名古屋鉄道

名古屋鉄道株式会社(なごやてつどう、: Nagoya Railroad Co.,Ltd.)は、愛知県岐阜県を基盤とする大手の鉄道会社である。通称、名鉄(めいてつ、Meitetsu)。民営鉄道としては日本で3番目の歴史を持つ老舗企業である。本社は愛知県名古屋市中村区名駅1丁目2番4号、近鉄名古屋駅に隣接する名鉄名古屋駅上に設けた名鉄バスターミナルビル名鉄百貨店本店メンズ館ビル)内に置いている。中京圏では最大の路線規模を擁する。

概要

本業の鉄道業では、愛知・岐阜両県に総営業距離では近鉄東武に次いで日本の私鉄第3位(JRを除く)の444.2kmにもおよぶ路線網、275駅を擁する(詳細は「路線」節を参照)。年間利用人員は、のべ3億6148万9000人(2014年3月31日時点)、旅客車両数は1,064両(2014年3月31日時点) である。

コーポレート・スローガンは「ココロをつなぐ、あしたへはこぶ。」。

名古屋鉄道は東海銀行(現:三菱UFJ銀行)・中部電力東邦瓦斯(東邦ガス)・松坂屋(現:大丸松坂屋百貨店)と共に名古屋経済界の中核名門企業、旧「名古屋五摂家」の1社に数えられ、中部地方を中心に数多くの不動産を所有する企業であり、これらの「開発事業」も経営の重要な柱となっている。レジャー流通産業など関連事業を中心に多角的な企業展開を行っており、連結決算の対象・非対象併せて200社以上のグループ企業がある。

2005年(平成17年)に開港した中部国際空港空港連絡鉄道として乗り入れる唯一の鉄道会社である。

営業路線の詳細は「路線」の節を、その他の詳細は以下の各記事を参照。

社章・シンボルマーク・コーポレートカラー

現在のシンボルマークは会社創立100周年に先立つ1992年(平成4年)4月より使用を開始している。これはCI導入計画の一環としてランドーアソシエイツによるデザイン開発により策定されたもので、同時にコーポレートカラーも制定されている。

シンボルマークは社名略称の英称「MEITETSU」をモチーフとし、特にM字型のマークはMEITETSU ウイングと呼ばれる。2色のコーポレートカラー(人や地球への優しさを表す「MEITETSU Blue」、知的さ、信頼性を表す「MEITETSU Green」)によって構成されるMEITETSU ウイングは名鉄が地域とともに躍進する姿を表現している。このほか、シンボルマークに準ずるものとしてMEITETSU Blue、MEITETSU Greenに赤を加えたアロー(スピードアロー)があり、マークパターンとしてシンボルマークの下にアローを配するタイプとMEITETSU ウイングの下にMEITETSU、アローを配するタイプが設定されている。

社章は中央に図案化した「名」を、鉄道の象徴である「工」を5つ円形に配置したものである。5つの「工」は五徳による社員の総親和を表すとともに、名古屋から放射状にのびる路線網も表現している。CI導入以降は掲示物等への使用が全面的にシンボルマークへ切り替えられており、100系の前面飾り帯の装飾など現存箇所は少数に留まっている。

歴史

創業・黎明期

現在の名古屋鉄道は、太平洋戦争の終結以前に中京圏の多くの鉄道会社が合併して成立したものであるが、その起源は1894年(明治27年)6月に名古屋市内で馬車鉄道を運行する名目で設立された企業の愛知馬車鉄道である。

名古屋電気鉄道

名古屋電気鉄道“郡部線”(1921年6月)

愛知馬車鉄道は当初、馬車鉄道を敷設するための特許を得ていたが、計画を電気鉄道に変更し、1896年(明治29年)に名古屋電気鉄道に社名を改めた。1898年(明治31年)には、京都電気鉄道(後に市営化され京都市電となる)に次ぐ日本で2番目の電車運行を開始。以後、同社は市内各所へ網の目のように路線網を構築していった。1912年(大正元年)には初の郊外路線(郡部線)を開業させ、以降は尾張北中部の各市町と名古屋市を結ぶ郊外路線を充実させていった。

1921年(大正10年)、市内線の市営化が決定する。その前段階として名古屋電気鉄道は6月に郊外線部門を引き継ぐ(旧)名古屋鉄道を新たに設立し、第二の創業とした。翌1922年(大正11年)8月には名古屋市電気局(後の名古屋市交通局)へ市内線部門を乗務員ごと譲渡して名古屋市電が発足し、(旧)名古屋鉄道の発足後も市内線の営業を続けていた名古屋電気鉄道は解散した。なお、市営化後も柳橋 - 押切町間の郊外線から市内線への乗り入れ(営業権)は、譲渡条件として保持されたまま(当該区間は市営・名鉄の二重免許区間)であった。

その後(旧)名古屋鉄道は、名古屋電気鉄道当時はおまけのような存在であった郊外線部門を生かす形で名古屋市と岐阜市という2つの大都市を直結する都市間路線を形成することを目論み、1928年(昭和3年)4月10日にはその第一歩として名岐線の丸ノ内 - 西清洲(現・新清洲)間を開通させたことにより、押切町 - 新一宮(現・名鉄一宮)間が開通した。

1930年(昭和5年)8月、岐阜市周辺の路面電車などを経営していた美濃電気軌道を合併した(旧)名古屋鉄道は、名岐間輸送を社の重点目標としたことから、合併翌月に社名を名岐鉄道と改称した。この時点で開通していたのは押切町 - 新一宮間および笠松(現・西笠松) - 新岐阜(現・名鉄岐阜)間であったが、木曽川橋梁の完成に伴い1935年(昭和10年)4月29日に新一宮 - 笠松間が開通し、押切町 - 新岐阜間が全通している。

愛知電気鉄道の発足

1909年(明治42年)には、名古屋以西の路線(名古屋本線東枇杷島駅以西・犬山線など)を建設していた名古屋電気鉄道に対し、以東の路線(名古屋本線の神宮前駅以東・常滑線など)を建設することになる愛知電気鉄道が設立された。

愛知電気鉄道(愛電)は、1910年(明治43年)に知多半島西岸の振興と、それまで舟運に頼っていた常滑焼など特産品の効率的な運送を図るために設立された鉄道会社で、1913年(大正2年)に現在の常滑線を全通させ、続いて旧東海道沿いに名古屋市と三河地方との連絡を意図した路線(豊橋線、現在の名古屋本線神宮前駅以東に相当)の建設を開始した。一方、官設鉄道(後の国鉄・現JR)東海道本線以外に、私鉄による第2幹線を建設しようと東海道電気鉄道が設立され、愛知郡御器所村(現名古屋市昭和区)から豊橋市に至るまでの路線免許を得て、さらに豊橋市から浜名湖北岸をまわり浜松市に至る計画を持っていた遠三電気鉄道にも出資していたが、その最大の資本提供者で過去に日本電気鉄道(東京 - 大阪間電気鉄道敷設計画)の計画も推し進めていた安田善次郎が1921年(大正10年)に暗殺されたため、計画は宙に浮くことになった。

そのような状況下、東海道電気鉄道の創設者であり、かつて愛知電気鉄道の2代目社長を務めた福澤桃介福澤諭吉娘婿)は、愛知電気鉄道に対して救済合併を申し入れ、愛知電気鉄道側もこれを承諾し、東海道電気鉄道は愛電に吸収合併された。その後、愛知電気鉄道は東海道電気鉄道計画を継承し、当時有松裏駅(現・有松駅)まで開通していた愛電有松線を延伸する形で、豊橋方面への路線の建設に着工した。東海道電気鉄道は当初から画期的な高速鉄道を目指しており、豊橋線はそれに見合う高規格で建設され、1927年(昭和2年)6月に吉田(現・豊橋)までの全線が開通した。この豊橋線は当時の愛知電気鉄道の資本金総額を上回る莫大な建設費用を投じて建設されたことから、この設備投資による負債が経営を圧迫し、さらに当時の日本はアメリカに端を発した世界恐慌による強烈な不況風が全国に吹き荒れていたこともあって、愛知電気鉄道は深刻な経営難に陥った。その後、景気回復と3代目社長である藍川清成以下経営陣の尽力によって、愛知電気鉄道は経営危機を脱している。

「名鉄」発足の経緯

発足当時の名古屋鉄道(1935年8月)

現在の名鉄は、1935年(昭和10年)に、名岐鉄道(名岐)と愛知電気鉄道(愛電)が合併して発足したものである。

合併前の名岐・愛電の両社は、名岐が名古屋式経営と称される多くの内部留保を抱える無借金経営を行っていた一方、愛電は積極的な設備投資に起因する負債(当時の金額で226万円)を抱えていた。もっとも、経営規模・払込資本金額・経常利益・株式配当といった経営規模・財務内容はほぼ同等であった。

それまでの両社は、三重県方面への進出(伊勢電気鉄道の買収工作)や名古屋地下鉄道の運営方法など、当地域の鉄道運営の主導権を巡って対立することも多かったが、当時の日本は世界恐慌を境として、大陸(現在の中国など)への進出・利権を廻って欧米列強との対決(戦時)色が強くなり始めた頃であり、民間企業の間では国内(同一民族間)での競争・対立を止めて協調・合同(民族団結)へ向かう機運が次第に高まった時代であった。合併話が持ち上がった時点では、陸上交通事業調整法や戦時立法の国家総動員法も構想段階であったが、当地の交通事業を再編・統合して安定した鉄道輸送を図るべく、名古屋財界の有力者を中心に民間主導の型で検討・折衝が進められることとなった。

当初は両社とも合併には消極的で、特に名岐側は企業体質が全く異なる愛電との合併に対して強い拒否反応を示したとされる。その後も名岐は「自社が愛電を合併する」という形態に拘り、最終的に名岐鉄道を存続会社として愛知電気鉄道は解散し、合併後の新会社の社長には当時の名岐社長であった跡田直一が就任し、愛電社長の藍川は副社長となることが内定した。合併比率は名岐1対愛電1の対等合併とされた。

合併期日は1935年(昭和10年)8月1日と決定したが、新会社の社長就任が内定していた跡田が同年7月17日に死去したため、急遽藍川が繰上がる形で現・名古屋鉄道の初代社長に就任した。このことを指して、旧名岐の社員からは「愛電による名岐乗っ取り」との声も聞かれたという。旧名岐の社員であった土川元夫(後に名鉄社長・会長を歴任)は自身の自叙伝において、合併契約により取締役に次ぐ上級部長職である理事職(現在の執行役に近い職位)の割り当てを受けていたが、合併後に「お前はまだ若いから」との藍川の一言で降格され、他の旧名岐社員も同様に左遷されたことを振り返っている。

両社の合併によって現・名鉄という中核企業が発足した愛知・岐阜両県では、陸上交通事業調整法施行後も法律(強制統合)の直接的な対象とはならず、名鉄を中心とした鉄道事業者統合は、戦時体制への移行という時流の要請に沿って、その多くが事業者間の合意によって自発的に行われた。これは周辺の鉄道事業者の多くが名鉄と資本的な繋がりを有する、または名鉄の子会社であったことが最たる要因として挙げられる。もっとも、名鉄と資本的繋がりを持たない独立系事業者であった瀬戸電気鉄道および三河鉄道の合併に際しては交渉が難航し、後者については鉄道省による仲介の末、ようやく合併に漕ぎ着けている。

戦中・戦後の動き

合併後の名鉄は最初の課題として、旧名岐鉄道路線(西部線)と旧愛知電気鉄道路線(東部線)の連絡線建設を進め、当時の省線(現JR)名古屋駅の移転跡地を譲受し、そこに新ターミナルとして地下駅の新名古屋駅(現・名鉄名古屋駅)を建設・開業し、新���名鉄(東西連絡)のシンボルとした。

新駅には手狭になった西部線のターミナル押切町駅を置き換える目的もあったため、まず西部線から建設を進め、次第に物資統制が厳しくなる中にあって1941年(昭和16年)に完成・開業させ、その後、東部線のターミナル神宮前までの路線建設に着手し、1944年(昭和19年)に連絡線が開通した。その間、太平洋戦争の開戦など情勢は日増しに悪化する中、戦時緊急整備路線の指定を受けて鉄道省(当時)の全面的な協力を得たものの、それでさえ建設資材の調達には困難をきわめ、不要不急路線・設備の転用を図り、さらには新名古屋 - 山王間の高架橋部分を一部木材で代用するなど、急場しのぎの工事であった。また、線路は一応繋がったものの、当初同時期に予定された西部線の昇圧工事はこの情勢では見送らざるを得ず、金山駅を境にして以西は架線電圧が600Vに据え置かれ、結局、架線電圧が1500Vの東部線とは直通運転ができないままに終戦を迎えた。なお、当初計画では、新名古屋駅地上には本社を兼ねた駅ビルの建設も予定していたが、情勢悪化を受けて基礎部分の対応工事のみに留められた。

終戦直後は、名鉄も他の各私鉄・国鉄(当時)と同様に車両や設備の疲労・消耗が激しく、定時運行も侭ならない、さらには満足な資材とて揃わない中ではあったが、いち早く西部線の主要各線を東部線と同じ1500Vへ昇圧する工事に着手し、東西路線の一体化を戦後復興の第一目標に据えて取り組んだ。この結果、戦災の傷が未だ癒えない1948年(昭和23年)には第一次の昇圧工事が完成し、新岐阜(現、名鉄岐阜)・新鵜沼・津島 - 新名古屋 - 神宮前 - 豊橋・常滑間などが一体的に運営(直通運転)されるようになり、現在の運行形態の基礎が出来上がった。

