセ・マルティをはじめとする亡命キューバ人がアメリカ合衆国の��ューヨークを拠点としてキューバ革命党を設立し、マルティの指導によって1895年から第二次キューバ独立戦争が再発した。マルティは同年戦死したものの、マキシモ・ゴメス将軍の指導するキューバ独立軍はスペイン軍との死闘を続け、1898年には島の半分以上をスペインから解放するところにまできた。しかし、独立戦争の勝利が目前に迫った1898年2月15日、同国人保護のために停泊していたアメリカ合衆国の戦艦メイン号がハバナで謎の爆沈を遂げると、激怒したアメリカ国民の支持を背景にキューバ独立戦争へのアメリカの介入が始まった。こうして同年にスペイン・アメリカ・キューバ戦争が勃発すると、アメリカ軍は瞬く間にキューバ全島からスペイン軍を駆逐し、戦争はアメリカ合衆国の圧倒的な勝利となった。

旧共和政時代(1902年 - 1959年)

1898年に締結されたパリ条約によってスペインの敗戦が決まると、スペイン植民地だったフィリピングアムプエルトリコは割譲されてアメリカの植民地となり、キューバでは降伏したスペイン軍と結んだアメリカ軍により軍政が敷かれた。

1902年5月20日にキューバ共和国は独立を達成した。400年に及ぶスペイン支配から解放されたかに見えたが、それはスペインに代わるキューバの新たな主人、アメリカ合衆国による支配の始まりでもあった。同年、キューバ国憲法の制定に際して、アメリカ合衆国議会プラット修正条項(Platt Amendment)を要求した。これにより、キューバはアメリカの内政干渉権を認め、グァンタナモとバイア・オンダの2か所にアメリカの軍事基地を置くことなどが盛り込まれ、実質的にはアメリカの保護国となった。なおアメリカは1903年にグァンタナモ湾を永久租借した契約を盾に、1959年の革命政権の誕生後も今日に至るまで、グアンタナモにアメリカ海軍基地を置き続けている。

「独立」後、キューバにはアメリカ資本が数多く進出し、製糖産業など多くの資源産業をアメリカ企業が支配した。ユナイテッド・フルーツアメリカン・タバコ・カンパニー、ナショナル・シティ・バンク・オブ・ニューヨークなどの多国籍企業が進出し、現地では鉄道会社も設立された。また、政治家の不正が度重なって生じたことで、キューバの現状に対する国民の不満はより深化していった。このような国民の不満は、早くも1906年に反乱として表面化し、1909年までキューバはアメリカ軍の管理下に置かれた。反乱は1912年、1916年にも発生し、アメリカが介入する事態となった。1920年代半ばには合衆国の投信マネーが電力系統へ流れてきて、ゼネラル・エレクトリック系の電力証券(Electric Bond and Share Company)とその子会社(American & Foreign Power Company Inc.)が全土の電力網を作り上げた。このころ砂糖市場は国際問題化した。キューバではクーデターの発生や相次ぐ政変により、1930年代まで政治的な不安定期が続いた。アメリカはやむなくプラット修正条項を廃棄(海軍基地設置の条項は除外)するなどした。

不安定な政治状況は、1933年から政治の主役を演じていたムラートフルヘンシオ・バティスタ(Fulgencio Batista)軍曹が、1936年に政権の実権を握ったことで一定の安定を見せ、キューバ政府が社会経済の改革計画を実行できるまでになった。そして、1940年になると、バティスタの大統領就任と新憲法の公布により、ようやくキューバでは政治的緊張が緩和された。1944年の総選挙でバティスタが敗北したあと、キューバは国際連合設立(1945年)や米州機構設立(1948年)に参加した。しかし一方で、国内では砂糖の国際価格の不安定化とインフレ問題が重要課題として浮上し、政府が有効対策をとれなかったことで、社会不安が拡大した。

独裁者バティスタ大統領(1952年)

1952年にバティスタはクーデターで政権を奪取し、憲法を停止したうえで独裁政治を開始した。2度目のバティスタ政権は1度目とは違い、腐敗、弾圧、独裁が続いた。これにより、アメリカのキューバ支配は頂点に達し、バティスタ政権とアメリカ政府、アメリカ企業、アメリカマフィアの4者がキューバの富を独占し、その富がアメリカ本土に流れるような社会構造が形成された。そしてユーロダラー戦争が誘発された。

1953年7月26日に、このようなアメリカによる半植民地状態の克服を夢見て、弁護士フィデル・カストロ率いる青年たちが蜂起(モンカダ兵営襲撃)したが失敗に終わり、関係者は投獄された。1954年にバティスタは形式のみの信任選挙で再選を果たし、1955年の大統領就任と同時に憲法に基づく統治を復活させ、フィデル・カストロらの政治犯に恩赦を与えた。フィデル・カストロは恩赦によって出獄すると反政府組織「7月26日運動(M26)」を結成、同志とともにメキシコに亡命した。その後、砂糖の国際価格の安定によりキューバ経済の状況は改善されたが、バティスタの独裁体制は継続され続けた。

メキシコ亡命後、フィデル・カストロらはその地でグアテマラ革命の崩壊に立ち会ったアルゼンチン人医師エルネスト・“チェ”・ゲバラと出会い、ゲリラ戦訓練を受けたあと、1956年12月にヨット「グランマ号」に乗ってキューバに上陸した。その際、政府軍の攻撃でフィデル・カストロらは壊滅的打撃を受けたが、マエストラ山脈を拠点として政府軍へ2年あまりのゲリラ闘争を行った末、1959年1月1日にバティスタを国外逃亡に追い込んだ。

キューバ革命(1959年 - 80年代)

マヌエル・ウルティア大統領、チェ・ゲバラカミーロ・シエンフエゴス

革命軍はハバナに入城し、キューバに革命政権が誕生した。その際に革命政権は発足後数週間のうちに軍事法廷で旧バティスタ政権関係者を裁き、およそ550人を処刑した。その後、2月半ばにフィデル・カストロが首相に就任すると、革命政権は一連の農地改革法を実施し、砂糖よりも食料になる作物の生産に力を入れ始めた。また、製糖業などでアメリカ資本に握られていた土地と産業を国有化して、農業の集団化を実施するなど社会主義国の建設を推進した。この過程で、医者をはじめとする中・上流階級の多数の人々がアメリカなどへ亡命した。

バティスタ政権を失ったアメリカは、革命政権とは別の政権樹立に向けた動きを見せていたが、1959年5月から革命政権が実施した徹底的な農地改革に直面したことで、革命政権を敵視するにいたった。アメリカに敵視されたキューバ革命政権は、当時続いていた冷戦による米ソ対立を背景にソビエト連邦と接近し、1960年にソ連と正式な外交関係を結んだ。具体的には砂糖の購入や経済協力を織り込んだものとされる。

これによりアメリカ政府との対立が決定的になると、キューバ政府は国内からのアメリカ企業の排除に努め、アメリカ資本の進出企業を接収した。こうして、キューバ国内のアメリカ系大企業は国有化された。石油精製会社、製糖会社、電話会社、銀行・商業・工業というあらゆる産業が対象となった。たとえば、精糖会社ではユナイテッド・フルーツが国有化されたほか、1960年7月に国有化された米系企業としては、Rothschild-Samuel-Suignan(たばこ会社)、ゼネラル・モーターズ・アクセプタンス(産業金融)、オクシデンタル生命アメリカン・インターナショナル・グループ、チェース・マンハッタンとファースト・ナショナル(現・JPモルガン・チェース) があげられる。

1961年、アメリカ政府はキューバとの外交関係を断絶し、対抗措置として少量ながら続けていたキューバ産砂糖の輸入も全面禁止した。そして、アメリカの支援と訓練を受けた亡命キューバ人の反革命軍をキューバ南部のヒロン湾(英語ではピッグス湾)に侵攻させたが、反革命軍は撃退されて目標を果たせなかった(ピッグス湾事件またはプラヤ・ヒロン侵攻事件)。この事件をきっかけにキューバは1959年の革命の社会主義化宣言を発し、本格的にソ連や東側諸国との結びつきを強めるようになった。

ボリビアにおけるチェ・ゲバラ(1967年)

1962年2月3日、アメリカのジョン・F・ケネディ大統領はキューバとの輸出入を全面禁止し、キューバの経済封鎖を行うと発表した。同年、キューバにおけるソ連の弾道ミサイル基地の建設とミサイルの搬入が明らかとなり、核戦争の危機となった。米ソの妥協によって核戦争は回避されたものの(キューバ危機)、アメリカとキューバの関係は一挙に悪化した。より正確には、合衆国経済の機関化を追及するケネディ政権と、キューバの旧支配者であるシャドー・バンキング・システムとの対立が深まった。

