ロードレース世界選手権の歴史(ロードレースせかいせんしゅけんのれきし)では、ロードレース世界選手権(WGP/MotoGP)の歴史などについて書き記す。
日本のバイクは太平洋戦争後に移動手段や荷物輸送などを目的とするビジネスバイク(実用車)として発達してきた。しかし1950年代後半に軽3輪トラックが発売されて実用車としての役割を譲ることになる。そして1958年に開催された第1回全日本モーターサイクルクラブマンレースを切っ掛けに日本のバイクはスポーツバイクとして発展していく。
だが当時のホンダの経営状況は悪かった。1953年12月に発売したドリーム4E(16万2千円)が強い制動力を急激にかけるとエンジンが停止したりアイドリングが不安定なったりといったトラブルが頻発して販売不振に陥っていた。1954年1月に発売したセルモーター装備のスクーター ジュノオK(18万5千円)は価格が高くて売行きが悪かった。1952年に発売した自転車取付用エンジン カブFは発売当初はベストセラーとなったが、1954年には売行きに陰りが出ていた。またホンダは1948年9月に資本金100万円で株式会社化したが、ドイツ製工作機械購入のために15億円もの借入金があって経営が悪化している時期であった。しかし、1958年8月に発売したスーパーカブ C100(5万5千円)が好評を博し、翌1959年には国内出荷台数が30万台を超え、1960年には90万台、1961年には100万台を超える大ヒット商品となった。「子供の時からの夢は、自分で造ったクルマで、世界チャンピオンになることだった。(省略)。絶対の自信が持てる生産体制も完了したいま、まさに好機至る! 明年こそはマン島TTレースに出場する決意をここに固めた。(省略)。我が本田技研の使命は日本産業の啓蒙にある。ここに私の決意を披露し、TTレースに出場・優勝するために、精魂を傾けて創意工夫に努力することを諸君とともに誓う」(本田宗一郎)
4ストロークエンジンのNR500で復帰
ホンダは1959年のイギリスGP(マン島TT)からロードレース世界選手権(WGP)に参戦し、1967年シーズンまで活動、1968年以降はWGPから離れていたが、1979年に復帰した。
ホンダは500ccクラスに復帰したが、楕円ピストンの4ストロークV型4気筒エンジンを搭載したNR500での復帰だった。2ストロークエンジンを搭載したマシン(ヤマハYZR500、スズキRG500)に打ち勝つために多額の費用をかけて開発した楕円ピストンを採用した4ストローク・マシンであったが、予選を通らないこともあるほどで、1979年から1981年の3シーズンの間に1ポイントも獲得することができず、NR500は大失敗に終わった。しかしこのことはホンダの技術力の欠如を意味しているわけではない。ホンダは1960年代にも4ストローク4気筒エンジン(真円ピストン)で500ccクラスを戦ったが、エンジンは高出力であったが、その出力にシャーシーの性能が見合わず、マイク・ヘイルウッドはホンダの4気筒500ccマシンを激しく非難していた。
2ストロークエンジンのNS500へ移行
ホンダは渋々型の古いモトクロス用エンジンを元に設計した2ストロークV型3気筒エンジンを搭載したNS500で1982年のレースを戦うという現実的な選択をした。そして翌1983年にはフレディ・スペンサーに託されたこの3気筒マシンはケニー・ロバーツが駆るV型4気筒エンジンのヤマハYZR500に打ち勝ち、世界チャンピオン・マシンとなった。
燃料タンクとチャンバーの位置が逆転したV型4気筒エンジンのNSR500の登場
ホンダという会社は技術者の発言力が大きいという社風を持っている。そのためホンダの技術者はライダーの直感よりもダイナモメーター(動力計)が指し示す数値を重視してマシンを設計する。そのような背景のもとで作り出された1984年型NSR500(NV0A)は今までのマシンとはまったく異なる部品レイアウトを持ち、エンジンの上部にチャンバーを、エンジンの下部に燃料タンクを配置していた。そして、ホイールにはカーボンファイバー製のスポークを採用していた(→図)。