なお、合併前の1929年(昭和4年)にも先述の「名古屋地下鉄道」として直通路線の構想は存在したが、着工までに至らなかった。

名鉄グループの形成

名鉄名古屋駅・名鉄百貨店本店

戦後の混乱が収まるに連れて、名鉄も他の大手私鉄と同様に事業の多角化を図るようになり、その手始めとして、戦時中に計画が頓挫していた新名古屋駅(現、名鉄名古屋駅)の駅ビル建設に着手して百貨店を併設した。当初の計画では、地元の老舗百貨店松坂屋にテナントとしての出店交渉を進めたが不調に終わり、自前での百貨店経営を決意して、電鉄系百貨店の元祖である阪急百貨店の全面的な協力 を得て1954年(昭和29年)12月に名鉄百貨店を開業し、流通業界へ進出する足掛かりとした。その後も沿線の団地を手始めに名鉄ストアー を開業して、駅の改修に併せて順次出店を進めた。

1960年代になると、沿線各地の開発をはじめ、北陸地方への進出を図るため、現地の鉄道会社を中心に提携を持ち掛けて行った。手始めに福井鉄道を傘下に収め、当時、労働争議で揺れていた北陸鉄道へは労務管理のスペシャリストを派遣して徐々に労使の意識を「名鉄グループ」寄りへと導いていき、後に傘下入りさせるなど、経営に深く関わって行った。富山地方鉄道に対しても経営(資本)参加を持ち掛け、中古車両(3800系=富山地鉄14710形)の融通や看板列車「北アルプス号」の立山駅乗り入れなど様々な経営支援を行ってグループ内への取り込みを図ったものの、良好な会社関係の構築以上には進展せずに終わり、結果として富山県への進出は1980年(昭和55年)頃と大幅に出遅れることとなった。

他の地域への進出は名鉄側からアプローチしたものよりも、先方から経営参加を呼び掛けられる例が多かった。前述の北陸鉄道の争議終結によって「労務管理の土川(名鉄)」と当時社長であった土川元夫の評判が地方交通事業者の間で一気に広がり、経営に行き詰った会社が「立て直し」を依頼するケースが相次いだ。その代表例としては宮城交通網走バスなどが挙げられ、それまで東北・北海道には進出の足掛かりも無かっただけに、名鉄側も積極的に応じた。また、海外への進出も手掛けるようになり、香港サイパンミクロネシアには現地法人(観光施設・ホテルなど)を次々に立ち上げていった。

名鉄本体から現業(保守)部門を分社化する形で独立させた事業がある。鉄道の車両保守部門を分社化した「名鉄住商車両工業」、信号部門を独立させた「名古屋電子エンジニアリング」、バスの整備部門をグループのトラック・タクシーや一般車(自家用車)にも開放した「名鉄自動車整備」など、従来の鉄道・バス関連の保守事業で培った技術を使い、他社・一般向けの仕事も請負うことで独立採算制を確立させるなど、ユニークな試みも行われた。また、分社化に際しては名鉄の100%子会社とはせず、それぞれ関係の深かった取引先からも出資を募って『合弁企業』の形態を取った例 も多く、その点でも、昨今の私鉄各社に見られる保守部門等の分社化とは一線を画すものであった。

本業への回帰

1973年(昭和48年)のオイルショックを境に低成長時代となり、名鉄も事業計画を大幅に見直さざるを得なかった。喫緊の課題として自家用車から転移した影響による通勤客の著しい増加に対応するため、事業投資も路線・車両・駅施設の整備など本業優先となり、本格的な「大都市圏鉄道」へと脱皮を促すきっかけとなった。それまでの名鉄は快適な車内設備(クロスシート車)にこだわり、いわゆる『通勤型車』(3扉以上のロングシート車)を持たない 大手私鉄として有名であったが、東急から純通勤車(3880系=東急3700系)を緊急導入したのをきっかけに、1976年(昭和51年)以降は本格的な『通勤車』の導入(6000系)を開始し、朝夕の通勤輸送に本腰を入れて取り組むようになった。他にも、名古屋本線を中心に待避設備の整備を加速して列車設定(ダイヤ)の自由度を上げ、犬山線を中心に各駅ホームの有効長延長に取り組むなど旧弊な路線設備の刷新を行ない、同時に駅建物の重層化(駅ビル建設)による不動産価値(賃貸料収入)の増大も志向した。

本業に多額の設備投資を続けざるを得ない中にあっても、運輸省(当時)が採った公共料金抑制政策の影響もあり、旅客運賃は長らく他の大手私鉄と同列に扱われ続け、名鉄特有の事情(多くの不採算路線の保有)から独自の運賃改定の必要性を訴え続けていたが、なかなか認められなかった。そんな中、1974年(昭和49年)の運賃改定では、他の私鉄にはない広範囲な擬制キロ(不採算路線の営業キロ割増し)を設定し、1983年(昭和58年)には大手私鉄では初めて単独での運賃改定が認められた。以降の運賃改定は徐々に名鉄特有の事情が認められるようになり、それに比例して老朽化した旧型車の取り替えや駅設備の近代化・整備が進められた。

グループ企業についても、低成長時代に合わせて全国的な展開より本業(鉄道・バス)に付随する関連事業への深度化が進められ、駅ビル建設に伴って名鉄ストアーの出店を加速するなど流通事業への進出強化や、保有する広大な山林を開発して宅地分譲を行う不動産事業など、また、貨物輸送の終焉による駅周辺の遊休地を利用してスイミングスクールを始めスポーツ・健康産業への進出など、名鉄沿線に密着した事業展開へと拡大の方向性にも転換が見られた。

事業の選択と集中

昭和後期から平成初期にかけてのバブル景気の頃は、新舞子・蒲郡など海辺を中心として沿線開発にも一層拍車が掛かり、沖縄など遠隔地でもリゾート開発事業を手がけるなど、高度成長期と同様に手を伸ばせるだけ伸ばした感のあった名鉄グループであったが、新規事業は既存の事業の延長線上に展開された事例が多く、また、事業開発の面においては先発組より後発組に属することが多かった。このため、いわゆる『先行利得』を享受できたものは僅かであり、グループ内の事業規模(売上)は拡大したものの、利益面での貢献は期待したほどの成果をもたらすまでには至らなかった。

一方で、鉄軌道路線の整理縮減も再び開始され、1988年(昭和63年)に岐阜市内線の一部を廃止したのを皮切りに不採算路線の廃止を漸次進め、最終的には全営業路線の約1/5に相当する路線の廃止を行った(「閑散線区の合理化・廃止」も参照)。これは、バブル後『失われ���10年』による経済環境の厳しさに加えて、国鉄からJRへ移行した後の猛烈な巻き返し(JR東海との旅客争奪戦)への対抗上、名古屋本線をはじめとする主要路線の設備投資に経営資源を集中させる必要と、収支悪化に伴って不採算路線への内部補助(赤字補填)が利益を圧迫しはじめた影響によるもので、全体の事業継続のためには廃止せざるを得ない路線に対して、沿線市町村との話し合いを行いつつ進められた。

1990年代バブル崩壊後には非鉄道事業への投資が徐々に負担となり、事業の選択と経営資源(人材・資本など)の集中を余儀なくされた。手始めとして関連会社の整理・統合が行われ、グループ内で同様の事業を行っている会社同士を統合して間接費用(後方事務・管理部門等)の圧縮を試み、採算が悪化した事業(会社)の整理が行われた。

1999年(平成11年)3月期決算では名鉄総合企業の資金運用損失(株式譲渡損)180億円の計上をはじめ、文化レジャー事業やリゾート事業の収益低下により230億円の連結決算上の赤字となり、文化レジャー事業の一部施設の閉鎖が検討されるようになる。また、名鉄本体のスリム化に手をつけ、不採算路線の多いバス事業の分社化を積極的に進め、現在のバス事業をすべて分社化した形の基礎を築いた。

2002年(平成14年)9月には、不採算事業の撤退による固定資産売却損などの特別損失計上により、2003年(平成15年)3月期中間配当が1948年(昭和23年)10月期(半年間)決算以来55年ぶりの無配となる事態が発生。同3月期決算においては598億円の経常損失を計上し、55年ぶりに名鉄単体での赤字決算となった。これにより2003年(平成15年)1月に、不採算が続いた文化レジャー事業とバス事業を中心としたリストラ・事業分社化を柱とした2006年(平成18年)3月期までの経営合理化策を発表し、実行に移した。

愛知万博と空港線開業

2005年(平成17年)に開催された『愛・地球博』(愛知万博)を契機として東海地方の交通再編が行われることとなり、その目玉として中部国際空港の開港が決定され、それに伴って名鉄も空港輸送を中心とした体制へと再編することになった。空港線の建設は名鉄が直接的な形では行わず、空港の関連事業の一環として『中部国際空港連絡鉄道株式会社』を設立して、同社が建設を行った。名鉄は空港線を第2種鉄道事業者(路線を借受け運行のみを担当)として営業し、フィーダーとなる常滑線に関しては徹底的に路盤強化・カーブの付け替えなどを行い、空港連絡特急用車を用意するなどの設備投資を積極的に行った。

その後も車両・駅設備のバリアフリー・安全機能の対応などをはじめ、名鉄の特徴であった2扉クロスシート車の廃車(置き換え)を積極的に進めるなど、都市間連絡輸送から都市圏輸送を主体とした輸送形態への変更を推進している。また、IC乗車券への対応を前提とした駅設備・自動改札機の整備も併せて行い、鉄道運営に関する総コストを圧縮するための設備投資を中心に行っている。これに関連して、車両設計においても鉄道会社独自の事情を考慮したフルオーダー設計から東日本旅客鉄道(JR東日本)が提唱した標準設計・部品に基づく車両の新造導入により、イニシャルコスト(車両単価)の圧縮も志向している。 加えて、関連会社の整理・統合もさらに推し進め、以前に分社化した車両現業部門の再統合(名鉄住商工業の名鉄本体への吸収・直轄事業化)や、福井鉄道パレマルシェ(旧名鉄ストアー)など不採算子会社・事業の譲渡を行い、他の私鉄各社と同様に名鉄グループ全体の採算性向上と連結決算利益を重視する経営に向けて一層の徹底を志向している。

2027年度に開業を予定しているリニア中央新幹線に備え、現在の名鉄本社ビル、名鉄百貨店、名鉄レジャックと隣接する近鉄百貨店名古屋店(近鉄パッセ)を再開発することが決定している。これに加え、これらの地下部に存在する名鉄名古屋駅と近鉄名古屋駅を一つのターミナル駅として一体化する方針も打ち出している。

年表

(旧)名古屋鉄道・名岐鉄道

  • 1921年(大正10年)
    • 6月13日 : 名古屋電気鉄道の全額出資 により、(旧)名古屋鉄道株式会社設立。
    • 7月1日 : 名古屋電気鉄道から郡部線部門を譲受(資産の現物出資と郡部線を担当する社員の移籍)。
  • 1923年(大正12年)11月1日 : 蘇東電気軌道(未開業)を合併。同社が保有していた免許線は名鉄の手で蘇東線として開業(後の起線。現在廃止)。
  • 1925年(大正14年)8月1日 : 1896年(明治29年)6月に設立され、現在の尾西線などを当時運営していた尾西鉄道の鉄道事業を譲受。
  • 1927年(昭和2年)11月20日 : 昭和天皇が犬山行幸時に押切町 - 犬山橋間を往復乗車。
  • 1928年(昭和3年)4月10日 : 岐阜へ直接向かう路線の延長を計画し、その第一歩となる名岐線の丸ノ内駅 - 西清洲駅(現新清洲駅)間が開通し、押切町駅 - 新一宮駅(現名鉄一宮駅)間が全通。
  • 1929年(昭和4年)4月1日 : 現在の小牧線などの免許を保有していた城北電気鉄道、尾北鉄道の事業を譲受。
  • 1930年(昭和5年)
    • 8月20日 : 1909年(明治42年)11月に設立され、廃止された岐阜市内線などを当時運営していた美濃電気軌道を合併。
    • 9月5日 : 名古屋鉄道が名岐鉄道株式会社に社名変更。
  • 1932年(昭和7年)10月8日 : 鉄道省(当時)高山線直通の温泉客用定員制列車「下呂行直通特急」(柳橋 - 下呂間)を運転開始(大戦末期に中止)。
  • 1935年(昭和10年)
    • 3月28日 : 1924年(大正13年)4月に設立され、現在の各務原線を当時運営していた各務原鉄道を合併。
    • 4月29日 : 木曽川橋梁の完成により名岐線の新一宮(現・名鉄一宮) - 笠松間が開通し、押切町 - 新岐阜(現・名鉄岐阜)間が全通。新製車のデボ800形電車を用いて、同区間を34分で結ぶ直通特急を設定。