1965年にアメリカとキューバは反体制派キューバ人のアメリカ亡命を認めることで合意し、1973年までに26万人以上がキューバを去った。1960年代のキューバは第三世界非同盟外交に基づいて世界革命を推進し、アジアアフリカラテンアメリカ各地に軍事顧問団を派遣した。ベトナム戦争を戦う北ベトナムや、セク・トゥーレ政権のギニアベン・ベラ政権のアルジェリアなどと関係を深め、コンゴ民主共和国ボリビアにはチェ・ゲバラ率いるゲリラ部隊が派遣された。1967年にゲバラがボリビアで戦死したため、『ゲリラ戦争』で主張されたマルクス=レーニン主義、チェ・ゲバラ=フィデル・カストロ路線に基づくラテンアメリカでの農村ゲリラ革命路線は失敗に終わった。ゲバラの死後のラテンアメリカ諸国の社会主義運動は、1970年のチリにおけるサルバドール・アジェンデ政権成立のように平和革命路線に移行し、キューバもそれまでの強硬路線に代えて、徐々に平和的変革を支持した。

1973年、CIAによって画策されたチリ・クーデターでアジェンデ政権が崩壊し、ラテンアメリカの平和革命路線の限界が露呈した。キューバは国内の社会主義建設を制度化するために1976年憲法を制定し、社会主義化が法制化された。内政面では医療や教育に重点を置いた国造りが、文化面では映画や美術やアフリカ系文化の復興運動が進み、外交面では多くが社会主義国として独立したアフリカの旧ポルトガル植民地や、社会主義化したエチオピアの戦争(内戦)に軍隊を派遣した。特に南部アフリカのアンゴラに対しては1975年の独立前後から軍を派遣し、アンゴラ内戦が勃発すると、内戦に介入した南アフリカアパルトヘイト政権と戦うために最盛期には5万2,000人の兵力を派遣した。

1980年代に入り、エチオピアでのオガデン戦争とアンゴラ内戦はともに膠着状態に陥り、キューバの負担も増加した。そのためまずはエチオピアから撤退し、1988年のクイト・クアナヴァレの戦いのあと、アンゴラからも名誉ある撤退を求めて、南アフリカとの間にアメリカが提唱していたリンケージ政策を受け入れ、当時南アフリカ領だったナミビアの独立と引き換えに撤退した。またカリブ海地域では1983年、島国グレナダに軍事顧問や労働者を送って東側接近を支援したが、米軍の介入で頓挫した(グレナダ侵攻)。

冷戦終結以降(1991年 - 現在)

ハバナの革命広場にあるホセ・マルティ記念碑の前で演説するフィデル・カストロ(2003年9月27日)

冷戦が終結し、1991年にソ連が崩壊すると、それまでキューバ産砂糖とソ連製の石油をバーターで取引してきたキューバの経済構造の基盤は大打撃を受け、経済はかつてない規模の衰退に陥った。経済崩壊状態に陥ったキューバから脱出すべく、(バルサ)で米国フロリダ州を目指して亡命を図るバルセーロスと呼ばれる人々が増加した。亡命を希望しなかった人々の間でも1993年に米ドルの所持が解禁されたため、米ドルを持てるものと持たざる者の間に格差が生まれ、それまでの平等主義体制に亀裂が入る結果となった。

深刻な経済衰退を受けて、政府は私的所有や国営企業の民営化などの経済競争の面での自由化を部分的に取り入れ、観光業の振興を軸に経済の再生を測った。民営化ではスペインなどの機関投資家を参加させた。このような政策は功を奏して、フィデル・カストロ政権は1990年代のもっとも困難な時期を乗り切り、キューバ共産党による一党制体制は維持されたものの、他方で1990年代を通して土地の私的所有や宗教信仰の自由などを認める各種の自由化が進んだ。この中には1995年制定の外国投資法もあった(2014年改正)。なお、土地の私有化によって、ビルバオ・ビスカヤ・パナマが最初のモーゲージ貸付を行った。

2000年代にかけてキューバは中華人民共和国との関係を深めた。また、ベネズエラのウゴ・チャベス政権とは石油などにおける資源ナショナリズムを共有し、外交姿勢は社会主義を堅持している。

アメリカ合衆国下院は2003年9月9日、アメリカ人のキューバ訪問禁止解除の法案を可決(今回で4度目の可決、賛成227、反対188)。10月23日には上院も同趣旨の法案を可決(賛成59、反対38)。いずれもジョージ・W・ブッシュ大統領の所属する共和党主導で行われた。11月6日、アメリカ上院はさらに外交委員会で渡航禁止解除を決議した。ブッシュ政権は2004年の大統領選に向け、大票田であるフロリダ州のキューバ系アメリカ人票をつなぎ止めるため、上下両院で可決された法案に対し拒否権発動の姿勢を崩さなかった。キューバとの通商はフィデル・カストロを利するだけで、一般のキューバ人への利益にはならないとした。

国際連合総会では1992年以来連続でアメリカに対してキューバに対する国交断絶と経済制裁を終了し、外交・経済関係を回復するよう求める決議案が提出され、採決の結果は毎年、アメリカとイスラエルが反対、パラオ、ミクロネシア、マーシャル諸島は棄権、それ以外の国はすべて賛成で可決されてきた。特に2015年には史上最多の191国が決議に賛成した(従来棄権していた太平洋の島嶼諸国も賛成に回り、反対票はアメリカとイスラエルのみ)。なお、アメリカは、表向きは経済制裁を継続していたビル・クリントン政権時代に、ハバナのアメリカ利益代表部の大改築を行っている。

2006年7月31日、フィデル・カストロ国家評議会議長は声明を出し、7月後半のアルゼンチン外遊の多忙な日程の影響で腸に急性の問題が発生、出血が続いているため、外科手術を受けたと発表した。そして権限を数週間、弟のラウル国家評議会第一副議長兼国防相に委譲したことを明らかにした。声明は秘書官が読み上げ、国営テレビ・ラジオで伝えた。2006年8月3日、アメリカのブッシュ大統領はフィデル・カストロ声明に便乗して、「われわれは民主主義を約束するキューバの移行政権を樹立する努力を支持する」と「政権転覆」を呼びかける声明を出した。

2007年5月、米テキサス州エル・パソの連邦地裁が、クバーナ航空455便爆破事件に関与した反革命傭兵軍のルイス・ポサダ・カリレスを釈放し、キューバの雪解けは国際政策となった。

2008年2月19日、フィデル・カストロは国家評議会議長(国家元首)と閣僚評議会議長(首相)、軍最高司令官の退任を正式に表明した。2月24日、人民権力全国会議(国会)が招集され、国家評議会議長に弟のラウルが選出された。ラウルは就任早々、規制緩和を次々打ち出し、一般国民の携帯電話所持やホテル宿泊、家電製品購入などが自由にできるようになった。2008年4月28日、ラウル・カストロ国家評議会議長は、第6回中央委員会総会で、第6回党大会を来年度後半に開くことを提案した。大会開催は1997年10月以来12年ぶりとなる。8月19日、キューバ国立銀行が日本の化学品商社・明和産業への輸入代金の支払に発行した信用状(L/C)が期日までに決済不能に陥ったことが判明した(債務不履行)。明和産業によると債権額は約8億7,200万円であり、独立行政法人日本貿易保険が一部焦付額に保険を適用すると発表した。なお、日本貿易保険はキューバ国立銀行から「当行一行だけの問題ではなく、国全体の決済資金が不足している」との説明を受けたとしている。

アメリカのバラク・オバマ政権は従来のキューバ敵視政策を転換し、2014年に両国は国交回復交渉の開始を発表。お互いの捕虜を解放し、送金や輸出の緩和を実行した。翌2015年には54年ぶりに国交が回復され、2016年にはオバマ大統領がハバナを訪問した。

