
ヒップホップ(Hip-hop)、およびヒップホップ・カルチャー(Hip-hop culture)は、1970年代にニューヨークのブロンクス地区で開かれたブロック・パーティーをルーツに持つ、音楽・ダンス、アートを中心とする文化である。ヒップホップの主要な要素にはラップ、DJ、ブレイクダンス、グラフィティがある。「ヒップ」は「とんでいる」、「ホップ」は「跳躍する」などの意味がある。
ライターのスティーヴ・ヘイガーは、アフリカ・バンバータの、ラップ音楽やブレイクダンス、グラフィティ・アートを含めた黒人文化をヒップホップとした発言は、『ヴィレッジ・ヴォイス』誌で最初に活字になったものであると主張している。

単に「ヒップホップ」と呼んだ場合、サンプリングや打ち込みのバックトラックに、MCによるラップを乗せた音楽を指すことがあるが、これらはヒップホップ・ミュージックと呼ぶのが正しい。これに「ブレイクダンス」と「グラフィティ」などを加えたものが本来のヒップホップである。ヒップホップにおいて、ラップ(MC)、DJプレイ、ブレイクダンス、グラフィティは四大要素と呼ばれる。
これらはアメリカのストリートギャング文化とも関係があるといわれ、抗争を無血に終わらせるために、銃や暴力の代わりにブレイクダンスやラップで優劣が争われた。ラップ、DJプレイ、ブレイクダンスには、フリースタイル・バトルと呼ばれる対決方式も存在する。その後、発祥地アメリカだけに留まらず、ブレイクダンスを踊ったり、グラフィティをアートとしてとらえたり、ファッションにも影響を及ぼすなど、ヒップホップ文化は、欧米、日本をはじめ世界各国に広まった。
これにアフリカ・バンバータが加えた「知識」までを五大要素、さらにKRS・ワンが提唱した「ビートボックス」とストリート文化「言語」、「服装」、「起業精神」を含むと九大要素と呼ばれる。

起源については諸説有るが、一般的に1970年代に生まれ、クール・ハーク(ブレイクビーツの発明者)、グランドマスター・フラッシュ(スクラッチ技術を普及)、アフリカ・バンバータ(ヒップホップという言葉の生みの親)らのDJたちの活躍によって、それまでのブロック・パーティーを超えた音楽として広がり始めた。
曲調やダンス、ファッションなどのスタイルを、それぞれオールド・スクール(Old School、1970年代末 - 1980年代初頭)、ニュー・スクール(New School, 1990年代以降)と呼ぶ。オールド・スクールのラッパーにはグランドマスター・フラッシュ、トリーチャラス・スリー、スーパー・ウルフ らがいた。1980年代後期から1990年代前期にかけてはラップの全盛期だったことから、特にゴールデンエイジ・ヒップホップと呼ばれる場合もある。日本では1980年代半ばのラップをミドル・スクール(Middle School)と表現することがある。この時期のラッパーには、Run-D.M.C.、LL・クール・J、UTFO、フーディニらがいた。
パブリック・エナミーやブギ・ダウン・プロダクションズのアルバムは、社会的意識の萌芽を予感させた。1980年代、ヒップホップは、ビートボックスのボーカル・パーカッション・テクニックを介して、人体を使用したリズムの作成も試みられた。その先駆者はダグ・E・フレッシュである。ダグ・E・フレッシュやビズ・マーキーは、自身の口と声、さらに身体の一部を使用してビート、リズムを創造した。これらは「ヒューマンビートボックス」と呼ばれ、彼らはターンテーブリズムのスクラッチや、その他の楽器の音を模倣したりした。
ミュージックビデオの登場はエンターテインメントを変えた。「プラネット・ロック」(アフリカ・バンバータ&ソウル・ソニック・フォース)のミュージックビデオは、ヒップホップ・ミュージシャン、グラフィティ・アーティスト、およびB-boyのサブカルチャーを紹介した。1982年から1985年の間に『ワイルド・スタイル』『ビート・ストリート』『クラッシュ・グルーブ』『ブレイクダンス』『ドキュメンタリー・スタイル・ウォーズ』など、多くのヒップホップ関連の映画が上映された。1980年には、世界の若者の一部がヒップホップ文化を受け入れた。アメリカの都市コミュニティでは、ヒップホップのファッションが流行した。Run-D.M.C.だけでなく、アイス-T、ビッグ・ダディ・ケイン、ドクター・ドレーらも愛用したゴールドのチェーン・アクセサリーや、ジャージとスニーカーなどが見られた。その後、パブリック・エネミーやKRS・ワンのブギ・ダウン・プロダクションズなどが登場した。
ニュー・スクール・ラップは、1980年代末から1990年代初頭まで流行した。ニュー・スクールのラッパーには、デ・ラ・ソウル、ア・トライブ・コールド・クエスト、リーダーズ・オブ・ザ・ニュースクールらがいた。ファッションは、シルバーが流行した。また、サイズの大きな衣服や、バギースタイルのパンツ(大きいサイズのダブついたズボン)を選び、腰履きで着るアーティストも見られた。大きい服を着るようになったのは、大きめのサイズの服を子供に提供しておけば、成長しても買い換える必要がないことなどが原因とされている。
別なカテゴライズとして、アーティストの出身地などから、ヒップホップ発祥の地であるニューヨークなどのアメリカ東海岸におけるイースト・コースト・サウンド、ロサンゼルスなどのアメリカ西海岸におけるウエスト・コースト・サウンド(ウエスト・サイド)といった、地域による分け方がある。ニューヨークのラップは、ジャズトラックを使用した楽曲もあり、対して初期のウエスト・コースト・サウンドは、ドクター・ドレー、スヌープ・ドッグらを中心としたGファンクと呼ばれる、Pファンクなどをサンプリングし、シンセサイザーなどの電子音を取り入れたトラックに、ギャングスタ・ラップをのせた。近年はサウス(南部)やミッドウエスト(中西部)と呼ばれるローカルサウンドも登場している。サウスのトラックは、バウンスビートが特徴である。ヒップホップのポピュラー化により、東海岸でギャングスタ・ラップをするものが現れた。
1990年代頃から東海岸を代表するディディ(パフ・ダディ)、ノトーリアス・B.I.G.擁するバッド・ボーイ・エンターテインメント(Bad Boy Entertainment)と、西海岸を代表するドクター・ドレー、スヌープ・ドッグ、2パック(出身はイースト・コーストではあるが、最盛期の活動場所はウエスト)らが所属するデス・ロウ・レーベルとの対立が象徴的であるように、両海岸のアーティストたちはお互いを威嚇、中傷し合った。それらの内容はラップの歌詞にも現れ、ギャングを巻き込んだ暴行、襲撃、発砲事件などに発展した。この東西抗争は、2パック、ノトーリアス・B.I.G.という両海岸を代表する有名ラッパーを、ともに銃撃事件で失う悲惨な結末を招いた。抗争はその後、個人間のビーフ(中傷合戦)を除いて、沈静化している。
※五十音順
※印は日本劇場未公開作品