愛知電気鉄道

  • 1906年(明治39年)12月4日 : 藍川清成らが「知多電気鉄道」として私設鉄道法による熱田 - 常滑間の免許を申請。
  • 1909年(明治42年)9月23日 : 「知多電車軌道」に改め軌道条例による特許申請に切り替え。
  • 1910年(明治43年)
    • 8月3日 : 軽便鉄道法による免許申請に切り替え。
    • 11月21日 : 知多電車軌道が名称変更し、愛知電気鉄道株式会社設立。
  • 1912年(明治45年)2月18日 : 初の路線である、伝馬町(現在廃止、名古屋市熱田区) - 大野間(現・大野町駅)が開業。
  • 1913年(大正2年)8月31日 : 現在の常滑線にあたる、神宮前 - 常滑間が全線開業。
  • 1917年(大正6年)3月19日 : 名古屋本線の東側の第一歩にあたる、有松線(現名古屋本線の一部)神宮前 - 笠寺(現・本笠寺)間開業。
  • 1922年(大正11年)7月8日 : 1919年(大正8年)9月に設立され、御器所(名古屋市昭和区) - 下地町(豊橋市)間の鉄道免許を得ていた東海道電気鉄道を合併。
  • 1926年(大正15年)
    • 4月1日 豊橋線(現名古屋本線の一部)東岡崎 - 小坂井間開通。豊川鉄道の豊川まで直通運転を開始。
    • 12月1日 : 1910年(明治43年)2月に設立され、現在の西尾線西尾駅以南や廃止された平坂支線などを当時運営していた西尾鉄道を合併。
  • 1927年(昭和2年)6月1日 : 伊奈 - 吉田(現・豊橋)間開業により、神宮前 - 吉田間全通。豊川鉄道との相互乗り入れ(双方の単線を相互利用して複線運転)を開始。新製の電7形電車を用いて、直通急行(1往復のみ特急)運転開始。このとき特急は63分、急行は72分運転であった。なお、この特急の表定速度は当時日本一となる59km/hを誇った。
  • 1930年(昭和5年)
    • 4月30日 : 電鉄事業と並ぶ主力事業であった電灯事業(電力供給)を愛知電力に譲渡(翌年に東邦電力へ譲渡)。
    • 9月20日 : デハ3300形電車を用いて、神宮前 - 吉田間を57分で結ぶ超特急「あさひ」運行開始。
    • 10月30日 : 1927年(昭和2年)9月に設立され、豊橋 - 気賀間の鉄道免許を得ていた遠三鉄道の免許を譲受。
  • 1934年(昭和9年)5月1日 : 神宮前駅本屋を東海道線の西側に新築移転。

名古屋鉄道

戦前・戦中

  • 1935年(昭和10年)8月1日 : 名岐鉄道と愛知電気鉄道が合併し(新)名古屋鉄道株式会社が発足(形式上は名岐鉄道が存続会社となって(新)名古屋鉄道と改称し、愛知電気鉄道は解散した)。
    • この日より、旧「名岐鉄道」の各線を「西部線」、旧「愛知電気鉄道」の各線を「東部線」と総称した。
  • 1938年(昭和13年)5月10日 : 現在の中央道特急バスの前身となる、名古屋 - 飯田間の急行バスを飯田街道国道153号線)経由で運転開始(1941年8月休止、1952年7月再開)。
  • 1939年(昭和14年)9月1日 : 1902年(明治35年)3月に設立され、現在の瀬戸線を当時運営していた瀬戸電気鉄道を合併。
  • 1940年(昭和15年)9月1日 : 1922年(大正11年)3月に設立され、現在の豊橋鉄道渥美線を当時運営していた渥美電鉄を合併。
  • 1941年(昭和16年)
    • 6月1日 : 1912年(明治45年)5月に設立され、現在の三河線などを運営していた三河鉄道を合併。
    • 8月12日 : 新名古屋地下トンネルが竣工。東枇杷島駅(移設) - 新名古屋(現、名鉄名古屋)駅間を開業。「郡部線」当時からのターミナルであった押切町駅 - 東枇杷島駅間と柳橋駅までの市電乗り入れを廃止し、国鉄(現JR)名古屋駅前に地下線(駅)で乗り入れる。
  • 1943年(昭和18年)
    • 2月1日 : 1927年(昭和2年)10月に設立され、現在の河和線を運営していた知多鉄道を合併。
    • 3月1日 : 1926年(大正15年)9月に設立され、現在の広見線新可児駅以東などを当時運営していた東美鉄道と、1919年(大正8年)11月に設立され、現在の竹鼻線を当時運営していた竹鼻鉄道を合併。
    • 8月11日 : 子会社の名鉄自動車へ名鉄直営のバス事業を譲渡・統合。同時に愛知県内の尾三自動車ほか4社も名鉄自動車が合併。
  • 1944年(昭和19年)
    • 3月1日 : 以下4社を合併。
      • 1925年(大正14年)5月に設立され、現在の西尾線西尾駅以北などを運営していた碧海電気鉄道
      • 1924年(大正13年)1月に設立され、廃止された谷汲線を当時運営していた谷汲鉄道。
      • 1896年(明治29年)2月に設立され、飯田線の一部として運営路線が国家買収されていた豊川鉄道(証券類等事務上の処理のみ)。
      • 1921年(大正10年)9月に設立され、飯田線の一部として運営路線が国家買収されていた鳳来寺鉄道(同上)。
    • 9月1日 : 旧名岐鉄道系の路線(西部線)と旧愛知電気鉄道系の路線(東部線)が、金山駅(翌1945年に金山橋駅に改称。現・金山駅)で繋がる。

戦後

  • 1945年(昭和20年)12月10日 : GHQ(駐留軍)の指導により、名古屋鉄道労働組合(名鉄労組)を結成。
  • 1947年(昭和22年)6月10日 : 名鉄自動車を譲受。バス事業をすべて名鉄直営とする。
  • 1948年(昭和23年)5月16日 : 白紙ダイヤ改正。西部線の主要路線を東部線と同じ1500Vへ昇圧し、東西路線の直通運転を開始。
    • この日より、新岐阜(現名鉄岐阜)駅 - 豊橋駅間を「名古屋本線」と名称変更(全線に亘って路線名を見直し・変更)。
  • 1950年(昭和25年)4月25日 : 飯田線への直通運転を不定期列車で再開(1954年小坂井支線と共に廃止)。
  • 1952年(昭和27年)4月10日 : 創業記念日を(旧)名古屋鉄道の設立日である6月13日に制定。
  • 1954年(昭和29年)10月1日 : 渥美線を豊橋鉄道へ譲渡。
  • 1957年(昭和32年)7月29日 : 名鉄ビル全館完成。本社事務所をビル内に移転、業務開始。
  • 1958年(昭和33年)3月16日 : 庄内川橋梁を新橋梁へ切り替え。これにより名古屋本線の最急曲線を緩和し、枇杷島分岐点の通過速度を20km/hから40km/h(後に50km/h)へ引き上げ。
  • 1959年(昭和34年)
    • 4月1日 : 白紙ダイヤ改正5500系電車が登場し、量産車としては日本国内初となる料金不要冷房車の運行を開始。また、知立駅新設(移転)・配線変更により、名古屋方面から三河線への直通列車を増発。
    • 9月26日 : 伊勢湾台風により各路線で被害。なかでも常滑線尾西線の一部区間は高潮により長期間水没した。常滑線は11月15日(単線での仮復旧)、尾西線は11月23日に開通。
  • 1961年(昭和36年)6月12日 : パノラマカー7000系電車)が就役し、名古屋本線の特急に投入される。これにより、最高運転速度を110km/hに引き上げ認可・運行開始。
  • 1962年(昭和37年)3月21日 : ラインパーク(現・モンキーパーク)モノレール線、日本国内初の跨座式モノレールとして開通。
  • 1965年(昭和40年)
  • 1967年(昭和42年)
  • 1969年(昭和44年)6月1日:津島駅に定期券専用の自動改札機を設置。光学読取式であったが、その後、磁気券式自動改札機が主流になったため、1975年以降、撤去された。
  • 1970年(昭和45年)
    • 6月25日 : 田神線が開通、モ600形電車を使用して新岐阜駅 - 美濃駅間の直通運転を開始。世界的にも稀有な軌道車両による鉄道線乗り入れが始まる。
    • 11月20日:新岐阜駅に定期券専用自動改札機(光学読取式)を設置。津島駅同様、1975年以降に撤去。
  • 1971年(昭和46年)
    • 3月31日 : 日本民営鉄道協会(民鉄協)を脱退(1982年8月に民鉄協へ復帰)。
    • 9月1日 : 名鉄と住友商事が共同出資で名鉄住商車両工業(後に名鉄住商工業に社名変更)を設立。日本国内で初めて車両保守部門を分社化し全面委託を行う。
  • 1973年(昭和48年)8月18日 : 岐阜市内線でワンマン運転を開始。

オイルショック後(高度経済成長期終焉後)

  • 1974年(昭和49年)9月17日 : 白紙ダイヤ改正。点輸送(拠点駅間の速達輸送重視)から線輸送(中間駅を含む相互駅間輸送重視)への転換を図り、特急を格下げして急行を増発。
  • 1975年(昭和50年)8月24日 : 中央自動車道・中津川 - 駒ヶ根間開通を機に、一般道経由で運行していた「名飯急行バス」を高速経由に改めた「中央道特急バス(現・中央道高速バス)」として開業。直営では初の高速バス路線(事業)となる。
  • 1976年(昭和51年)12月 : 名鉄初の本格的な3扉通勤車6000系登場。第1次オイルショック後に急増した通勤客輸送で威力を発揮し、名鉄における「通勤車」の地位を確立。M式自動解結装置自動電気・空気連結器)運用開始。
  • 1977年(昭和52年)3月20日 : ダイヤ改正。座席指定特急のみを「特急」とし、料金不要の特急を「高速」に種別変更(1度目の特急料金政策変更)。
  • 1978年(昭和53年)8月20日 : 瀬戸線東大手 - 栄町間の地下新線が開通。長年の悲願であった名鉄線の栄新都心への乗り入れが実現。合わせて、栄町・東大手の両駅に名鉄の駅では初めて磁気券方式の自動改札機を導入。
  • 1979年(昭和54年)7月29日 : 豊田新線が開通。名古屋市営地下鉄鶴舞線との間で名鉄初の都市型相互直通運転を開始。
  • 1982年(昭和57年)3月21日 : ダイヤ改正。7000系5編成を名鉄初の線内特急の専用車(通称白帯車)に改造・運用開始。以降、特急運用の専用車化を進め、1988年(昭和63年)に特急専用車1000系「パノラマSuper」を新造・登場させるきっかけとなる。
  • 1983年(昭和58年)
    • 6月10日 : 特急列車に女性乗客係(正式な乗務員としては戦後国内初)が乗務を開始。以降、順次増員を進めて早朝・深夜をのぞく全特急列車(指定席)に乗務となる。
    • 11月24日 : 特急座席管理システム完成、座席指定券のオンライン発売(前売)を開始。12月1日の全列車から機械発券に切り替え。
  • 1984年(昭和59年)
    • 1月1日 : 貨物営業を廃止。ただしその後も鉄道車両の輸送が行われている(後述)。
    • 3月20日 : ダイヤ改正。全線を網羅した「名鉄電車・バス時刻表」(現・「名鉄時刻表」)を初刊行。以後、2011年12月17日改正までダイヤ改正毎に刊行。
  • 1985年(昭和60年)3月14日 : ダイヤ改正。前年に八百津線へ導入した軽量気動車「LEカー」を、広見線(新可児 - 御嵩間)・三河線(猿投 - 西中金間)にも導入・本格運用を開始し、ワンマン運転を実施。
  • 1987年(昭和62年)
    • 2月12日 : 白紙ダイヤ改正。支線直通列車を増発。
    • 3月23日 : 新名古屋駅(現・名鉄名古屋)全面改装工事完成。これにより、普通乗車券を含めた自動改札機の本格使用を開始(以降、主要駅の自動改札化を進める)。
  • 1988年(昭和63年)5月12日 : 全日本空輸・名鉄グループ各社の共同出資で中日本エアラインサービス (NAL) を設立。コミューター路線の開拓に着手。
  • 1989年(平成元年)7月9日 : 金山総合駅完成。東西連絡線開業時からの金山橋駅を移転し、駅名も「金山」に改称し全列車停車駅に昇格。新名古屋駅乗り入れ列車に限り100%冷房化。
  • 1990年(平成2年)
    • 4月1日 : 名鉄初のプリペイドカード「パノラマカード」を発売開始、名古屋本線金山 - 神宮前間の複々線化完成。
    • 6月8日 : サンライズバス設立。同年10月1日に名鉄バス蒲郡営業所(名古屋鉄道蒲郡自動車営業所)を移管し、採算(存続)の難しいバス路線を分社化する嚆矢となる。
    • 8月 : 特急専用車(1000系)増備により、名古屋本線特急の、最高速度120km/h運転を開始。
    • 10月29日 : ダイヤ改正。本線特急を指定席車と自由席車併結(一部指定席化)とし、自由席特急の性格を持っていた「高速」を統合(2度目の特急料金政策変更)。また、瀬戸線以外の準急を急行へ統合し、停車駅の見直し(特別停車駅による停車駅調整)を行う。またこの改正より民鉄で初めて前照灯の昼間点灯を開始。

バブル崩壊後(安定成長期終焉後)