その後、2017年に就任したドナルド・トランプ米大統領は、キューバに再び厳しい姿勢を示している。

略年表

  • 1492年 クリストバル・コロン、キューバ島に到着(12月27日)
  • 1509年 ディエゴ・ベラスケス・デ・クエリャル、キューバ総督に任命
  • 1868年 第一次独立戦争(10年戦争)開始
  • 1895年 ホセ・マルティ、オリエンテのラプライータに上陸、第二次独立戦争開始(4月10日)
    • 5月19日 マルティ戦死
  • 1898年 米西戦争(2月)
  • 1902年 独立、エストラーダ=パルマ政権発足(5月)
  • 1903年 アメリカ、グァンタナモ湾を租借
  • 1952年 バティスタ軍曹のクーデター(3月)
  • 1953年 モンカダ兵営襲撃(7月26日)、モンカダ裁判(9月)
  • 1955年 フィデル・カストロ恩赦、メキシコへ亡命
  • 1956年 グランマ号でオリエンテ州に上陸(12月)7月26日運動、活動開始
  • 1957年 革命幹部会による大統領官邸襲撃(3月)
  • 1958年 反乱軍の最終攻勢始まる
  • 1959年 バティスタ大統領亡命(1月1日)
    • 2月17日 フィデル・カストロ、首相に就任、革命政権成立(キューバ革命
    • 4月15日 フィデル・カストロ、ニューヨークへアメリカ政府に対する表敬訪問。アメリカ政府はアイゼンハウアー大統領がゴルフに出かけたとの理由で首脳会談を拒否
    • 5月17日 農地改革法公布
  • 1960年 アメリカ政府、キューバ砂糖輸入割当廃止の意向発表
  • 1961年 アメリカと国交断絶(1月3日)
    • 4月4日 傭兵軍航空機によるハバナなどへの航空施設爆撃
    • 4月16日 フィデル・カストロ、社会主義革命宣言
    • 4月17日 反革命傭兵軍上陸事件(- 19日 ピッグズ湾事件)
    • 4月25日 アメリカ、対キューバ全面的貿易封鎖発表
  • 1962年 キューバ危機(10月15日)、ケネディ米大統領、対キューバ海上封鎖宣言(10月22日)
    • 10月27日 オリエンテ州北部でU-2機撃墜
    • 10月28日 フルシチョフ・ソ連首相、ミサイル撤去受け入れ
  • 1963年 フィデル・カストロ、初のモスクワ訪問
  • 1965年 キューバ共産党結成
  • 1967年 フィデル・カストロ、チェ・ゲバラボリビアでの死亡を発表
  • 1975年 第一回共産党大会、アンゴラ派兵本格化
  • 1976年
  • 1977年 アメリカと利益代表部設置で合意
  • 1981年 革命ニカラグアへ派遣した教師が暗殺
  • 1983年 アメリカのグレナダ侵攻に抗議して派兵
  • 1992年 憲法改正により、キューバを社会主義国家と定義。米国でトリチェリ法 成立、ジョージ・H・ブッシュ大統領が署名
  • 1993年 ドル所有の合法化
    • 12月22日 フィデル・カストロの実の娘、アリナ・フェルナンデスがアメリカへ亡命
  • 1995年 米・キューバ移民協議、難民問題でアメリカ政府と合意
  • 1996年 アメリカでヘルムズ=バートン法 成立、クリントン大統領が署名
  • 1998年 ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世のキューバ訪問
  • 1999年 アメリカ、対キューバ経済制裁の一部緩和措置発表、エリアン少年事件
  • 2000年 アメリカによる対キューバ経済制裁の一部緩和措置発表
  • 2001年 アメリカからへの食糧購入開始
  • 2002年 ジミー・カーター元アメリカ大統領キューバ訪問。憲法改正
  • 2005年 米国務長官コンドリーザ・ライス、キューバを北朝鮮やイランと並ぶ「圧制の拠点」と発言し、打倒すべき独裁政権のひとつにあげた。キューバ航空機爆破、フィデル・カストロ暗殺未遂など親米テロの廉で逮捕され、保釈後ベネスエラへ逃亡していた傭兵軍のカリレス、アメリカへ亡命を求めて脱出するもマイアミで逮捕される
  • 2008年
    • 2月 フィデル・カストロ、国家評議会議長引退を発表
    • 2月24日、ラウル・カストロが国家評議会議長に選出
  • 2009年
    • 6月 米州機構総会においてキューバの復帰が認められる。しかしキューバは復帰を拒否
  • 2011年 部分的に市場経済が導入される
  • 2014年
    • 12月18日 アメリカとの国交正常化交渉を開始すると発表
  • 2015年
    • 4月11日 59年ぶりのアメリカ・キューバ首脳会談が行われる
    • 7月20日 アメリカと国交回復
  • 2016年
    • 9月、国営企業で働く約100万人を対象に10月から課税すると発表。約半世紀ぶりに国営企業従業員への課税となる
    • 11月25日、フィデル・カストロ前国家評議会議長が死去
  • 2018年
    • 4月19日、ミゲル・ディアス=カネルが国家評議会議長に就任
  • 2019年
    • 新憲法(現行憲法)制定。国家元首の役職が43年ぶりに「大統領」となる。

政治

キューバ共産党のロゴ
  • 政体「社会主義」共和制
  • 憲法2019年に現行憲法を制定・施行した。私有財産を認める一方、「共産党」の統治や「社会主義」体制は堅持する。1976年に制定された旧憲法は、1992年2002年に一部修正。1992年の憲法修正で、キューバを「社会主義」国家と定義(第1条)。2002年の修正で、「社会主義体制は不可侵(変更不可能)」とする条項を追加した。
  • 最高指導者:キューバ共産党第一書記。現任はラウル・カストロ(2011年 - )。
  • 元首元首職はキューバ共和国大統領。現任はミゲル・ディアス=カネル(2018年 - )。
  • 国家評議会:人民権力全国会議(議会)の閉会中に、立法機能を果たす集団指導機関。内閣とは別個の存在。首長は国家評議会議長で、かつては国家元首を務めていた。
  • 議会立法権行使機関として、一院制人民権力全国会議(1976年発足)が存在。当初は、代議員を人民権力地方会(地方自治体)の中から選出する間接選挙制を採用していたが、1992年から国民が代議員を直接選出する直接選挙制度に移行した。総数589議席、任期5年。毎年2回定期的に開催され、議員中から31名の国家評議会議員を選出する。
  • 内閣:内閣に相当する行政機関として、閣僚評議会が存在する。閣僚評議会議長・第一副議長・副議長8名・各国家委員会議長11名および各部長官23名によって構成される。首相(政府首班)に相当する閣僚評議会議長は、国家評議会議長が兼任。2019年の改憲で専任の首相職が43年ぶりに復活した。任期は5年。初代は元観光相のマヌエル・マレロ・クルススペイン語版(2019年 - )。
  • 政党:合法政党は「キューバ共産党(PCC)」のみ。憲法第5条でPCCは「社会と国家の最高の指導役」とされている。党の有力下部組織として「青年共産主義者同盟」を有する。
  • 司法司法権行使機関は、最高裁判所として人民最高裁判所が存在する。最高裁判事は、人民権力全国会議が選出する。法律の規定により、下級裁判所は州および自治体ごとに置かれているほか、特別裁判所として、国家に対する犯罪を扱う革命裁判所が存在する。
  • 地方自治体:地方自治を行う人民権力地方会として、人民権力行政区会議と人民権力州会議が存在する。詳細は地方行政区分を参照。
  • 反政府組織:主要勢力として、キューバ系アメリカ人財団(CANF)がアメリカフロリダに存在する。
  • 対外関係:非同盟諸国との連帯、反帝国主義および民族解放運動支援が、フィデル・カストロ政権時代の伝統的な対外政策の最優先課題である。1960年の対ソ連接近にともない、アメリカとは1961年1月3日に国交を断絶した。以後、米国から禁輸措置を受けるが、アメリカ・キューバ両国は2014年12月に国交正常化交渉を開始すると発表し、2015年7月に国交を再開。近年ではラテンアメリカ諸国の「左派」政権との間で外交活動を活発に展開、キューバ人医師の派遣や医学を志す留学生の受け入れ(条件つきながら無料で学べる)など、医療支援も活発に行われている。

軍事

キューバは革命以来、アメリカ合衆国の侵攻を防ぐために旧東側諸国の装備で重武装しており、現在では4万9,000人ほどの現役兵が常備兵として活動している。そのほか民兵組織などもある。

最高司令官は国家評議会議長が兼任。徴兵制度が存在し、17 - 45歳の男子が2年間兵役に服する。国防予算は約7億ドル(2000年)。正規軍であるキューバ革命軍の兵力は、陸軍兵力3万8,000人、海軍兵力3,000人、空軍兵力8,000人。兵器はほとんどがソ連製。正規軍のほか、青年労働軍(6万5,000人)、地方民兵隊(約100万人)などの民兵が存在する(数値はすべて2007年のもの)。

国際関係

キューバが外交使節を派遣している諸国の一覧図
赤色:キューバ本国
濃い青色:外交使節(大使館)派遣国
薄い青色:政府職員(利益代表部)派遣国
灰色:外交使節を派遣していない国

アメリカとの関係

1959年のキューバ革命以後、アメリカから軍事侵攻(プラヤ・ヒロン侵攻事件)、政権転覆工作(「キューバ計画」)、カストロ暗殺工作などの敵視政策を仕掛けられ、アメリカから2015年までは「テロ支援国家」に指定されており、国交がない状態であった。アメリカからは1962年以後、人道的措置と称する食料や医薬品を例外として経済封鎖経済制裁が継続されている。アメリカの航空会社もチャーター便の運行はあるものの定期便は就航させていない。キューバ共和国独立翌年の1903年、アメリカはキューバ東部のグアンタナモ湾の一部を永久租借してアメリカ海軍基地を建設しており、2020年現在もグアンタナモ米軍基地が存在する。