  • 1991年(平成3年)4月21日 : 片道普通乗車券の様式を、郡部線開業時より続いた行先表示から金額表示式へ変更。これにより切符売場の券売機を更新(これ以前には新名古屋駅では方面別に券売機を分けていたが、この変更により方面別での区分けを廃止し、同駅の全券売機で自社線全方面の行先を購入可能に変更)。
  • 1992年(平成4年)
    • 4月1日 : CI導入、シンボルマーク、コーポレートカラー(メイテツブルー)などを制定。
    • 11月24日 : 白紙ダイヤ改正。1000-1200系の増備に伴い一部指定席車編成を特急専用車両に統一。
  • 1993年(平成5年)8月12日 : 上小田井駅周辺の連続立体化工事完成により、犬山線も地下鉄鶴舞線と相互直通運転を開始。
  • 1994年(平成6年)6月 : 創業100周年を記念し、岐阜県可児市に名鉄資料館が開館。
  • 1996年(平成8年)4月8日 : ダイヤ改正。旧型(非冷房)車淘汰により1500V路線の全車冷房化を達成。
  • 1998年(平成10年)6月1日 : 西尾線・蒲郡線(西尾 - 蒲郡間)でワンマン運転を開始(1500V線区では初。2008年以降は蒲郡線のみとなる)。
  • 1999年(平成11年)
    • 4月1日 : 美濃町線(新関 - 美濃)を廃止。
    • 5月10日 : ダイヤ改正1600系(現・1700系)が運行開始。併せて、従来の「指定席車」(座席指定券)を「特別車」(特別車両券「ミューチケット」)へ変更する制度改正も実施。また、1990年代を通じて展開されたJR東海とのスピード競争 は本改正で終息となる。
    • 10月 : 名鉄バス加木屋管理所を知多乗合(知多バス)へ移管。
  • 2001年(平成13年)10月1日 : 特急「北アルプス号」を廃止。これをもって36年間継続した(名岐鉄道の乗り入れ開始から中断をはさんで49年目を数えた)高山本線への直通運転が終了。同時に揖斐線(黒野 - 本揖斐)、谷汲線、八百津線、竹鼻線(江吉良 - 大須間)を廃止。
  • 2003年(平成15年)3月27日 : 上飯田連絡線が開通、小牧線と新規開業の地下鉄上飯田線への直通運転を開始。同時にSFカードシステム「トランパス」を小牧線に導入(SFパノラマカード発売開始)。以後、順次「トランパス」導入路線(駅)の拡大を進める。また、前後駅に建設されていた待避線の使用を開始し、急行などの頻度が増えた。2003年度は車両の新造が全く行われない異例の年となった。
  • 2004年(平成16年)
    • 4月1日 : 三河線西中金 - 猿投間、碧南 - 吉良吉田間を廃止。
    • 5月11日 : 名鉄の全額出資会社として「名鉄バス」を設立。10月1日付で路線バス部門 を全面的に「名鉄バス」へ移管。また、岐阜市内・近郊路線は岐阜乗合自動車(岐阜バス)へ譲渡。
    • 10月1日 : 創業110周年記念事業 「名鉄お客さまセンター」営業開始。
  • 2005年(平成17年)
    • 1月29日 : 白紙ダイヤ改正空港線が正式開業し、2000系「ミュースカイ」・2200系が運行開始。また、定期列車���して初めて豊橋駅から常滑線への直通特急列車を設定。同年2月中部国際空港開港により空港連絡鉄道としての使命を担う。
      • 特別停車などで曖昧だった列車種別を、今までの“特急急行・普通”の3種別から“快速特急・特急・快速急行・急行・準急・普通”の6種別に分割し、例外を極力減らして各種別の停車駅を明確化した。
      • 空港線開業と同時に、新名古屋新一宮新岐阜の3駅を「新◯◯」から「名鉄◯◯」に改称する駅名変更を行う。
      • 空港線開業による改正で、利用者が少ない特急列車の廃止や各列車の運行区間縮小など輸送力の見直しも実施。
    • 2月1日 : 豊橋 - 金山・名鉄名古屋間の2枚組回数乗車券「なごや特割2平日」「なごや特割2土休日」発売開始。
    • 4月1日 : 岐阜600V線区(岐阜市内線・揖斐線・美濃町線・田神線)を全廃し、全線が直流1500V電化の路線となり、併用軌道が存在せず事実上「鉄道線」として運行されている豊川線をのぞき、軌道線(いわゆる路面電車路線)が消滅。これにより総営業キロが東武鉄道 (463.3 km) を下回り、JR以外の民鉄第2位から第3位に後退。
  • 2006年(平成18年)
    • 4月29日 : ダイヤ改正にあわせ名古屋本線(伊奈駅 - 黒田駅間)など9線区130駅に、乗車駅の磁気情報を記録する「乗車券確認システム」を導入。
    • 9月 空港特急「ミュースカイ」をのぞく全特急列車を一部特別車編成とする、特急政策の見直し計画を発表。
  • 2007年(平成19年)6月30日 : ダイヤ改正。犬山線 - 河和線直通系統の特急列車の約半数を、一部特別車編成に置き換える。
  • 2008年(平成20年)
    • 12月27日 : ダイヤ改正。パノラマカー7000系が定期運行を終了。中部国際空港連絡への速達列車「ミュースカイ」以外は全特急(快速特急)が一部特別車編成で運行となる。2006年に発表した特急政策の見直しが完了。
    • 12月29日 : 福井鉄道福武線の赤字補填と存続問題の解決策として、同社に対して1株(10億円)の増資を行うと同時に、保有する全福井鉄道株を沿線の支援団体や第三セクターに1株1円で譲渡し、福井鉄道の経営から撤退。これにより福井鉄道は名鉄グループではなくなった。
  • 2009年(平成21年)
    • 4月1日 : 豊橋 - 金山・名鉄名古屋間の2枚組回数乗車券「なごや特割2平日」の発売価格を1,800円から1,700円に値下げ。
    • 5月9日 : 定額給付金の支給に合わせて1セット12,000円(SFパノラマカード2,000円分、名鉄百貨店商品券10,000円分、名鉄百貨店特別お買物券1,000円分)を4000セット発売。
  • 2010年(平成22年)9月16日 : 携帯位置登録ゲーム「コロニーな生活☆PLUS(以下コロプラ)」のキャンペーン「日本縦断!花いっぱい位置ゲーの旅」に参加。
  • 2011年(平成23年)
    • 2月11日 : ICカードmanacaを、蒲郡線と広見線をのぞく全線に導入。
    • 3月26日 : ダイヤ改正。朝ラッシュ時における特急需要に対応。
    • 3月29日 : ファミリーマートと基本契約書を締結。
    • 6月14日 : コミュニケーションスローガン『ココロをつなぐ、あしたへはこぶ。』を策定。
  • 2012年(平成24年)
    • 2月29日 : トランパス、バスカードの利用終了。回数乗車券の販売終了(特殊割引回数券をのぞく)。
    • 4月:神宮前駅東口に鉄道センタービル竣工。これに伴い、鉄道事業本部の管理部門を名鉄バスターミナルビルから鉄道センタービルへ移転。
    • 4月5日 : コロプラとタイアップ第2弾「乗り物コロカ付き1DAY フリーきっぷ」発売。
    • 4月21日 : manacaについてJR東海のTOICAとの相互利用を開始。
  • 2013年(平成25年)3月23日 : IC乗車カード全国相互利用開始で、KitacaPASMOSuicaICOCAPiTaPanimocaはやかけんSUGOCAが利用可能になる。
  • 2014年(平成26年)
  • 2016年(平成28年)3月中旬以降 : 駅ナンバリングを導入。
  • 2017年(平成29年)
    • 3月29日 : 名古屋地区再開発全体計画を発表。
  • 2019年令和元年)

沿革

沿革図

鉄軌道事業

路線図(クリックで拡大)

路線

1894年(明治27年)の創業時は市内路線の敷設に注力していたが、1912年(大正元年)に郊外路線へ進出後は主に尾張地方北部に路線を伸ばしていった。その後、市内路線を名古屋市へ譲渡するため1921年(大正10年)に郊外路線のみを独立(旧名古屋鉄道設立)させ、1930年(昭和5年)には美濃電気軌道を合併(名岐鉄道へ改称)して岐阜県南部へ進出し、1935年(昭和10年)には尾張地方南部・三河地方に路線を伸ばしていた愛知電気鉄道と合併(名古屋鉄道へ再び改称)し、第二次世界大戦中には愛知・岐阜県内の中小鉄道を合併(吸収)して現在の路線網が完成した。

営業キロ数は、鉄道線437.0 km、軌道線7.2 km の合計444.2 km、駅数は275駅におよび(2014年3月31日現在)、本拠地・愛知県内では高密度に路線が配置されている。幹線からローカル線に至るまで様々な性格の路線を抱えており、路線1キロあたりの利用客や収入に関する比率は日本の大手私鉄の中では最下位である。総距離に対する幹線(例えば名古屋本線)が占める割合は他の長大私鉄より比較的低く、多くの支線が分散する路線網からかつては「ミニ国鉄」と揶揄されることもあった。

2000年以降の600V線区を始めとする相次ぐ赤字路線廃止が始まるまでは、JRをのぞく日本の民鉄の中で営業距離は近鉄に次ぐ2位、駅数は1位 であったが、2005年(平成17年)4月以降は営業距離では近鉄・東武に続く3位、駅数では近鉄に次ぐ2位となっている。なお、過去には何度か営業キロが1位となった時期があり、1941年(昭和16年)に三河鉄道(99.9 km)を合併して営業キロが500kmを超えた時 がその初めである。これは戦前の交通統合(合併)が関東・関西地区と比べて先行したことが影響している。その後名鉄は1位ではなくなるが、東武が伊香保軌道線の一部廃止を始めた1953年度から再び最長私鉄となり、1965年に近鉄が三重電気鉄道を吸収合併するまで私鉄営業キロ1位を維持していた。

2003年から駅集中管理システムを、また乗車券確認システム2005年6月29日から小牧線に、2006年4月29日から名古屋本線はじめ主要9線区に導入し、一部区間をのぞく全線に順次導入を進めるなど合理化を加速させている。


※廃止路線は「閑散線区の合理化・廃止」の節を参照のこと。

路線網配置

多数の列車が往来する枇杷島分岐点

名鉄の路線網の特徴は、名古屋を中心に岐阜・犬山・常滑・豊橋方面の四方に支線が広がっていることである。支線から名古屋市内へ直通する列車の多くは名古屋市内を通過した後に反対側の支線に入るという運行形態をとり、中核駅(ターミナル)の名鉄名古屋始発・終着となる列車は東西直通運転を始めた1948年以降、伝統的に多くは設定されていない。営業運転上は同駅止まりであっても、同駅で折り返しを行う列車は皆無であり、回送を含めたダイヤ上ではすべての列車が進行方向を変えずに運行している。

この運行形態は、名鉄名古屋駅を通過する乗客には乗り換える必要がなく、3面2線の駅構造で最大限の列車本数を設定できるメリットがある反面、行先が多方面に亘ってダイヤが複雑化したり、各支線の列車が集まる金山 - 枇杷島分岐点間は複線のままであるため、日中時間帯も過密ダイヤとなる等の短所も抱える。また、ある路線が事故などでダイヤが乱れると間を置かずに他の路線へも波及したり、運転を見合わせる区間が広範囲に及ぶ弊害もある。

1990年に行った神宮前 - 金山間の複々線化により、名古屋市内の第2ターミナルとして金山駅が整備され、金山駅発着(または折り返し)で名鉄名古屋へ向かわない列車が多数設定されるようになった。しかし、名駅地区の開発などを反映して、2008年以降は名鉄名古屋 - 金山以東の列車が増加傾向にある。また、近年では全体的な乗客の減少やワンマン化が影響して、名古屋本線から支線へ直通する列車は最盛期に比べると減少傾向にある。

なお、瀬戸線は名鉄他線とは接続がない孤立路線であり、他線とは性格が異なっている。

方面別案内

名鉄では、旅客案内上「方面」名称を多用する。これは名鉄名古屋駅を中心として広がる路線網の展開する地域ごとに区分けしたもので、警察や軍隊における「方面」(方面本部、方面隊など)に似た概念である。2018年3月現在は公式サイトでは13方面が設定されている。このほか「羽島方面」が長らく記載されてきた。

これは前述の通り路線にかかわらず名鉄名古屋駅を直通する運転形態を重視している事情による。2000年代中頃までの路線図には、路線名ではなく方面名称が記されていたほどであり、沿線住民にも浸透している。名鉄の鉄道路線図は名古屋本線を除きこの方面ごとに色分けがなされてきた伝統があり、現在の名古屋本線以外の路線色(ラインカラー)は概ね方面の色に由来する。三河線の路線色が知立を境に異なるのはこのためである。ただし、名古屋市営地下鉄上飯田線直通開始後の小牧線は独自色となっている(近年のラインカラーの変遷は日本の鉄道ラインカラー一覧#名古屋鉄道を参照)。こうした案内手法を採る日本の鉄道事業者は少なく、西日本旅客鉄道(JR西日本)の路線記号制(2014年 - )京王電鉄の「ゾーンカラー」がやや似ている程度で後者は短期間で廃れている。

現在の路線図は路線名記載となり「方面」の使用は減少傾向にあるが、方面表記を主体とする路線図は名鉄名古屋駅の中央改札口前などにみられる(2018年現在)。

上記とは逆に同一路線でも運行形態が分断されている場合、同一路線を線区別に分ける際に「方面」が用いられることもある。かつて公式サイトでは三河線、尾西線、広見線が方面別に路線が区分されていたが、2019年3月現在は駅名による区間表記に改められている。