アメリカ政府は、カストロ政権を打倒して傀儡政権を再樹立し間接支配を復活するために、亡命キューバ人に武器と資金を供給して軍事訓練を行い、1961年4月に亡命キューバ人武装勢力をキューバに侵攻させたが作戦は失敗し、1961年4月にキューバに経済制裁・貿易封鎖を実行した。アメリカ政府はその後も1962年10月までキューバに対して武力行使を繰り返したがカストロ政権を打倒できず、アメリカ政府に政権を打倒されると危機を感じたカストロはソ連に支援を求めた。1962年10月にキューバミサイル危機が発生し、米ソ核戦争の危機になったが、ソ連が譲歩してミサイル基地の撤去に応じて戦争は回避された。アメリカ政府はその後もカストロ政権転覆工作やカストロ暗殺工作を繰り返し、政権転覆や暗殺を恐れたカストロが、キューバと自分を守るためにケネディ大統領暗殺作戦を遂行したとの推測もある。

1980年代以降も、アメリカはキューバを1982年テロ支援国家に指定し、1996年にはアメリカでキューバ経済制裁強化法(ヘルムズ・バートン法)が成立するなど、アメリカ・キューバ両国は長年にわたって敵対してきた(米国の対キューバ禁輸措置も参照)。

しかし、アメリカ・キューバ両国はカナダローマ教皇フランシスコの仲介で2013年から舞台裏での交渉を開始し、2014年12月18日にはアメリカのバラク・オバマ大統領とキューバのラウル・カストロ国家評議会議長がそれぞれ演説を行い、アメリカとキューバの国交正常化に向けた交渉を開始すると発表した。以後、

ラウル・カストロ国家評議会議長とオバマ大統領の首脳会談(2015年4月11日)
  • 2015年4月11日 - パナマで行われた米州首脳会議の会場でオバマ大統領とラウル・カストロ議長による59年ぶりの米・キューバ首脳会談が行われ、国交正常化に向けて話し合われた。
  • 2015年5月30日 - アメリカがキューバのテロ支援国家指定を解除。
  • 2015年7月1日 - 両国が相互に大使館を設置することで合意。
  • 2015年7月20日 - 両国の利益代表部が大使館に格上げされ、国交回復。

と、2015年に入ってから具体的な国交正常化への歩みを進めた。

その後、米ドナルド・トランプ政権下では関係が再び冷え込んでいる。2019年3月4日、アメリカ政府は、キューバ「社会主義」政権が接収した資産に関する訴訟を、亡命キューバ人などがアメリカ国内で起こす権利を認める措置を発表した。

ラテンアメリカ諸国との関係

1999年にベネズエラウゴ・チャベス政権が成立してからは、産油国である同国からの石油輸入とキューバからの医師派遣を軸に強固な友好関係が樹立され、2004年に両国との間で米州ボリバル代替統合構想が結成された。2000年代後半に入り、ベネズエラに続いてボリビアエクアドルニカラグア左派政権が成立するとキューバはこれら諸国と友好関係を築き、2009年6月に米州ボリバル代替統合構想が発展解消する形で米州ボリバル同盟(ALBA)が結成された。

カナダとの関係

キューバとカナダは友好関係を保っており、カナダは上述のアメリカとの国交正常化交渉開始の際にも、ローマ教皇フランシスコとともに両者の仲介を行った。

ソビエト連邦及びロシアとの関係

ロシア連邦とはキューバ革命以後、ソ連時代から友好関係にあった。ソ連によるキューバへの核ミサイル配備はアメリカの反発を招き、キューバ危機(1962年)にいたった。その後、キューバはソ連から経済・軍事援助を受け、またアフリカの親ソ派の諸国・組織にキューバ兵や軍事顧問を送って支援した。

1990年代初めのソビエト連邦の崩壊による援助や優遇条件での貿易の停止・縮小はキューバを苦境に追いやったが、ロシア連邦の国力回復と中南米政策の活発化にともない、再び関係は緊密化している。ロシアは2014年に旧ソ連時代からキューバが負っていた債務の9割を減免。2017年にはロシア国営石油会社ロスネフチがキューバへの原油輸出を再開したほか、300台以上の自動車「ラーダ」や75台以上の鉄道機関車の輸出も決まった。国営ロシア鉄道によるキューバ国内鉄道の近代化・延伸も協議されている。

日本との関係

日本とは1929年(昭和4年)12月21日に国交を樹立した。1941年(昭和16年)12月9日太平洋戦争の勃発にともないアメリカに続いて対日宣戦布告し、国交を断絶した。戦後の1952年(昭和27年)11月、サンフランシスコ講和条約締結にともない国交回復。1960年(昭和35年)に通商協定を締結、1961年(昭和36年)に発効。1898年(明治38年)以降、日本人移民がキューバに定住、1999年(平成11年)時点の概数で日系人は800人である。

日本は資本主義体制をとり日米同盟を維持しているが、キューバに対しては地理的・政治的な利害関係を持たず、また長らく最高指導者であったフィデル・カストロ親日家であることもあり、音楽スポーツを通じた民間交流も盛んである。2012年(平成24年)11月には福岡 Yahoo! JAPANドーム札幌ドームにおいて野球日本代表とキューバ代表による国際親善試合が行われた。そのため、両国関係は政治経済の両面で良好であり、1989年(昭和64年・平成元年)の昭和天皇崩御の際には喪に服した。また、1997年(平成9年)に発生した在ペルー日本大使公邸占拠事件では、日本政府の要請に対し、キューバがトゥパク・アマルー革命運動(MRTA)のゲリラ亡命受け入れを受諾した。キューバは日本人が観光目的で入国する際にビザ免除を認めている(ただし、事前に大使館、もしくは出発当日の空港でツーリスト・カードを購入する必要がある)。

北朝鮮との関係

キューバ革命以後、反米政策を共通とする北朝鮮とキューバは友好的な関係を保っている。キューバ政府は北朝鮮との友好関係を考慮し、韓国と国交を結んでいない。

中国との関係

冷戦時代のキューバは1960年代中ソ対立の中でソ連側についたこともあり、1966年に中国と関係がほぼ断絶した。アンゴラ内戦ではキューバは米中の影響力排除を目的に派兵した。1979年、フィデル・カストロは中国が中越戦争で同じ共産圏のベトナムを攻撃し、キューバに敵対的で南米の親米反共諸国とのコンドル作戦を主導しているチリアウグスト・ピノチェト政権なども支援していることを批判した。冷戦が緩和した1987年に中国とキューバは関係を正常化した。

地方行政区分

歴史的にキューバは6つの地方行政区分に分けられていたが、1976年の再編成によって現在の区分に改められた。現在、キューバの地方行政地域は14の州 と「青年の島」(旧ピノス島)の1特別自治体に区分されており、さらに州の内部には169の自治体が存在している。なお現在の区分は、キューバの独立戦争期に、スペイン軍が軍事上の危険区域を分離すべく用いていた地域区分に類似しているとされている。

キューバは中央集権的な政治体制を採用しており、各州・地方自治体が有する自治権は限定的である。各州には州議会が存在するが、その構成員は住民から間接的に選出される。議会は執行委員会の委員を選出し、その委員は各州に5つ存在する地域議会を構成する。そして、地域議会は執行委員会の委員を選出し、その委員が結集することで州議会が構成される。州議会にも執行委員会は存在し、執行委員会は各段階で議会が有する行政機能の監督を行っている。なお、特別自治体である「青年の島」のみは島でひとつの自治体を成しており、地方自治関連の諸問題において直接中央政府の監督を受けている。

2011年1月1日より、ハバナ州が分割されてアルテミサ州およびマヤベケ州が新設された。アルテミサ州にはピナール・デル・リオ州の一部も含まれる。

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主要都市

2003年の推計によれば、キューバ国民の約75%が都市部に居住している。同国最大の都市は、主要な港湾を有する首都ハバナ で、人口は217万6,000人(国民の約20%)である。ハバナ郊外のマリアナオ英語版はビーチリゾートで知られ、周辺域を含めた人口は13万3,016人(1989年)である。