路線の特徴

名古屋を軸に各方面へ直通列車を設定する運行体制

路線網配置の節で述べたように、岐阜方面と豊橋方面に支線を持ち、双方が名古屋方面に集中する。岐阜 - 豊橋・犬山 - 常滑など、名古屋駅を経由する電車がほとんどであり、路線が集中する名古屋本線枇杷島分岐点 - 神宮前間は上下共に約2分30秒間隔で行き来する高密度運転区間である。金山 - 神宮前間の複々線では更に常滑線の普通列車が毎時4往復加わり、終日の上下列車本数は1000本を超える。

名鉄の西半分を建設した会社である名岐鉄道は、市内線(路面電車)事業を発展させる形で路線を建設したことから、市内線の市営化後も1941年まで、名鉄の電車が市電に乗り入れて市内の柳橋駅ターミナル駅にしていた。

名古屋本線は古くからの市街地・宿場町を結ぶ目的で敷設された関係から、名古屋電気鉄道の建設した枇杷島橋(現・枇杷島分岐点) - 丸ノ内間、美濃電気軌道の建設した茶所 - 名鉄岐阜間と、愛知電気鉄道の建設した神宮前 - 桶狭間(現・中京競馬場前付近)間は曲線区間が多い。特に名古屋 - 岐阜間では、岐阜駅付近(最小半径100m)を始め、名古屋駅へ乗り入れる枇杷島橋以南の路線も最小半径130m(両者とも戦後に緩和されたがそれでも160m)の急曲線で建設したことから、並行するJR東海の東海道本線に対して所要時間・運賃いずれにおいても相当に不利な条件となっている。同じ名古屋本線でも、郊外の区間では高速運転を前提に敷設し、優等列車が120km/h運転(対応車のみ)を行っているのとは対照的である。

名古屋本線の伊奈 - 豊橋間のうち、平井信号場 - 豊橋間はJR東海飯田線と線路を共用している。1920年代中期、小坂井駅まで到達した名鉄の前身の愛知電気鉄道(愛電)が豊橋への延長を模索するにあたって、飯田線の前身である豊川鉄道が自社に並行する愛電線の建設を遮る動きがあったため、愛電・豊川鉄道がそれぞれ敷設した単線の線路同士を互いに共用することで複線として機能させる協定を結んだ。愛電が名鉄に、豊川鉄道が国鉄からJR東海の路線へとそれぞれ移管された現在でもこの線路共用の協定は継続している。このため同区間は、最高速度が飯田線の規格である85km/hに、豊橋駅の発着番線が1線に、列車乗り入れ本数が毎時6本以内(現行では快速特急・特急・急行とも各2本)にそれぞれ制限されるなど、名鉄ダイヤの大きなボトルネックとなっている。この影響で、毎時2本の急行が国府駅から豊川線へ分かれ豊川稲荷駅で、同様に本線系の普通も伊奈駅で折り返さざるを得なくなっている。一部の豊橋発着列車では、特急列車として運用された列車が急行列車になったり、急行列車として運用された列車が特急列車として運用されたりするケースがある。その際には特急車両を使用するため、特急以外の運用の際は特別車両部分を閉め切って営業している(回送#送り込み列車の例でも記載)。

また、名古屋本線の名鉄岐阜駅ホームに入る直前も単線になっており、東海道線と直接競合する区間の両端にボトルネックを抱えていることになる。

名鉄線で使用されている踏切警報機1980年��から、閃光灯を覆う部分が四角い独特の形状になっている。これは、自動車からの踏切視認性(特に警報時)を考慮したものであり、名鉄の特徴となっている。

乗降人員上位30駅

  • 数値は2013年度の一日平均乗降人員。2013年度は『名鉄120年:近20年のあゆみ』、1992年度は『名古屋鉄道百年史』 に掲載された統計資料による。
  • 増加 減少 増減なし 新規 は1992年度と比較して増 (増加) 減 (減少) 増減なし (増減なし) 新駅 (新規)を表す。

列車種別

特別車が使われる列車種別。ミュースカイは全車両が、快速特急・特急は一部特別車編成の2両のみが特別車で、乗車にはミューチケットが必要となる。

2008年12月27日のダイヤ改正より7種類の列車種別が存在している。名鉄では列車種別の他に「一般車」と「特別車」の概念があり、このうち特急以上の列車に存在する「特別車」の乗車には乗車券のほかミューチケットが必要である。ミュースカイは全車両が、快速特急と特急(全車一般車特急を除く)は2両分が特別車となっている(これらの詳細については「名鉄特急」を参照)。

1990年(平成2年)から2005年(平成17年)までの間、瀬戸線を除く各線は「特急」・「急行」・「普通」の3種別で運行されていた。一定の法則性は確保していたものの、同じ種別でも必要に応じて特別停車や特別通過、種別変更を行って細かな違いに対応していた。特別停車の回数はダイヤ改正毎に増加しており、整理する必要が生じた。そこで中部国際空港の開業を機に、従来の特急・急行を停車駅によって細分化(「快速特急」と「特急」、「快速急行」・「急行」・「準急」へ種別を分割)して、一部の例外をのぞき各種別の停車駅を明確化した。これに伴い、各駅の時刻表(駅配布版を含む)の表記方法も一新した。

ミュースカイ(全車特別車)
中部国際空港アクセスの最速達列車で、2008年(平成20年)12月27日のダイヤ改正で新設された種別。元々2000系の車両愛称として用いていたが、それを種別名としても用いるようになった。改正前は「快速特急」と名乗っていた。全車両特別車の2000系を使用する列車に命名され、神宮前 - 中部国際空港間をノンストップ運行(早朝の一部をのぞく)している。神宮前以西(以北)では特急停車駅のうち、新木曽川・笠松・柏森を通過する。「特急」との所要時間の差は常滑線空港線系統で7 - 8分となっている。
白背景に赤文字でミュースカイ と表示される。英語表記は「μSKY Limited Express」 で、「μSKY Ltd. Exp.」 と略される。
快速特別急行(快速特急)(一部特別車)
2005年(平成17年)1月29日のダイヤ改正で再設定された種別。この種別は、改正前の特急のうち新安城・国府に特別停車しなかった特急を別種別として格上げしたものである。名古屋本線西部・犬山線などでは「特急」と同じ停車駅で、「特急」との所要時分の差は本線系統で3 - 4分。2008年(平成20年)のダイヤ改正以降は(特急をふくめ)停車駅を増やす傾向にあり、速達性よりもフリークエントサービスに重点を置いている。
白背景に赤文字で快速特急 と表示され、「快特」 と略される。英語表記は「Rapid Limited Express」 で、「Rapid Ltd. Exp.」 と略される。
特別急行 (特急)(一部特別車・全車一般車)
沿線市町の中でも特に利用者が多い駅や、支線の分岐駅・普通との接続駅などに停車駅を絞った列車。名古屋本線では新安城・国府にも停車し、常滑線では太田川や常滑など5駅に停車する。快速特急同様、一部特別車が基本であるが、一部は全車一般車で運転されている。
赤背景に白文字で特急 と表示される。英語表記は「Limited Express」 で、「Ltd. Exp.」と略される。
快速急行(以下、全車一般車)
2005年(平成17年)1月29日のダイヤ改正で再設定された種別だが、改正前の急行のうち標準停車駅のみに停車していた急行を別種別として格上げしたものである。2008年(平成20年)12月のダイヤ改正以前は多数運行されていたが、同改正後は早朝・深夜の中部国際空港発着列車と平日朝ラッシュ時のみの運行。
白背景に青文字で快速急行 と表示され、「快急」 と略される。英語表記は「Rapid Express」。
急行
沿線の中核駅などに停車し快速特急や特急を補完する役割をする列車。快速急行よりも名古屋本線では1駅(栄生)、常滑線では5駅(大江・寺本・古見・大野町・りんくう常滑)多く停車。その他の線区では快速急行と同じ停車駅に停車。なお、瀬戸線では急行が最優等種別である。
青背景に白文字で急行 と表示される。英語表記は「Express」。
準急行(準急)
普通のみでは停車本数が不足する駅などに停車する列車。急行の停車駅よりも、名古屋本線では7駅(藤川・男川・矢作橋・豊明・中京競馬場前・有松・二ツ杁・大里)、瀬戸線では2駅(印場・旭前)、犬山線では3駅(石仏・木津用水・犬山口)、常滑線では2駅(大同町・聚楽園)多く停車。豊川線、空港線、河和線、津島線尾西線は急行と同じ停車駅である。
緑背景に白文字で準急 と表示される。英語表記は「Semi Express」。
普通
全駅に停車する列車。名鉄では「各駅停車(各停)」の語を種別名としては用いない。かつては椋岡駅学校前駅(共に廃駅)など一部の駅を通過する普通列車が設定されていたが、同駅が廃止された2006年(平成18年)12月以降はない。全線で設定されているが豊橋駅からの発着はない。
黒背景に白文字で普通 と表示される。英語表記は「Local」。

なお、1977年(昭和52年)より1990年(平成2年)まで、それ以前の追加料金が不要の「特急」を「高速」へ、「座席指定券」が必要な「座席特急」を「特急」へ種別呼称を改めて運行していたが、「特急」(指定席)と「高速」(一般席)を併結した形の「一部指定席(現・特別車)特急」へ変更したことで、再び「特急」に統合された。また、同様に1990年(平成2年)までは「準急」の種別も存在しており(現在と停車駅が若干異なる)、これに関しては「急行」の特別停車駅を増やして統合している(2005年(平成17年)の種別増加とは逆の流れとみなせる)。また、一つの列車が途中駅で種別を変更するダイヤも日常的に用いられている。過去には「特急」(座席指定)から「急行」・「普通」などへ種別変更を行う場合も見られた が、現在では「快速急行」以下の種別相互で行われている。

停車駅(2019年3月16日改正)
  • 普通および一部路線の優等列車(▲△)は各駅停車。
  • ●▲は全区間、○△は一部区間を除いて設定。
  • 豊川線の特急、快速特急(※)は全駅が特別停車扱いであり、駅掲示等の旅客案内では特急以上が省かれている。

ダイヤ

ラッシュ時は優等列車中心となる中での小駅の利便性を確保するなどの様々な事情により、一時期よりは減少したものの、列車種別の節で述べたような特別停車が多い。かつては朝ラッシュ時や臨時の特急列車や、椋岡駅(廃止)・学校前駅(廃止)・江吉良駅等では近年(最終は椋岡駅の2006年)まで残っていた普通列車の特別通過もあった。特別通過は2011年3月26日のダイヤ改正で朝ラッシュの上り特急の笠松駅新木曽川駅において復活している。また、同様の理由で途中駅での種別変更も多く、中には2 - 3回種別変更する列車もあり、特に朝ラッシュ時には様々なパターンが見られる。特別停車も見られ、日中でも行われる列車がある(名鉄一宮 - 豊川稲荷間の急行は大里駅か二ツ杁駅に日中も特別停車する)。

本線系の路線では始発列車最終列車が普通列車ではなく優等列車となる場合が多い。他社の路線ではあまり見られない特徴である。

ダイヤ策定の際に編成両数はあまり考慮されておらず、ドアカットが頻繁に発生している(種別表示には「締切」と表示される)。実施例については当該項目を参照。

以前は大晦日に、初詣客用として午前3時台まで普通列車(末期には神宮前駅豊明駅新一宮駅犬山遊園駅太田川駅の各駅間)を約1時間間隔で運転していたが、2004年大晦日の運転をもって中止した。

お盆期間は休日ダイヤでの運行となる。ただし豊橋駅 - 伊奈駅間はJRに乗り入れていることから、JRの平日ダイヤに合わせるため一部列車の発着時刻が通常より数分変更される。

毎年1月・2月(2月は土休日のみ)は豊川稲荷への初詣客用のために豊川線に直通する特急列車(全車指定席、のちに全車特別車)を増発していた時期もあった。2005年の空港線開業後は中部国際空港への輸送を比重に置いているため、豊川線内の区間列車の増発のみに留まっている。

名鉄名古屋駅付近の高密度ダイヤ設定のためや、きめ細かくスピードアップ(または逆に余裕時分の付加)を行うために、ダイヤ(列車運行図表)上の運転時分・停車時分は5秒単位で設定されている。極端な例をあげると、発車時刻が0分55秒であっても、時刻表には案内上00分発と表示され、01分発となることはない。なお、一部の支線は10秒単位、豊橋駅付近のJR共用区間は15秒単位となっている。

車両

車両の輸送

名古屋鉄道の新造車両は、名古屋臨海鉄道の機関車牽引によってJR東海道本線笠寺駅から名古屋臨海鉄道名鉄築港線を経由して大江駅に搬入され、その日の終電後に豊明駅舞木検査場などへ自力走行する。瀬戸線は孤立した路線のため、東名古屋港駅岸壁の日本国外輸出用の留置線でトレーラーに乗せ換えて、一般道経由で尾張旭の車両基地に搬入される。名鉄から他社に車両を売却する場合は逆の経路で笠寺駅まで出て、そこから売却先へと輸送される。

名鉄が(名古屋本線経由で)豊橋から直接車両を搬入しない理由は、新車運行手続き・自力走行するための整備に必要なスペースが豊橋にないこと、名古屋本線の国府 - 東岡崎間では急勾配が続くため機関車等での牽引による搬入が不適なことによる。

また、名古屋市交通局日進工場に搬入される名古屋市営地下鉄鶴舞線桜通線上飯田線の新造車両は、大江駅までは名鉄の新車と同じ経路を辿り、大江→金山→知立→豊田市→赤池の経路で名鉄の機関車が牽引する。これは名鉄において名電築港駅 - 赤池駅間の貨物輸送として取り扱われる。