その他の主要都市としては、主要な港湾都市および工業中心地であるサンティアーゴ・デ・クーバ(40万4,100人)、キューバ島内陸の交通要所および商業中心地であるカマグエイ(29万4,000人)、豊かな農業地域であるオルギン(24万2,100人)、農産物加工の中心地であるグアンタナモ(20万8,000人)、サンタ・クララ(20万5,900人)、バヤモ(13万7,660人)、シエンフエーゴス(13万2,200人)、ピナール・デル・リオ、12万8,800人)、ラス・トゥナス、12万6,900人)、マタンサス、12万3,890人)がある。

(出典: CUBAVIP. Population.。ただし、マリアナオの数値のみは英語版の記事に依拠)

地理

キューバの地図
宇宙から見たキューバ

キューバの国土は長さ1,250キロで、キューバ島(本島)、「青年の島」(旧ピノス島)、および1,600あまりの小島と多島海からなる広大な群島によって構成されている。

キューバは、フロリダ半島の南145キロ、ユカタン半島の東210キロに位置し、カリブ海および大西洋メキシコ湾を結ぶユカタン海峡およびフロリダ海峡を、国土の西部と北部が押さえる要衝にある。国土の東部は、大西洋とカリブ海を結ぶウィンドワード海峡によってイスパニョーラ島と隔てられ、北東部はニコラス海峡、オールドバハマ海峡によってバハマ諸島と隔てられ、南にはジャマイカ島とケイマン諸島がある。

キューバの国土は南北アメリカ大陸ヨーロッパとの間を結ぶ航路と接し、交易を行ううえで恵まれた位置関係にある。そのため、キューバは古くから通商の要衝として経済的に栄え、かつては「メキシコ湾の真珠」とも呼ばれた。現在、キューバの周辺には、北から時計回りの順に、アメリカ、バハマタークス・カイコス諸島ハイチ共和国ジャマイカ、イギリス領ケイマン諸島、メキシコが存在している。

キューバ島

キューバの本島であるキューバ島 は、西インド諸島に属するカリブ海で最大のである。コロンブスの同島「発見」時にはスペイン王国の王族にちなんでフアナ島 と命名されたが、のちにキューバの呼び名が一般化し現在にいたっている(キューバの由来は国名参照)。島の南西には、キューバでキューバ島に次ぐ大きさを持つ「青年の島」が浮かんでいる。

キューバ島の長さは、西端のサン・アントニオ岬から東端のマイシ岬まで約1,225キロ、南北の距離は最大250キロから最小35キロで平均値は80キロと、東西に細長い形状をしている。島の4分の1は山岳地帯となっているが、山地が島の全域に散在していることから、島に山塊はない。主要山岳地帯としては、西部にオルガノス山脈(標高914メートル)、中央部にトリニダー山脈(標高1,200メートル)、南東部にマエストラ山脈という3つの異なる山系がある。

東方山系であるマエストラ山脈は、クルス岬からマイシ岬まで南海岸に沿いながら、250キロに及んで連なっている。ほかの山系と比べると一番長く複雜で、この山脈に属する標高2,005メートルのトゥルキーノ山は、キューバの最高峰としてそびえている。南方斜面が急な断崖をなす一方で北方斜面は緩慢で、北方海岸につながる山地との間にはカウト川流域の中央低地が発達しており、キューバの主要な農業地域に数えられている。中央部山系であるトリニダー山地は��高度が低く多くの山地群で形成されており、マンガンニッケルクロム鉄鉱石タングステンなど、地下資源が豊富に埋蔵されている。西部山系であるオルガノス山脈はカルスト地形で、険しい石灰岩の山地・洞窟などが多く、ハバナ付近のコティジャ洞窟が著名である。周辺の丘陵地は、石灰岩の風化土であるマタンサス土壌 で覆われており、肥沃で排水がよく栽植農業地として的合である。

東部と中部、そして西部の山岳地を除けば、島の大部分は200メートル以下のなだらかな起伏の丘陵地平野であり、土壌も大半は肥沃で、大規模な機械化農業の生産にも適した土地となっている。しかし、その地形により島には水量の豊かな長いが存在せず、200以上の河川の大半は急流をなす小さな川であるために、船舶の航行はできない。主要河川は、島の南東部を流れるカウト川(全長240キロ)であり、マエストラ山脈を水源とし、グァンタナモ湾に流れ込む。この川はキューバでもっとも長い川であり、下流の約100キロは航行が可能な大きさである。また、重要な内陸水路として水力発電にも利用されている。

島は長くて狭く、複雑で入り組んだ海岸線は、全長3,735キロにもなる。海岸には約7万km²の大陸棚があり、海岸線には入江砂州マングローブ林サンゴ礁湿地、大小の半島が多様な景観を造成し、多くの湾が天然の良港となっている。主要な港は、北海岸にハバナ、マタンサス、カルデナス、バイアオンダ、ヌエビタスがあり、南海岸にグァンタナモ、サンティアゴ・デ・クーバ、シエンフエゴス、トリニダーがある。特に、ハバナ港は良港として知られ、通商によって栄えた歴史がある。またグァンタナモ湾は、1903年以降現在にいたるまでアメリカのグァンタナモ米軍基地南方軍管轄)が存在することで知られている。

気候

キューバの気候亜熱帯気候かつ海洋性気候で、ケッペンの気候区分では典型的な熱帯サバナ気候に属する。年間の平均気温摂氏25.5度、の平均気温は27度、の平均気温は21度であり、夏には東風・南東の貿易風、冬には北東の貿易風が吹く。夏には気温のみならず、湿度も80%前後にまで上昇する。しかし、北東の貿易風が吹くため、気温は和らぎ比較的しのぎやすい環境となる。冬には平均気温が20度近くまで下がるが、それでも日中は気温が30度以上になる。

気温の較差がわずかなため、季節的な気候変化はおもに降水量によって左右される。乾期は11月から4月、雨期は5月から10月である。年平均降水量は約1,400ミリだが、トリニダー山地から「青年の島」にかけての地域では2,000ミリに上り、マエストラ山脈以東の地域では1,000ミリを下回り、グアンタナモが一番少ない。雨季と同じ時期である6月から10月、特に8月から10月にかけて多くのハリケーンが襲来し、おもに北西部地域に風水害を与える。

生態系

キューバでは外国人による調査活動が許可されにくく、固有種の生態調査が進んでいなかったが、近年では個人が橋渡し役となることで外国との合同研究が許可されるようになっている。

天然資源

キューバの国土は鉱物資源に恵まれている。特に重要視されている鉱物はニッケルクロムマンガンである。そのほかにも、硫黄コバルト黄鉄鉱石膏石綿石油石灰岩などが採掘されている。

とりわけ海底油田は北西部地域に未発見の原油ガスが埋蔵されているとされ、これまで中国を含む諸外国による探査掘削作業がたびたび行われてきた。なお、地下資源はすべて政府の所有物とされている。キューバにおけるラテライト鉄鉱石の埋藏量は20億トン、その中に包含されるニッケルは1.7億トンであり、世界最大の規模である。

経済

首都ハバナ
タバコ畑

キューバの伝統的な主要産物は、砂糖ニッケル海産物である。キューバ革命以前のキューバ経済は、大土地所有制、資本従属、サトウキビの単一栽培(モノカルチャー)など、植民地的な経済構造の特徴が取り揃えられていた。具体的には、国民総生産の約25%、総輸出額の80%を砂糖が占めていた。また、砂糖生産の60%以上がアメリカ資本に依存しており、砂糖は輸出量の4分の3がアメリカに輸出されていた。ほかにも、土地所有者の8%が、総土地面積の70%以上を所有していた。

革命以後、フィデル・カストロ農地改革と土地国有化を断行して計画経済を推進した。計画では、特に行政サービス部門の増大が図られ、あわせて工業・貿易が占める比率が高められた。1961年から、政府は単一栽培農業の脆弱性を克服し、工業化を進めるために経済開発計画を推進した。そして1970年代に入ると、工業開発と砂糖生産の増大によって、社会総生産の成長率は年平均9.6%(1970年 - 1976年)を記録した。しかしその後は、砂糖の国際価格下落、経済開発の遅延、慢性的な貿易赤字の発生、経済上の対ソ連依存度の増大などにより、経済成長は再び停滯した。そのため、政府は1981年から国民の消費生活向上に重点を置くようになった。1990年代初頭、経済的に依存していたソ連圏の崩壊で、キューバの経済事情は悪化した。特に、1989年まで続いた年間1,300万トンに及ぶソ連の原油供給が中断したことで、キューバ経済は多大な打撃を受けた。また、アメリカの相次ぐ経済制裁法(1992年のトリチェリ法、1996年のヘルムズ・バートン法)により、一時は食糧不足にも苦しめられた。