なお、先述の東名古屋港駅岸壁では一般の輸出車両の積み込みも行われており、名古屋臨海鉄道の機関車が牽引して名鉄築港線の名電築港駅 - 東名古屋港駅(0.4km)を走行する。これも名鉄において貨物輸送として取り扱われる。

過去、国鉄時代の刈谷駅では貨物扱いを行っており、側線を通じ名鉄刈谷駅で新製車両の搬入を行っていた時期があった。また瀬戸線も過去には大曽根駅構内にあった貨物扱い用の側線を使って国鉄線から車両の搬入・搬出を行っていたが、栄町乗り入れに伴う大曽根駅のホーム延伸に伴って側線が廃止されたため、瀬戸線の車両搬入は前述の方法に変更された。

廃車車両の処分

古い車両の解体は長らく名電築港駅(築港線と名古屋臨海鉄道東築線が交差する部分の空き地)で行ってきたが、2004年以降は大きく変化した。2004年〜2005年に廃車になった車両は間内駅近くの空き地で解体を行い、その後は再び名電築港駅での解体を行うも、現在は金属リサイクル工場へ車両を持ち込む形になっている。持ち込みに際し名電築港駅で車体を半分に切断することもあるが、直接の解体は2009年に廃車になったパノラマカー7011Fが最後になっている。

乗務員区所

-の右側は主な乗務区間(列車により相違あり)

  • 名古屋乗務区 - 名古屋本線全線・豊川線・常滑線(神宮前 - 大江間の一部の回送列車のみ)・津島線・尾西線・竹鼻線・羽島線
    名古屋乗務区には特急の特別車改札を専門で行う専務車掌が配属されており、改札業務に限り常滑線・空港線・河和線・犬山線の一部列車も担当する。
  • 神宮前乗務区 - 常滑線・空港線・河和線・知多新線(本線直通列車は栄生まで乗務する列車もあり)
    かつては築港線も担当していたが、2011年3月26日のワンマン運転開始以降は担当から外れ、金山幹事駅係員が同線の運転業務を担当している。
  • 犬山乗務区 - 犬山線(本線直通列車は神宮前まで乗務)・各務原線・広見線・小牧線・地下鉄上飯田線
    2001年の特急「北アルプス」廃止までは気動車の運転免許を持った運転士がこの乗務区に配置され、車掌と共にJR高山本線鵜沼 - 美濃太田間も乗務していた。
    2001年の八百津線廃止まではレールバスの運転もこの乗務区に配置された気動車運転士が担当していた(2004年に廃止された三河線非電化区間のレールバスは知立乗務区担当)。
  • 知立乗務区 - 三河線・豊田線・西尾線・蒲郡線(いずれの線区も本線直通列車は神宮前まで乗務)
  • 喜多山乗務区 - 瀬戸線

過去にあった乗務員区所

  • 名古屋運転区 - 現在の名古屋乗務区
  • 名古屋車掌区 - 現在の名古屋乗務区。1983年(昭和58年)6月10日から1999年(平成11年)まで存在した特急(北アルプスをのぞく)乗客係のパノラマメイツはここに所属していた。
  • 岐阜運輸部 - 岐阜市内線・揖斐線・谷汲線・美濃町線・田神線の600V区間の運転を担当。2005年3月31日限りで廃止。
  • 鵜沼乗務区 - 現在の犬山乗務区
  • 刈谷乗務区 - 現在の知立乗務区
  • モンキーパークモノレール線は犬山幹事駅職員が運転を担当していた。

乗務員と運転業務

社員の制服は2014年6月以降はダークネイビーを基調としている。 冬季に上着を着用する場合、駅員や乗務員などの係員は「PRU(私鉄総連)」のバッジを着用している。夏季は開襟シャツを着用する。なお、役職によって上着の形状が異なり、管理職以上はダブルの上着を着用。制帽に関しては、役職によって巻かれている線の太さが違い、乗務区長・幹事駅長や駅長・副区長・副駅長、各主任などの管理職は赤帯に金線2本。主任補佐、駅長補佐、上席助役、助役は太い銀線1本(駅の当務助役は赤帯が追加される)。助役補佐、役職なしの係員は細い青線1本である。

車掌から運転士に対する出発合図は、電鈴を使用する場合は短2音である。運転士はワンマン列車以外は車掌からの出発合図を受けなければ発車してはならない。大半の車両は「チン、チン」と鳴るベル式の電鈴を装備しているが、2002年登場の300系以降の新造車両はブザーを採用しているため、合図は「プッ、プッ」となっている。また、進行方向後ろの乗務員室からホームが外側にカーブしている等で、列車全体の乗降確認ができない場合、運転士が見えない部分の乗降確認を行い、車掌に乗降完了を知らせるために鳴らすことがある。この場合も短2音である。

以前、車掌が駅発車時の側面監視をする際、相互直通運転をしている名古屋市交通局や京阪電気鉄道同様、車内電鈴スイッチに手をかけて行い、非常時には電鈴を乱打(直ちに停車せよ)し、運転士に非常ブレーキを要求する方式を取っていたが、2016年夏頃に大半の鉄道会社同様、車掌弁もしくは、非常ブレーキスイッチを掴んで側面監視を行い、非常時には車掌が直接非常ブレーキを扱う方式に変更されている(ただし6000系初期車や100系のように車掌弁が進行方向と逆についている車両や乗り入れてくる名市交車のように乗務員扉の上に非常ブレーキスイッチが付いてる場合など、物理的に車掌弁を掴みにくい車両については、引き続き電鈴保持を行うこともある)

駅到着番線(入線ホーム)の伝達も電鈴が使用される。これは到着番線が列車によって異なる名鉄岐阜駅で主に行われており(それ以外の駅でも行われる場合はあり)、運転士が信号・進路等を確認、電鈴を使用して車掌に合図(1回で進行方向右側、2回で進行方向左側)を送り、車内アナウンスで下車扉を正しく案内できるように補うもの。この場合は、車掌が電鈴を待ってから下車のアナウンスをするケースが多い。

普通列車などが優等列車を通過待ちする時は、停車中の列車乗務員は必ずホームに立ち通過監視を行う。その時、運転士はブレーキハンドルを非常ブレーキにセットし、リバースハンドル(主幹制御器に取り付ける前進・後進の切り替えハンドル)を所持してホームに立つ。なお、固定式ワンハンドル列車の場合、リバースハンドルの代わりにマスコンキー(固定式ハンドルを動かすために使う鍵)を所持し監視にあたる。ただし、運転席が2階にあったパノラマカー(現在は運用を離脱)では、運転席からホームへの移動が大変なため行わない場合が多かった。車掌はリーズブックと呼ばれる釣り銭の入ったものを持ち、ホームに立つ。原則として、ホームの非常停止ボタン付近に立つことになっている。

運転士のスタフ(社内では「運転時刻カード」と呼ばれている)は進行方向から見て左に置かれている(2000系と1700系のみ構造上右側)。そのため指差確認はJRのように右手で行わず、左手で行っている(ブレーキハンドルから手を離さないためでもある)。なお、6000系などの2ハンドル車において、力行中マスコンから手を離すと、デッドマン装置が動作してしまうため、加速中に指差確認を行う場合は、マスコンから手を離さず、左手人差し指を対象物に向ける動作で済ましている。

運転中の指差称呼はJRに比べて少なめで、基本的に指差確認称呼を行うのは、発車前に行う次停車駅の確認と出発信号機(警戒表示以上)の確認、駅の停止・通過確認で、分岐点(平井信号場と枇杷島分岐点)や待避線がある駅の通過側信号確認時に行い、それ以外(閉塞信号機表示確認・制限速度確認等)では口頭で済ませる。

増解結を行う際、作業を担当する駅員は必ずヘルメットを着用する。作業で使用する旗もしくは合図灯は、赤が「停止」、緑が「進行」である。

速度制限標識は、制限速度の下に曲線(半径m単位)、下り勾配、分岐(方向は矢印で表示)、構内、ATSなどの理由が記載されている。これが数字のみのものは制限速度で通過した場合の速度制限を受ける秒数を表す(JRなどのような距離ではない)。いずれの場合も口頭では制限速度のみを称呼する。

閉塞信号機の名称番号は、キロポストに基づいた起点からの距離(m)÷100の近似値が方向により偶数・奇数に分けて付番されている。口頭では現示と進行・停止以外における制限速度のみ(「注意65」「減速85」など)を喚呼するが、豊橋 - 平井信号場間のJR共用区間ではJRの規則に従って「第3閉塞・注意45」「第2閉塞・減速65」のように称呼する。なお、信号喚呼位置標識はJR共用区間をのぞいて信号警標の基本デザインたる縦長方形で黄色地に黒縞が斜めに2本入ったものである。

他に名鉄独特の標識としては、指示速度やパラレル止めなどのノッチ指定を記した力行標や惰行標(通称オフ板)があるが、名古屋本線では1990年代にスピードアップが進む過程で撤去されほとんど残っていない。従って現在は本線ではフルノッチに投入し区間最高速度まで上げる走行が原則となっている。なお、制動標(通称H板、本来はHSCブレーキ車用制動標。自動ブレーキ車用はA板であった)については各線とも引き続き掲出され、分岐方(副本線)用の表示にはブレーキ初速度を併記している。

単線区間での列車交換(行き違い)のことを、名古屋鉄道では離合と呼んでいる。

運賃

名古屋鉄道の運賃は営業キロではなく、あらかじめ一定の割合を乗じた「運賃計算キロ程」によって運賃を計算する。計算方法は以下の通り(子供は半額、5の端数は切り上げ)。運賃額は2019年10月1日改定時点。

  1. 乗車する区間の各乗車線区ごとに、営業キロを算出する。
    • 列車乗り換えの都合上、枇杷島分岐点 - 東枇杷島駅栄生駅・名鉄名古屋駅間を折り返し乗車する場合には、この区間の営業キロは含まない。
    • 以下にあげる区間を経由する場合は、最短経路で計算する。
      • 名古屋本線(枇杷島分岐点 - 名鉄岐阜駅間)
      • 津島線(須ヶ口駅 - 津島駅間)
      • 尾西線(津島駅 - 名鉄一宮駅間)
      • 犬山線(枇杷島分岐点 - 新鵜沼駅間)
      • 各務原線(名鉄岐阜駅 - 新鵜沼駅間)
    (例)名鉄岐阜駅 -(名古屋本線)- 神宮前駅 -(常滑線)- 太田川駅 -(河和線)- 富貴駅 -(知多新線)- 内海駅の運賃の場合、
    • 名古屋本線(A) 名鉄岐阜駅 - 神宮前駅37.6キロ
    • 常滑線(B) 神宮前駅 - 太田川駅12.3キロ
    • 河和線(B) 太田川駅 - 富貴駅22.3キロ
    • 知多新線(C) 富貴駅 - 内海駅13.9キロ
    と各線区に分け、営業キロを計算する。
  2. 各々の線区の運賃計算上の区分(路線節の表を参照)が同じ線区同士の営業キロを足し合わせ、��下の倍率をかけ、小数点第2位以下を切り上げる。このキロ程が「運賃計算キロ程」である(倍率と区分は1975年制定)。
    A:1.00倍 B:1.15倍 C:1.25倍
    (例)A:名古屋本線 《37.6キロ×1.00=37.6キロ》
    B:常滑線・河和線 《(12.3キロ+22.3キロ)×1.15=39.790→39.8キロ》
    C:知多新線 《13.9キロ×1.25=17.375→17.4キロ》
  3. 運賃計算キロ程を足し合わせ、小数点以下を切り上げ、上の運賃表に照らし合わせる。
    (例)37.6キロ+39.8キロ+17.4キロ=94.8キロ→95キロ から、1,450円
  4. 加算額を設定している線区(路線節の表にあるB+、C+表記の路線)が含まれる場合は、加算額を加算する。加算額は以下の各項目を参照。
    豊田線 空港線 知多新線 羽島線
    (例)知多新線は加算額設定線区であるので、上記の運賃1,450円に富貴駅 - 内海駅間の加算額70円を加算し、この区間の運賃は1,520円である。

乗車券類の特徴

乗車券類には淡黄色でMeitetsuと地紋が印刷されている。また、磁気定期券には偽造防止用に薄くピンク色で「M」と書かれている。

新名古屋駅(現・名鉄名古屋駅)発行の乗車券は、今までに淡青色・淡緑色など他駅とは違った地紋色を使用していた期間がある(1950年代には発駅地帯毎に地紋色を変えていた時期があった)。

かつての「座席指定券」(現・ミューチケット)は淡黄色の地紋が基本で他に淡緑色・淡紅色などもあった。オンライン発券開始(1983年)以降は淡緑色の地紋を使用していたが、普通乗車券なども発売できる「複合端末」導入後は他の乗車券類と共通の地紋に変更されている。

旅客案内

駅の案内表示

かつては設備面などにおいて他の大手私鉄会社と比較すると近代化が立ち後れている面が否めなかった。しかし中部国際空港の開港や名鉄グループ内での大幅なリストラ、トランパス導入に伴う駅集中管理システム導入の推進などもあって、近年はユニバーサルデザインのピクトグラムを導入するなど首都圏の大手私鉄会社にひけをとらない水準にまで向上している。しかし一部の主要駅では一世代前(CI展開初期)のものが使われている駅もある。

JRの敷地内にある豊橋駅と弥富駅をのぞく名鉄駅のホームの表示はJRのように駅舎がある側から1番線、2番線…ではなく、その駅の所属する路線の下り方向を向いて左側から1番線、2番線…と表示している(西尾線・蒲郡線・三河線山線の一部・尾西線の一部を除く)。

各主要駅のホームや改札口などに設置されている発車標は名鉄名古屋駅で液晶式のものが使用されているのをのぞくと、行灯式や反転フラップ式のものが広く使われていたが、近年のバリアフリー化などに伴い、それらは順次LED式のものに交換され、いずれもその数を減らしつつある。なお、LED式のものについては、従来は3色式であったが、交換もしくは新設されたものは種別部分のみフルカラー表示(ただし、喜多山駅の発車標は全てフルカラー表示)となっている。

主要駅の乗車位置は1 - 16と2扉車用に表示されている。しかし、現在は3扉車の割合が高くなっていることから、奇数と偶数の間に「3扉車の中間扉」の表示をつけた駅や、1 - 24と3扉車を前提に表示されている駅もある。地下鉄に直通している小牧線と豊田線は4扉で統一しているため、小牧線(4両)は1 - 16、豊田線(6両)は1 - 24になっている。

車内放送等

車内放送はミュースカイ、特急列車(ただし1000系・1230系未リニューアル車で運用される列車と、全車一般車はのぞく)、豊田線、瀬戸線やワンマン列車では自動放送で案内される。また特急列車では英語での案内放送や、特急列車と急行列車の一部で中日新聞ニュースも文字放送で流している。

LEDの車内案内装置を搭載している車両では走行中、列車の走行を模した速度表示が行われることがある。左側に速度を表示し、速度に合わせて右端から車両が姿を見せ、最高速度(120 km/h)で速度表示の隣に達する。また、下段は線路をイメージしており、速度に伴って動きが変化する。なお、出てくる車両の形は系列によって異なっている。

種別・行先案内

列車の案内放送は、基本的に「種別・行先」の順(例:快速特急・新鵜沼行き)であるが、駅ホームの自動放送では「行先・種別」の順(例:犬山行き普通)である。しかしながら、最近になって自動放送装置が更新された駅では「種別・行先」の順で放送される。なお、近年投入された車輌には、乗降促進メロディの吹奏装置が設置されている。ただし、鶴舞線直通用の車輌と3100系3次車は「プルル、プルル、プルル」という音の交通局で使われているものと同一(ただし若干音が甲高い)の発車の際に鳴らすブザーが設置されている。

列車の行き先の中には、須ヶ口、佐屋、柏森、伊奈など地元住民・利用客以外は所在地・行政名をすぐに連想できない駅名がいくつかある。そのため特に名鉄名古屋駅では「名古屋本線・伊奈行き急行」、その他の駅では「名古屋方面・急行須ヶ口行き」や「津島方面の電車がまいります」などのような案内放送が聞かれる。 過去、支線直通が盛んな時代には特急森上行き、今渡行きなどの列車もあり、系統板の使用が一般的であった時代には、行先横に『名古屋方面』と肩書き(朱書き)されたり、『名古屋』を中央に大書し下部に『方面』、横に小さく本来の行先(『今渡』など)を配した系統板が多用された。

準急以上の列車が各駅停車の区間を走る場合、種別表示幕の表示は時刻表上の種別表示に従う。岩倉以北の準急、豊川線、知多新線などでは、普通に種別変更しない限りは優等種別を表示したまま運行する。

種別板を使用する列車の場合は、1964年頃から各編成の前頭部に全種別をセットした種別板を装備(常備) し、普通列車は無表示(車体色と同色)の板を使用する。7700系までの各系列・車両(ただし、種別も一体で表示する『逆さ富士』板が装備された7000系・7500系などをのぞく)では系統板と共に日常的に使用されていたが、7700系の廃車(2010年3月)以降は種別幕の故障(破損)等で臨時に使用される場合に限られる。種別板は1964年(昭和39年)5月6日に表示改正され、特急が白地に赤字、急行が黄地に黒字、準急が緑地に黒字と制定された。その後の変遷は以下のとおりである。

  • 準急の種別板は、1980年まで青地に黒字、1980年から橙色地に白抜き文字(ごく短期間のみ使用)、1981年以降は上半白地・下半黄色地に黒字という変遷を辿っている。
  • 急行の種別板は一貫して黄色地に黒字である。また、2005年まで存在した600V区間用の各車両(種別幕装備車をのぞく)は円形の種別板を装備し、白地に黒字であった(裏面は車体色と同色)。
  • 特急の種別板は、1982年までが白地に赤字、1982年以降は銀色地に赤字(グレーの縁取り)となった。また、特急(座席指定)の系統板も白帯車登場(1982年)前までが黄色地に黒字、それ以降は緑地���黒字 へと変更した。
  • 1977年から1990年まで存在した「高速」の種別板は、白地に青字であった。
  • 回送、団体の種別板は、緑地に黒字である。

合理化

閑散線区の合理化・廃止

廃止路線の分布(クリックで拡大)

数多くの鉄道会社の合併や運営路線の譲り受けによって成立した名古屋鉄道は、多くの閑散線区を抱えることになり、そうした線区の合理化・廃止が進められてきた。特に、トヨタ自動車を核とした自動車産業が盛んな愛知県では車社会の進展が早く、1950年代から路線の廃止が相次いでいる(ただし近年廃止された路線の多くは岐阜県内の路線である)。1984年には広見線・八百津線にレールバス導入・ワンマン運転化がなされ、1985年に三河線・猿投 - 西中金間、1990年に三河線・碧南 - 吉良吉田間にもレールバスが導入された。鉄道事業法2000年に改正され、それまでは許可制で所轄官庁の許可が必要だった鉄道廃止が届出制に変わると、閑散線区の廃止を相次いで表明している。

  • 名古屋鉄道成立後の廃止路線(経路変更や駅移設による延長・短縮のぞく)
    • 勝川線 - 1936年4月8日休止、1937年2月1日廃止
    • 大浜口支線 - 1946年8月1日廃止
    • 清洲線 - 1944年6月10日休止、1948年8月3日廃止
      • 戦時中の線路供出(東西連絡線の建設など)のため「不要不急線」に指定されたことによる廃止。
    • 起線 - 1953年6月1日休止、1954年6月1日廃止
      • 起線についてはいわゆる「閑散線区」ではなく、単線で行き違い設備の乏しい路線(少ない線路容量)に比べて乗客が多すぎるため、増発が自由に行えるバス化が妥当との結論に達して廃止が行われた。
    • 渥美線(三河田原 - 黒川原間) - 1944年6月5日休止、1954年11月20日廃止。
      • 残存区間(新豊橋 - 三河田原間)は豊橋鉄道に譲渡され現在も営業中。
    • 小坂井支線 - 1954年12月25日廃止
      • 豊川市内線(現豊川線)延伸により、飯田線乗り入れ中止に伴う廃止。
    • 新川口支線 - 1955年2月1日廃止
    • (旧)西尾線 - 1959年11月25日福岡町 - 西尾間廃止
      • 1943年 岡崎新 - 福岡町 - 西尾間休止、1951年 岡崎駅前 - 福岡町間が福岡線として営業再開。戦時中の線路供出(東西連絡線の建設など)のため「不要不急線」に指定され、戦後も復活されずに休止中だった路線を正式に廃止とした(尾西線の玉ノ井 - 木曽川港間も同様)。
    • 尾西線 - 1959年11月25日玉ノ井 - 木曽川港間廃止
      • 1944年 奥町 - 玉ノ井 - 木曽川港間休止、1951年 奥町 - 玉ノ井間が営業再開。
    • 平坂支線 - 1960年3月27日廃止
      • いわゆる「閑散路線」として初の廃止路線。
    • 高富線 - 1960年4月22日廃止
      • 閑散路線ではなかった。理由は起線とほぼ同じ。
    • 安城支線 - 1961年7月30日廃止
    • 岡崎市内線・福岡線 - 1962年6月17日廃止
    • 岩倉支線 - 1964年4月25日廃止
    • 鏡島線 - 1964年10月4日廃止
    • 一宮線 - 1965年4月25日廃止
    • 挙母線 - 1962年6月17日岡崎井田 - 大樹寺間廃止、1973年3月4日大樹寺 - 上挙母間廃止
      • 岡崎井田 - 大樹寺間は岡崎市内線と一体で運行されていたため、岡崎市内線と同日に廃止された。
    • 瀬戸線 - 1976年2月15日堀川 - 東大手間廃止
      • 同日に東大手 - 土居下間を休止とし、1978年の栄町 - 東大手間の地下新線開業と同時に営業再開(土居下駅は廃止)。
    • 知立連絡線 - 1984年4月1日廃止
    • 岐阜市内線 - 1988年6月1日徹明町 - 長良北町間廃止、2003年12月1日岐阜駅前 - 新岐阜駅前間休止、2005年4月1日岐阜駅前 - 忠節間廃止
    • 美濃町線 - 1999年4月1日関 - 美濃(実態は新関 - 美濃)間廃止、2005年4月1日徹明町 - 関間廃止。
    • 八百津線 - 2001年10月1日廃止
    • 竹鼻線 - 2001年10月1日江吉良 - 大須間廃止
    • 谷汲線 - 2001年10月1日廃止
    • 揖斐線 - 2001年10月1日黒野 - 本揖斐間廃止、2005年4月1日忠節 - 黒野間廃止
    • 三河線 - 2004年4月1日西中金 - 猿投間、碧南 - 吉良吉田間廃止
    • 田神線 - 2005年4月1日廃止
    • モンキーパークモノレール線 - 2008年12月28日廃止

閑散駅の廃統合

合併によって閑散線区を抱えたのと同様に、前身事業者の施策の違いによって駅間距離が短すぎる線区も名鉄は多く抱えることになった。そのため、名鉄はスピードアップや駅勢圏の調整といった合理化策の下で駅の廃止、統合を個別に実施したほか、過去二回、全線にわたる駅の整理を行っている。

一度目の整理は1944年に実施された。輸送力や資材を確保するために閑散路線が「不要不急線」として休止されたように、乗降客の少ない小駅が相次いで休止されている。戦後に復活した駅も少なくないが、復活しなかった駅の大半は1969年4月5日に廃止手続きが取られた。

1944年に休止された駅
凡例:
(無印) - 1969年4月5日に廃止された駅
× - 1969年4月5日以前に廃止された駅
- 1969年4月5日以前に復活した駅
- 1969年4月5日以前に復活したが後年廃止された駅(廃線による廃駅を除く)
- 1969年4月5日以降も休止扱いだったが後年廃止された駅
- 1969年4月5日以降も休止扱いだったが後年復活した駅
- 1969年4月5日に一度廃止されたが後年同名で再開業した駅
2006年に廃止が検討された6駅の年間乗車人員推移。碧海堀内駅は安城市の改修費負担により存続。

二度目の整理は駅集中管理システム導入に伴う閑散駅の削減である。2001年度より導入が始まった同システムは、自動改札機自動券売機自動精算機・列車接近警報装置を該当駅に設置し、近隣の管理駅から遠隔操作するものである。これらを全駅に導入するに当たり、費用対効果が低い小駅の廃止が検討された。

2005年1月29日廃止(乗降客数200人以下)
2006年12月16日廃止(乗降客数300人以下)

駅集中管理システムは2007年度までに全線全駅で導入される見込みであったが、弥富駅、広見線明智駅以東、蒲郡線(吉良吉田駅をのぞく)には導入されなかった。導入前は有人駅であったが導入後は無人駅になってしまったという駅も多く、ミューチケットや企画きっぷ等を購入できないケースも出てきている(後に一部の無人駅でもタッチパネル式の新型自動券売機を利用すればミューチケットを購入できるようになった)。

自動車事業の分社化・委託

かつてはバス事業も行い、名古屋駅からの高速バス名古屋空港へのバス、路線バス観光バス等を展開していたが、2004年10月1日から、愛知県内は名鉄バスとして分社され、岐阜県内はグループ企業の岐阜乗合自動車(岐阜バス)に移管された。また、名鉄バスとして残った路線も、一部路線について運営を子会社等に委託するケースが現れている。例:犬山地区路線の「岐阜バスコミュニティ」への委託等(2006年12月に名鉄バスは犬山地区の運営から撤退し、委託先だった岐阜バスコミュニティに路線のすべてを移譲した)

文化レジャー事業の分社化

名古屋鉄道は、博物館明治村リトルワールド等の施設を経営していたことでも知られ、これは「文化レジャー事業」としていた。しかし名鉄の1999年3月期決算で名鉄総合企業・バス・レジャー事業といった関連事業を起因とする連結決算での赤字計上により、陸運事業のリストラのほか、知多新線沿線の開発に伴い開業したレジャー施設の閉鎖が検討された。このうち阿久比スポーツ村の運営撤退(現:阿久比町立阿久比スポーツ村)をのぞいて撤回されたものの、2003年3月期の中間・期末の両方で無配となったことに伴い、2003年1月にグループ合理化策を発表した。

特に不採算が強かった以下の事業については名鉄直下で廃止された。

その他の文化レジャー施設を経営・運営する子会社として「名鉄インプレス」が設立され、2003年10月から次のような体制に変化した。

  • 明治村・リトルワールド・杉本美術館は、名鉄が経営主体となり、名鉄インプレスに運営を委託。
  • 日本モンキーパーク、カルチャーセンター、スイミングスクール、テニススクール、南知多ビーチランドについては名鉄インプレスに譲渡させ、同社の経営とする。