この厳しい状況から脱却を図るため、政府は経済・財政改革措置を実施し始めた。具体的には、1993年より外貨所持と使用の解禁、独立採算制の農業組合制度の設立承認、自営業の一部許可といった措置を開始し、1995年には外資が100%出資した企業の設立を認定する新外資法を採択した。また、1997年5月には国内4か所に自由貿易地帯を創設し、2001年にはカリブ海沿岸国と自由貿易協定を締結した。ほかにも、観光資源部門での外資誘致を積極化し、農業分野においてはモノカルチャーの砂糖生産依存から脱皮を図るべく、有機農業へのシフトが顕著となった。一連の経済政策により、1994年以降のキューバは長年の経済沈滞から脱して経済が成長し始めた。しかし、2000年代前半に生じた原油価格高騰や、アメリカ同時多発テロ等の影響、さらには2002年に生じた砂糖価格暴落とベネズエラの政変による石油供給中断などにより、キューバは2002年に経済難を経験し、同年の経済成長は1.1%であったが、2003年は2.6%、2005年には「革命史上最高」の11.8%の経済成長を達成した。しかし、2008年8月に日本向け債権の一部で債務不履行(デフォルト)が発生したことが明らかとなった。

現在でもキューバ経済の中心は砂糖で、基本的には砂糖のモノカルチャー経済から脱却することができていない。ただし、有機農業の増大によって、最近では日本生協などとの農産物取り引きも行われるようになっている。タイマイを食用として捕獲していることから、1990年代後半には副産物である鼈甲を対日輸出する計画が持ち上がった。このため、ワシントン条約の会議などで輸出を認めるよう各国に説得をして回った時期があった。砂糖以外の主産品としては、第2の輸出品としてニッケルがあり、その輸出量は輸出総額の約10%を占めている。また医薬品系(B型肝炎ワクチンなど)の輸出も10%強をしめている。また、近年では観光業に力を入れ、観光客数がここ数年で年平均18.6%の高成長を遂げたことから、観光業はキューバ最大の外貨獲得源となっている。観光収入は1996年時点で13億米ドルに達しており、2003年は観光客数190万人、観光収入23.2億ドルを記録している。

2011年4月において危機的状態が続く経済を再建するため、市場経済が部分的に導入されることが決まった。食料配給の段階的廃止、不動産の所有権と売買を認めるなど、大きな改革が5年以内に実施される。労働者用の無料食堂はすべて閉鎖された。同年9月にはタバコ配給が停止、禁止されていた自動車売買も同10月に自由化され、住宅の売買も11月に解禁された。人件費支払いが困難なため、2012年3月までに公務員の50万人のレイオフも行われる。失業者の受け皿として自営業の免許を25万人分発行することが決まった。現在の労働者は公務員約470万人、民間労働者約60万人(大半が農家)である。

経済活性化のため、2008年には自営業を許可する業種を拡大。レストランや民泊などの開業が相次ぎ、自営業者は2008年の約14万人から2017年には約58万人へと増えた。開業には納税のほか政府への登録料支払いが必要で、負担を嫌って無許可で開業する国民もいる。自営業で成功した富裕層や、富裕層向け店舗・サービス業(美容室やエステ、ペットショップなど)も出現している。

キューバに経済制裁を科しているアメリカを除いて、外国人観光客や外国資本の進出も増えている。ハバナ旧市街や海浜リゾート地には大型ホテルが建設された。ハバナ近郊には100%外資の操業を認めるマリエル特別開発区(ZEDM)が整備されている。

厳しいながらも1990年代末からプラス成長を維持してきたキューバ経済は2016年、それまで最大の貿易相手国であったベネズエラの政治・経済混乱で、23年ぶりのマイナス成長となった。国際連合ラテンアメリカ・カリブ経済委員会の推計・予測では、2017年は0.5%のプラス成長に戻し、2018年も1%の経済成長率が見込まれている。アメリカのトランプ政権が再びキューバに対して厳しい姿勢を示しているものの、ヨーロッパ諸国からの進出企業や観光客が増えているほか、中国との貿易が拡大しているためである。外国からの渡航者は2016年に前年比14%増え、初めて400万人台(うち米国からは28万人)に乗せた。外国人観光客の来訪には空路のほか、ハバナ港に寄港するクルーズ客船も利用されている。

アメリカ政府の発表によればキューバ国民1人あたりの月収は15ドルほどである。

通貨

1994年以降2種類の法定通貨が存在したが、2021年1月1日よりキューバ・ペソ(ペソ・クバーノ)へ一本化された。レートは1米ドル=24ペソに固定されている。

1994年から2020年12月1日までは外貨兌換券である兌換ペソも法定通貨のひとつとして、主に外国人や観光業で使用されていた。兌換ペソは米ドルと等価とされ、政府公式のレートでは兌換ペソとキューバ・ペソも等価とされていた。しかし民間のレートは1兌換ペソ=24キューバ・ペソであり、持つ「ペソ」の違いで経済格差ができていた。

交通

キューバでは、鉄道砂糖輸送の��要な交通手段として使われているほか、国土の中央を東西に貫通する高速道路が建設されている。また、ハバナからフラッグ・キャリアクバーナ航空が複数のキューバ国内線および、メキシコスペインロシアなどへとつながる定期国際航空路を運航しているほか、諸外国の多くの航空会社も乗り入れている。

国民

首都ハバナカトリック教会堂
キューバの小学生

キューバは16世紀中にスペイン人の苛政によってインディオが絶滅したため、現在は白人系市民と黒人系市民および少数のアジア系移民で成り立っている。住民の人種構成は、ムラートが37%、欧州白人が51%(おもにスペイン系)、黒人が11%、中国系が1%であると推定され、他にもメスティーソレバノン人がおり、中国人やレバノン人、東インド諸島の植民者のコミュニティがある。キューバ政府は、「人種別の統計は、人種差別につながる」ことを理由に、人種別の統計を取っていない。ただし、推計値では徐々に混血が増加する趨勢となっている。

キューバの白人は19世紀から20世紀の間に移民としてやってきたスペイン人のほかに、フランス人アイルランド人ドイツ人ドイツ系キューバ人)、イタリア人ポーランド人などを根に持つ。また、アジア系の市民として中国系キューバ人や戦前移民した日系キューバ人も少数存在する。1903年から1933年までの間に72万人のスペイン人、19万人のハイチ人、12万人のジャマイカ人、その他少数の中国人、アメリカ合衆国人移民があった。���かし、これらの移民の多くは定住せず帰国した。

1959年のキューバ革命によって成立した現政府の政策により、ラテンアメリカ地域特有の、スペイン植民地時代から続いてきた人種に基づく伝統的階級社会は破壊され、多くの白人支配層や中産階級がアメリカのフロリダ州西ヨーロッパに亡命した。

言語

公用語スペイン語(キューバ・スペイン語)である。しかし、観光業に力を入れていること、アメリカ本土に近いこと、そして公教育の普及率が高いことなどから、ホテルレストラン、都市部などでは英語が通じることもある。

宗教

宗教の信仰は原則として自由であるが、今では無信教者が人口の55%にまで達している。キューバでもっとも重要な宗教はカトリックであり、キューバ革命以前は人口の70%以上が教徒であった(1957年)。しかし、フィデル・カストロ政権下で信者数は約40%まで減少し、政府から反革命活動をしていないとみなされる必要があるなど、現在でも教会の布教活動には政府による制約がなされている。

その他の宗教には、プロテスタントエホバの証人ユダヤ教イスラム教、そして民族固有の宗教であるサンテリアなどがあげられる。東部ではハイチからの移民によってヴードゥー教も信仰されている。

日本発祥の宗教として、社会主義国としては珍しくSGIのキューバ支部(キューバ創価学会)が存在している。

教育

キューバ革命後、政府は教育・社会福祉部門に対する投資率を高め、関連予算額が国家予算の16%を占めるようになった。その結果、教育の無料化と非識字率の大幅な低下といった成果を上げた。

キューバでは、フィデル・カストロの「アメリカに半植民地にされたのはアメリカプロパガンダを国民が見抜けなかったから」という考えから、教育に国を挙げて力をいれている。初等教育義務教育となっており、小学校では20人学級やサブティーチャー制を導入している。2002年のセンサスによれば、15歳以上の国民の識字率は全体で99.8%であり、これはアルゼンチンウルグアイチリと並んでラテンアメリカ内では最高水準である。また、国民の大半は高等学校を卒業している。

おもな高等教育機関としてはハバナ大学(1728年創立)などが挙げられる。高等教育は、19万1,262人(2001-2002年度)の学生が受けている。

また、キューバの学校教育においてはスポーツにも力を入れており、特に野球は小学校から大学までの必修科目として取り入れられており、キューバではもっともポピュラーなスポーツとなっている。