企画乗車券の大幅廃止

閑散駅の合理化で駅員非配置の駅が増えたことや、トランパス導入に際してカードにプレミアムをつけたこと、合理化のためもあって、昨今では大幅に「パノラマパック」などの企画割引乗車券を廃止する傾向が出ている。近畿日本鉄道南海電気鉄道と共同で出していた「3・3・SUNフリーきっぷ」も、2006年夏限りで廃止した。

未成線

名古屋鉄道、及びその前身となった鉄道にも数多くの幻となった路線が存在する。一部は以下のとおりである。

開発事業

バス・文化レジャー事業の分社化の後、本社の鉄軌道事業以外の事業は、全日本空輸の航空代理業、ビル、駐車場などの賃貸、土地の分譲等となり、これを「開発事業」と呼称している。

全日本空輸総代理店

名鉄は、ANAホールディングス(全日空、旧全日本空輸)の筆頭株主であり、名古屋地区総代理店として愛知岐阜三重静岡長野の5県の全日本空輸の業務を行ってきた。総代理店とは、全日本空輸の黎明期から、各就航地において、地元の有力企業に全日本空輸の市内(営業)・空港業務を委託した制度である。名鉄では、名古屋・静岡・長野(市内業務)と名古屋空港(空港業務)の4航空営業所を展開して、名古屋空港(現県営名古屋空港)の空港ハンドリングも含め全日本空輸総代理店業務を推進してきた。中部国際空港の開港で名古屋空港航空営業所は廃止され中部空港航空営業所が設置された。また、ANAセールス株式会社の展開で総代理店の市内業務の中身も変化した。最後まで残った総代理店業務も、名古屋予約センター・栄カウンター業務は2006年12月末で、中部国際空港国内線旅客・貨物業務は2007年6月末で契約終了、業務は終了した。現在、名古屋カウンター業務はANAセールス株式会社が、中部国際空港ハンドリング業務は、名鉄も出資しているANA中部空港株式会社(元の国際エアラインサービス)で行っている。

また、全日本空輸の名古屋 - 南紀白浜線が就航していた当時は、白浜航空営業所を設置して南紀白浜地区総代理店業務を受託していた。

他私鉄との競合

現在の競合はJR東海との間で繰り広げられているが、過去には近畿日本鉄道(近鉄)や東京急行電鉄(東急)と路線やグループ企業の拡大を巡って競合していた時期がある。

近鉄との競合

昭和初期の三重県には伊勢電気鉄道(伊勢電)が、岐阜県の西部には養老鉄道(養老鉄道養老線の前身だが2007年10月より同線を運営している養老鉄道とは別企業)が営業を開始していた。当時の名岐鉄道は三重県への拡大を目指しており、昭和恐慌の影響で経営難に陥っていた伊勢電に触手を伸ばし、名古屋 - 桑名間の路線免許を申請していた。同時期、近鉄の前身の一社である参宮急行電鉄(参急、後の関西急行鉄道)も名古屋進出の足掛かりとして伊勢電を欲しており、両社が吸収合併を目的とした支援合戦を繰り広げていた。結局、この争いは参急側に軍配が上がり、現在の近鉄名古屋線の大部分を占める重要路線を手にした。

なお、1960年頃(近鉄名古屋線の狭軌時代)まで、新名古屋駅(当時、現在の名鉄名古屋駅)と隣接する近鉄名古屋駅の間には連絡線が敷設されており、名鉄線-近鉄線相互間で団体列車に限り直通運転を行っていた。また、戦前から戦後の一時期に新名古屋駅で近鉄線の発券および改札を行っていた時期があった(2001年までは、名鉄線各駅-近鉄線各駅相互間の連絡切符も通常発売していた)。

その後、近鉄は1959年の名古屋線の標準軌改軌(名阪直通特急の運転開始)を境にして、名鉄の牙城である東海地方への進出を積極的に行うようになり、1961年には、旧養老鉄道岐阜線免許を使用して大垣 - 羽島間の新線の建設を発表、さらに岐阜への延長を画策した。名鉄では対抗策として岐阜から羽島を経由して養老を結ぶモノレール線の建設(この計画は、後に羽島線建設に変更・縮小された)を発表するなど、高度経済成長期の事業拡張に伴って、両社の関係は再び険悪化して行った。

他にも、名神高速道路が一宮まで開通した折には高速バスの路線免許を廻って争いが発生し、名鉄主導の日本急行バスで一本化が決まっていた私鉄系のバス会社(路線) に対し、土壇場で近鉄主導による日本高速バスが参入を強行し、開業後も激しい競合のために両社が共倒れ寸前に陥りかけた。また、近鉄がテリトリーとしていた石川県において、名鉄が中部運輸局(運輸省・当時)の要請に呼応して北陸鉄道の支援を行った際には、対抗措置として北陸日本交通なるバス会社の設立を目論む(後に北日本観光自動車へ合併させるが、路線拡大は却下された)など、名鉄と近鉄の両社は1970年頃まで激しく対立していた。

しかし1980年代以降、次第に両社は競合から協調関係に入り、名鉄各駅や電車内に近鉄グループの「志摩スペイン村」や近鉄特急アーバンライナー等の広告を、近鉄各駅や電車内に名鉄グループの「明治村」や名鉄特急ミュースカイ等の広告を互いに出すようになり、南海電気鉄道とともに「3・3・SUNフリーきっぷ」(2006年に販売終了)を発行したり、近鉄とは完全な提携関係を築いている。また、名鉄名古屋駅のタクシー乗り場は「名鉄・近鉄タクシーのりば」として、名鉄交通など名鉄グループに加え、名古屋近鉄タクシーも乗り入れている。

2012年には、名鉄名古屋駅と近鉄名古屋駅を一体化し、相互の乗り換えを便利にする構想が発表された。

2013年3月23日には名鉄で発行しているICカード乗車券「manaca」が近鉄線で、近鉄で発行しているICカード乗車券「PiTaPa」「ICOCA」が名鉄線でそれぞれ利用できるようになった。また、2014年9月21日には近鉄とのmanaca・ICOCAのIC連絡定期券も発行された。

東急との競合

名鉄はグループ展開を行う過程において、東急(東急グループ)と激しく競合・対立していた時期がある。その最も有名なものとして「全日本空輸」(全日空、現ANAホールディングス)設立時の経営権を廻る争いがあげられる。全日本空輸は「日本ヘリコプター輸送」(日ペリ)と「極東航空」が合併して誕生したが、当時の日ペリは名鉄が経営権を握り、極東航空は東急系列として誕生していたため、合併後の経営権を廻って、株式や株主総会の議決権を委任する委任状の取得合戦を展開するなど、一時はお互い一歩も引かぬ総力戦の様相を呈した。やがて名鉄は争いに疲れて全日本空輸の経営権を諦めるが、近年になって東急側がグループ再編の一環として全日本空輸株の一部を名鉄側に譲り渡し、再び名鉄が筆頭株主となり中部国際空港の開港を契機として、名鉄と全日本空輸は一層結びつきを増している。

また、北海道東部を自社グループのテリトリーとしていた東急は、名鉄が「網走バス」の支援を決めると様々な対抗策を打ち出して、名鉄の北海道進出を阻止する動きを見せた。その一つとして、名古屋の観光バス業界では老舗である「鯱バス」が経営難に陥った折、名鉄に先んじて有利な支援を次々に行った。名鉄も地元の名門を手に入れるチャンスであっただけに、熾烈な支援合戦を展開したが、結局東急は「鯱バス」をグループへ取り込むことに成功して名鉄に一矢報いている(なお鯱バスは2009年10月1日をもって東急グループから離脱しジェイ・コーチグループに入り、網走バスも2012年に名鉄グループを離脱した)。

広報・広告

2006年7月15日より放送が開始された同社の企業広告である「いってらっしゃい。おかえりなさい。名古屋鉄道」のCMソングに、シンガーソングライターの小田和正が楽曲を提供。デビューから37年が経つ小田が地方ローカルCMへ楽曲を提供することは初めてであり、小田のファンや鉄道ファンの話題を呼ぶ(楽曲名『大好きな君に』・アルバム「そうかな」収録)。2008年10月からは「ありふれた日々篇」の放送が開始され、使用楽曲は小田が1993年に発表した「風の坂道」に変更となる。CMタイトルの「ありふれた日々」というのは「風の坂道」の歌詞からの引用である。

かつてはダイヤ改正の都度「名鉄時刻表」を発行し、主要駅や駅サービスセンター、駅構内売店、名鉄観光主要支店および名古屋鉄道ショッピングサイト「M‐M@LL(エム‐モール) 」などで販売していたが、2019年3月16日改正では発行しなかった。

毎月、沿線の観光情報や名鉄の取り組みを紹介する「Wind」という冊子を発行している。Windは名鉄の有人駅や、近鉄の主要駅などでも配布されている。

近年では犬山(日本モンキーパーク明治村など)の観光PRを強化しており、関西圏や首都圏の大手私鉄の広報誌でのコラボ企画や吊り広告の展開を行っている。

沿線の施設などでイベントがある際は、宣伝も兼ねてラッピング車両が走ることがよくある。代表的なものでは、春から夏の時期に子供たちに人気のあるポケットモンスターのラッピングを2000系などに施すことや、受験シーズンのキットカットのラッピングなどがあげられる。

提供番組

テレビでは提供クレジットは英字で「Meitetsu」と表示されるが、読み上げられる場合は日本語で「名古屋鉄道」となる。なおグループの名鉄百貨店は異なるロゴの「MEITETSU」をクレジットに使用している。

現在(2019年現在)
過去

ほか。

競馬

2002年中京競馬場でスタートしたレース「名鉄杯」(非重賞)に賞を出している。中央4場では観客輸送にかかわる大手私鉄が賞を出しているが、それに続く形となった。発走時のファンファーレは通常の中京・小倉共通特別競走(非重賞)用のものではなく、パノラマカーのミュージックホーンをアレンジしたものが名鉄ブラスバンドにより生演奏されており、中京のファンに親しまれている。

また中京競馬場内には、かつて現役で運用されていたパノラマカー7000系の車両を利用した「ビュッフェ・パノラマステーション」がある。

なお競馬開催時の臨時列車は現在設定されていないが、最寄の中京競馬場前駅には急行と午前中の快速特急が臨時停車する(場外発売時の土曜日は夕方のみで特急系列は通過、日曜は夕方まで、開催日は場外日曜時より早い時間帯から急行の停車、高松宮記念チャンピオンズカップ及び有馬記念当日は夕方の特急・快速特急も停車)。

競艇

また、名鉄はボートレース常滑にも名鉄杯争奪納涼お盆レースとして毎年賞を出しており、地元選手が一堂に会するボートレース常滑のお盆の風物詩となっている。なお、過去にはボートレース常滑の開催日に臨時列車を運転していたがこちらは廃止されている。なお、ムーンライトレースのボートレース蒲郡には名鉄ではなく名鉄バスが賞を出しており、名鉄バス杯争奪戦が行われている。

代表的な名鉄グループ企業

愛知県に拠点を置く運輸業

愛知県以外に拠点を置く運輸業

その他グループ企業

過去のグループ企業

その他関係の深い企業

2013年現在、ANAホールディングス(全日空、旧全日本空輸)の筆頭株主であり、単体で発行済株式の2.07%をもち、前述したようにかつては全日本空輸総代理店業務を行っていた。

1952年(昭和27年)に全日本空輸の前身となる「日本ヘリコプター輸送(日ペリ航空)」が設立された際に名鉄は出資を引き受けて関係を持つようになったが、日ペリ航空の経営は苦しい状態が続き、1954年(昭和29年)に名鉄に対し資金援助を要請。名鉄は当時の金額で3500万円を融資し、窮地から救った。全日本空輸創業以来の役員で1987年(昭和62年)当時副社長であった福本柳一は手記の中で次のように述べている。

その後も、名鉄傘下の中日本航空が運航していた定期路線便は1965年(昭和40年)に全日本空輸に譲渡、名鉄、中日本航空、全日本空輸3社の出資でコミューター会社の「エアーセントラル」(現:ANAウイングス、旧:中日本エアラインサービス)の設立など両社は現在に至るまで常に深い関係にある。また、金山駅南口にある「金山南ビル」の「ANAクラウンプラザホテルグランコート名古屋」も名鉄と全日本空輸の協力関係の中で設立されている。

そのほか、御園座などにも出資しており、かつては丸栄名古屋観光ホテルにも出資していた。

1951年からは中日ドラゴンズに出資(これに伴い、球団名を「名古屋ドラゴンズ」に変更)、中日新聞社と隔年で球団経営を行ったが、3年で撤退。その後球団数拡大を目指すパシフィック・リーグから新球団設立の話を持ちかけられたが、中日との観客の奪い合いによって共倒れになることを恐れたため断っている。2リーグ分裂の話が持ち上がった1949年にも、プロ野球への参入を考えていた朝日新聞が、名鉄と地方紙「新東海」を提携させて鳴海球場を本拠とする新球団を発足させる構想(「朝日レッドソックス」という名称が報じられたこともあった)があった。

脚注

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参考文献

  • 『名鉄まるわかりブック』名古屋鉄道広報宣伝部 編、名古屋鉄道、2007年7月発行。
  • 『名古屋鉄道百年史』名古屋鉄道広報宣伝部 編、名古屋鉄道、1994年6月13日発行。

関連項目

  • 電車でGO! - 名古屋鉄道を舞台とした『電車でGO!名古屋鉄道編』がある。

外部リンク

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