医療

キューバの医療制度はプライマリ・ケアを重視した医療制度を採用し、独特の社会福祉政策と同様「キューバ・モデル」として有名である。世界保健機関が発行するWorld Health Statistics 2014年度版によると、医療費の公費負担率は2000年度は90.8%、2011年度は94.7%である。人口1万人中の医師数が67.2人と世界でもっとも多いグループに属する。ファミリードクター制を採用し、各地区に配置された医師が地域住民の健康状態の把握を行っている。家庭医は往診が基本である。被災地への医師の海外派遣も積極的に行っている。これらは、マイケル・ムーア監督の映画『シッコ』で紹介された。キューバの所得水準は世界銀行の定義ではUpper Middle Income Countryに分類され、世界保健機関の年次報告書であるWorld health Statistics 2014年度版によると、世界保健機関が指標として定める妊産婦死亡率、新生児死亡率、乳児死亡率、乳幼児死亡率、成人死亡率は、Upper Middle Income Countriesの平均値よりは低いが、High Income Countriesの平均値よりは高く、平均寿命、平均健康寿命はUpper Middle Income Countriesの平均値よりは高いが、High Income Countriesの平均値よりは低い。

ディエゴ・マラドーナモハメド・アリが治療しにきた。

生活

キューバ国民は全員が配給手帳を所持しており、毎日配給を受ける。ただし配給といっても無料ではなく、国家による生活物資の超低価格販売である。配給所は街の随所にある。キューバ国民が海外に出国する方法は大きくわけて四種類あり、(1)外国人からの推薦の発行、(2)外国人との結婚、(3)海外に住む家族による招待状の発行、(4)国家による(留学目的などでの)海外派遣である。なお、(2)以降は取得が困難であるため、キューバ人の多くは外国人観光客らと親しくなり、招待状を入手しようとしている。

治安

社会主義国で貧富の差が小さいこともあり、治安は良好とされている。

文化

キューバ国民の大半がスペインアフリカからの移民であるため、キューバの文化はスペインと、アフリカの特にヨルバ(現在のナイジェリア)の伝統文化から影響を受け、それらが混交しているという特徴がある。なお、キューバは、国民の映画鑑賞が盛んな国でもある。

食文化

キューバ料理はスペインとアフリカの影響が強く、豚肉を多用する。代表的な料理としてはコングリス(豆ご飯)、トストーネス(青バナナのフライ)などが知られる。また、ラム酒コーヒーが広く飲まれている。

文学

19世紀においては前期にホセ・マリア・エレディアが活躍し、ロマン主義の文学運動においてヘルトゥルディス・ゴメス・デ・アベジャネーダとシリロ・ビリャベルデが活躍した。19世紀後半に汎イスパノアメリカ的な規模での文学運動となるモデルニスモ文学が隆盛を迎えると、キューバからは独立運動家であり、詩人でもあったホセ・マルティによって『イスマエーリョ』などのモデルニスモ的な詩や、『我らのアメリカ』(1891年)などの重要な評論も発表された。

20世紀に入ると、ムラートの詩人ニコラス・ギジェンによって1930年代にソンの形式を取り入れた詩が作られ、アフロ・キューバ文学が確立された。その後、アレホ・カルペンティエルによってハイチ革命を描いた『この世の王国』(1949年)などが発表された。

革命後は、1971年のパディーリャ事件のような革命政権による文学者への弾圧のため、カルペンティエルを例外として多くの作家がキューバを去り、亡命先で執筆を続けた。著名なキューバ人作家としては革命後に亡命し、反フィデル・カストロ運動と『三頭の悲しき虎たち』で知られるギリェルモ・カブレラ=インファンテや、ホセ・レサマ・リマ、レイナルド・アレナス、ビリヒリオ・ピニェーラ、セネル・パスなどが挙げられる。特にアレナスは亡命先のニューヨーク魔術的リアリズムの傑作として知られる『めくるめく世界』などを残している。

また外国出身者でありながらキューバの文学運動に多大な影響を与えた人物として、キューバをこよなく愛したアメリカ合衆国のアーネスト・ヘミングウェイが挙げられる。そのほかにも、アルゼンチン出身でキューバ革命の指導者の1人であり、紀行文の『モーターサイクル・ダイアリーズ』や革命中のゲリラ戦の経験をまとめた『ゲリラ戦争』(1961年)、『ゲバラ日記』で知られ、閣僚を務めたこともあるエルネスト・チェ・ゲバラは文学においても名高い。

音楽

キューバ音楽は、スペイン系とアフリカ系の音楽が融合して生まれたものをベースに、いろいろな要素が混じり合って生まれており、ラテン音楽の中枢的な存在となる。アメリカ合衆国のジャズなどとともに20世紀大衆音楽に大きな影響を与えた。

代表的なキューバ音楽は、スペインのギターアフリカ太鼓を組み合わせたヨルバ系文化の影響が強いルンバソンがある。そのほか、大衆音楽の中には、トローバやダンソンのようにヨーロッパ音楽の要素が比較的強く残っているものもある。

19世紀にフランスのジョルジュ・ビゼーハバネラのリズムを取り入れたときからキューバ音楽の世界への拡大は始まっていたが、キューバ音楽は、まず1930年にソンがアメリカで紹介され、1930年代以降、アメリカを中心に世界中に広まった。ただし、その際にソンが「ルンバ」として紹介されたため、元来のルンバと「ルンバ」と呼ばれるソン(現在でも社交ダンスで「ルンバ」と呼ばれるものは、このソンである)を区別する必要がある。

1950年代には、マンボチャチャチャが世界的に流行したが、1959年のキューバ革命後はアメリカとの国交が途絶え、また経済封鎖のためもあり、キューバ音楽が世界に広がる経路が狭まった。ただし、スペイン語圏諸国においては影響を持ち続けた。この1970年代から80年代にかけては、革命後のキューバで若い世代のムーブメントとして起こったヌエバ・トローバが、ラテンアメリカにおいては、社会現象といえるほどの人気と影響力を得た。

また、アフリカ的なリズムの素養、ソ連とのつながりによるクラシック的な技術体系が反映されたジャズ演奏者のレベルは非常に高く、70年代の後半にグラミー賞を受けたイラケレ、1990年代に一世を風靡したゴンサロ・ルバルカバチューチョ・バルデースイラケレのリーダー)など、数々のハイレベルなミュージシャンを生んでいる。

冷戦後、1990年代になると、ロス・バン・バン、アダルベルト・アルバレス・イ・ス・ソンなど、ニューヨーク・サルサのセンスも取り入れたソンのグループが次々に現れ、大きな人気を獲得。また、ヨーロッパなどで公演する演奏家も増加した。1990年代末には古老ミュージシャン達を扱った映画(1998年のヴィム・ヴェンダース監督作品『ブエナビスタ・ソシアル・クラブ』)が世界的なヒットとなったこともあり、経済封鎖自体はまだ続いているものの、アメリカ系大手レコード会社が次々にキューバの音楽家と契約し、来日公演なども増加するなど、キューバ・ブームといってよいほどの活況を呈している。

さらに21世紀に入って、中南米スペイン語圏およびアメリカのプエルトリコ系で一大ムーブメントとなったレゲトン (Reggaeton) がキューバにも本格的に到来、レゲエヒップホップ、そしてキューバ音楽が融合したクバトン (en:Cubaton) が誕生し、キューバの若い世代に強く支持されている。

2001年には西側ロックバンドの公演が許可され、マニック・ストリート・プリーチャーズがカール・マルクス劇場でライブを行った(フィデル・カストロも訪れている)。これ以降はカール・マルクス劇場で海外のバンドの公演が行われるようになった。

美術

代表的な画家としては、20世紀半ばに活躍し、アフロ・キューバ美術を再発見したウィフレド・ラムが挙げられる。革命後はラウル・マルティネスらによってキューバの人民革命を鼓舞するプロパガンダポスターが製作された。現在はホセ・ベディア・バルデスの『アメリカ大陸年代記』など、西欧近代文明の限界に挑戦する美術運動が進んでいる。

映画

キューバはラテンアメリカの映画大国であるブラジルアルゼンチンメキシコには及ばないものの、域内では映画制作が盛んな国のひとつである。革命前のキューバの映画産業は脆弱なものだったが、1959年に映画芸術産業庁(ICAIC)が設立されて以来、キューバ独自の映画への取り組みが始まった。ラテンアメリカ初の映画学校が開設されたのもキューバであり、1986年にハバナ国際映画テレビ学校(EICTV)が設立されてからはガルシア・マルケスを筆頭にラテンアメリカ最高峰の人材が映画製作を教えている。

著名な映画人としては、イタリアのネオレアリズ���に影響を受け、ブラジルのネルソン・ペレイラ・ドス・サントス、アルゼンチンのフェルナンド・ビッリとともに新ラテンアメリカ映画運動の火付け役ともなった『エル・メガノ』(1955年)のフリオ・ガルシア・エスピノーサや、『ルシア』(1968年)のウンベルト・ソラス、『低開発の記憶』(1970年)、『苺とチョコレート』(1993年)のトマス・グティエレス・アレア、『永遠のハバナ』(2003年)のフェルナンド・ペレスが挙げられる。

カーニバル

植民地時代からカトリックの暦に合わせてカーニバルが行われており、特にサンティアーゴ・デ・クーバとハバナのカーニバルは規模が大きい。コンパルサやコンガと呼ばれるチームが楽器と歌と踊りを交えて道路を練り歩く。

その他

  • 政府が監督下する文化的施策
    • 図書館:キューバ最大の図書館はハバナの国立図書館(蔵書数約220万冊)。ハバナをはじめ、主要都市には市立図書館が設置されている。
    • 博物館:ハバナの国立博物館は、古典から現代に至る芸術作品、および先住民文化の遺物を収集している。
    • 補足:一部自治体は、演劇や舞踊などの文化活動を支援している。

世界遺産

キューバ国内には、ユネスコ世界遺産リストに登録された文化遺産が6件、自然遺産が2件存在する。詳細は、キューバの世界遺産を参照。

祝祭日

スポーツ

キューバでは社会主義国の利点を生かして、国家による選手育成が幼年期から一貫して行われている。また、高い医療水準にも支えられ、キューバ選手は夏季オリンピックを中心に輝かしい成績を収めてきた。人口比での金メダル数は世界トップクラスであり、2004年のアテネオリンピックでは9個を獲得した。

キューバがスポーツの中で特に力を入れるのは各オリンピックで金メダルを量産している野球ボクシング、それに女子のバレーボールである。また、柔道レスリング陸上競技の跳躍系種目でも好成績を収めている。一方、競泳や陸上の長距離種目、サッカーなどは振るわず(サッカーについては、かつては強豪だったが、国際サッカー連盟(FIFA)の国際試合無期限出場停止処分を受けたのをきっかけに弱体化した)、冬季オリンピックには参加経験そのものがない。またキューバではオリンピックスポーツ選手がスポーツ選手のステータスであり、野球は若干下になる。なお、すべてのスポーツ選手はアマチュア国家公務員ステート・アマ)であり、国内では一般国民と比較して好待遇が与えられている。特に金メダリストは国家英雄として称賛されるが、アメリカなどのプロ選手と比べるとその報酬額ははるかに少ない。そのため、有力選手の中にはアメリカへの亡命者も出現する。また亡命に失敗した選手は国際大会への派遣が行われず、キューバ選手団は常に外部との接触を厳しく制限されながら競技会に参加するという弊害も起こっている。

さらに社会主義国のためにイデオロギーがスポーツに優先する国情があり、かつてはオリンピックのボイコットも行った。現在でも、特にアメリカとの関係で国際大会への参加に支障が出る場合がある。

通信とメディア

通信社は国営のプレンサ・ラティーナに一元化されている。国内でもっとも読まれている新聞は、キューバ共産党の機関紙『グランマ』で、スペイン語英語のウェブサイトを運営している(外部リンク参照)。

キューバは現在でも「キューバ共産党の一党独裁下にあり、言論の自由に制限がある」とされる。これがアメリカ政府によるキューバ制裁継続の一因となっている。フランスに本部を置くジャーナリストの国際的非政府組織国境なき記者団」が2005年に発表した「世界報道自由ランキング」では、キューバのランクは調査対象の167か国・地域中161位にとどまり、政府の意向に沿わない独立系ジャーナリストの逮捕・投獄・虐待が行われていると指摘されている。2006年5月にはアメリカに本部がある国際非営利団体「ジャーナリスト保護委員会」が発表した検閲国家ワースト10のリスト」でキューバが7位に挙げられた。また、国外からの情報を遮断するためにネット検閲が導入されている。

インターネットへの接続自体は2009年の解禁以降、環境が徐々に整備されてきた。公園など全国約500か所で公衆無線LAN(規格はWi-Fi)で有料接続でき、2017年10月には国営通信会社エテクサが一般家庭向け接続サービスの開始を発表した。国際電気通信連合(ITU)の統計によると、2017年時点でキューバ国民のネット利用率は38%。

グーグルの協力で首都ハバナに2016年開設された唯一のインターネット無料利用センターが接続できなくなっているなど(2018年2月時点)、低所得層を中心にネット利用には依然制約が多い。アメリカ政府はキューバの民主化を促す手段としてインターネットを重視しており、オバマ政権時代にネット関連機器の輸出規制を緩和した。トランプ政権は2018年1月、国務省にキューバでのネット普及を支援する特別部署を設置した。

著名な出身者

脚注

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参考文献

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  • 板垣真理子『キューバ、甘い路上』フィールドワイ、2002年6月。ISBN 4901722042
  • 海風書房編『キューバ万華鏡──私のキューバ体験』海風書房、2000年7月、ISBN 4768488749
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  • 大須賀猛『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブとキューバ音楽の手帖』水声社、2000年2月。ISBN 4891764163
  • 原著:Carmen R. Alfonso, 100 preguntas y respuestas sobre Cuba, Editorial Pablo de la Torriente, 1996, ISBN 959120096X, ISBN 9875201073
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  • エドゥアルド・ガレアーノ/大久保光夫訳『収奪された大地──ラテンアメリカ五百年新評論東京、1986年9月。
  • 倉部きよたか『峠の文化史──キューバの日本人』PMC出版、東京、1989年9月。ISBN 4-89368-212-10。
  • 後藤政子『キューバは今』神奈川大学評論編集専門委員会編、御茶の水書房〈神奈川大学評論ブックレット17〉、東京、2001年7月。ISBN 4275018680
  • 後藤政子樋口聡編著『キューバを知るための52章』明石書店〈エリア・スタディーズ〉、東京、2002年12月。ISBN 4-7503-1664-4pp. 232–235。
  • さかぐちとおる『キューバ音楽紀行』東京書籍、2000年8月。ISBN 4487796067
  • 首都圏コープ事業連合編『有機農業大国キューバの風 生協の国際産直から見えてきたもの』緑風出版、2002年4月。ISBN 4846102041
  • WCG編集室編『キューバ──情熱みなぎるカリブの文化大国』(『ワールド・カルチャーガイド』[The world culture guide series]20)トラベルジャーナル、2001年7月。ISBN 4895594955
  • 鉄矢多美子『熱球伝説──キューバリナレスを育てた野球王国』岩波書店、1997年8月。ISBN 4000017934
  • 樋口聡『キューバへ──カリブ楽園共和国探訪記』批評社、1995年12月。ISBN 4826501978
  • 樋口聡『カリブの楽園キューバで恋するサルサラム酒とカーニバル』祥伝社〈祥伝社黄金文庫〉、2001年4月。ISBN 4396312512
  • 樋口聡『キューバのうた 旅するカメラ 記憶するカメラ』論創社、2002年11月。ISBN 4846004325
  • 福井英一郎編『ラテンアメリカII』朝倉書店〈世界地理15〉、東京、1978年。
  • 二村久則、野田隆、牛田千鶴、志柿光浩『ラテンアメリカ現代史III』山川出版社〈世界現代史35〉、東京、2006年4月。ISBN 4-634-42350-2
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    • ポーラ・ペタビーノ、ゲラリン・パイ/草深直臣、金井淳二、新野守訳『キューバのスポーツ』創文企画、1999年3月。
  • 村上龍著、河野治彦データ執筆『新世界のビート──快楽のキューバ音楽ガイド』新潮社、1993年7月。ISBN 4103934018
  • 八木啓代吉田憲司『キューバ音楽』青土社、2001年2月。ISBN 4791758617
    • 文献あり、並列タイトル:La musica en Cuba
  • 八木啓代吉田憲司『キューバ音楽 増補新版』青土社、2009年8月。ISBN 978-4791764976[2]
  • 吉田沙由里(著)、アレイダ・ゲバラ(寄稿)『小さな国の大きな奇蹟──キューバ人が心豊かに暮らす理由』WAVE出版、2008年5月。ISBN 4872903501
  • 吉田太郎『200万都市が有機野菜で自給できるわけ──都市農業大国キューバ・リポート』、築地書館、2002年8月。ISBN 4806712493
  • 吉田太郎『有機農業が国を変えた──小さなキューバの大きな実験』コモンズ、2002年8月。ISBN 4906640540
  • 吉田太郎『1000万人が反グローバリズムで自給・自立できるわけ──スローライフ大国キューバ・リポート』築地書館、2004年1月。ISBN 4806712779
  • 吉田太郎『世界がキューバ医療を手本にするわけ』築地書館、2007年8月。ISBN 4806713511

関連項目

外部リンク

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