このV4マシンNSR500(NV0A)は大きな問題を抱えていた。1984年シーズン第1戦南アフリカGP(キャラミ)での練習走行中にカーボンファイバー製のスポークが折れてしまい、V4マシンはクラッシュし、フレディ・スペンサーは足首を骨折した。また、高速で直線などを走行する場合、ライダーは空気抵抗を減らすためと風圧によるライダー自身の疲労を避けるために、上半身を伏せてカウル内に身体が入るような姿勢をとるが、このV4マシンでは通常のマシンならば燃料タンクがある位置に走行中に高温になるチャンバーがあるため、ダミータンクカバーを介してライダーの胸は焼かれるような熱さに見舞われた。低中速コーナーでは、コーナリング中にライダーがハングオフの姿勢をとると外側の腕がダミータンクカバーに接触するため、レーシングスーツの袖のファスナー部分は高温になり、スペンサーの腕はいつも火傷していた。また、このV4マシンは燃料タンクがエンジン下部にあるので、満タン状態でスタートしたレース序盤とガソリンが消費されて燃料タンクが空に近い状態になったレース終盤とではマシンの重心が異なるため、ハンドリングがまったく異なるマシンに豹変してしまい、安定したコーナリングができなかった。スペンサーはシーズン途中から型の古い3気筒のNS500でレースを走るようになったが、このV4でも2勝している。しかしHRCの技術者は当時を振り返って「そこそこ走るが、このエンジンはスカだと言われた」と語る。
普通のマシンと同じ配置にした燃料タンクとチャンバーを持つNSR500へ移行
1985年型のNSR500(NV0B)からは普通のマシンと同様にエンジン上部に燃料タンクを、下部にチャンバーを配置するレイアウトになり、1985年にフレディ・スペンサーが、1987年にワイン・ガードナーが500ccクラスの世界チャンピオンになる。
革命的な位置にスイングアーム・ピボットを持つNSR500の登場
しかし1988年型のNSR500(NV0G)では、HRCのシャーシー担当技術者は革命的な位置にスイングアーム・ピボットを配置するように設計した。その目的は、加速時に持ち上がる前輪に対応するように後輪を持ち上げて、相対的に前輪の持ち上がりを抑えることであったが、このNSR500(NV0G)に乗るワイン・ガードナーはクラッシュの連続で、それはHRCの技術者がスイングアーム・ピボット位置を設計し直すまで続き、NSR500(NV0G)は1988年シーズンの世界チャンピオン・マシンにはなれなかった。 1989年はNSR500(NV0H)をエディ・ローソンが駆り、500ccクラスの世界チャンピオンになる。
燃料噴射装置装備のNSR500の登場
1993年になるとHRCの技術者は燃料噴射装置を装備したNSR500を開発した。ミック・ドゥーハンにこのNSR500が与えられたが、ドゥーハンは母国で開催されたオーストラリアGP(イースタン・クリーク)で完走できなかった。ドゥーハンはその後キャブレター装備のNSR500を駆って1993年シーズンを戦うが、伊藤真一は燃料噴射装置のNSR500で戦うことを余儀なくされた。なぜなら、伊藤はワークスライダーであるが、開発ライダーでもあるから。伊藤はこのNSR500でドイツGP(ホッケンハイム)を走り、時速200マイル(約320km/h)という画期的なスピード記録を出した。
NSR500の大きな設計変更を望まなかったミック・ドゥーハン
ホンダは昔からエンジンの高出力化とトップスピードを最優先してマシンを設計する傾向が強く、そのためにマシンの操縦安定性が損われてしまい、ライダーが苦労することがしばしばあった。ミック・ドゥーハンはNSR500を駆って500ccクラスのタイトルを1994年から1998年まで5年連続して獲得したが、ドゥーハンはHRCの技術者がNSR500の設計を大変更することを望んでいなかったらしく、ドゥーハンが走らせていたNSR500は1992年型NSR500に小変更を加えたマシンであった。ドゥーハンは1999年第3戦スペインGP(ヘレス)での練習走行中に転倒して負傷し、GPライダーを引退した。1999年シーズンは、アレックス・クリビーレがドゥーハンが開発に携わったNSR500を駆って500ccクラスの世界チャンピオンになった。
ミック・ドゥーハン引退後はHRC技術者の主導でNSR500を開発
ミック・ドゥーハン引退後に開発された2000年型NSR500は、以前のようにHRCの技術者はダイナモメーター(動力計)が示す値に基づいてエンジンを設計し、より高出力なV4エンジンを開発した。2000年シーズン第1戦南アフリカGP(パキサ)では、ディフェンディング・チャンピオン アレックス・クリビーレには2000年型NSR500が与えられたが、1999年型V4エンジンを搭載したNSR500を駆るロリス・カピロッシの方が予選タイムは早く、また決勝レースでもカピロッシは3位で表彰台に上がり、クリビーレは5位だった。第4戦スペインGP(ヘレス)ではHRCの契約ライダーであるクリビーレと岡田忠之、セテ・ジベルナウは1999年型NSR500か、あるいは1999年型の部品を組み込んだV4エンジンを搭載したマシンで走った。2000年シーズンのHRC契約ライダーの成績は、クリビーレがランキング9位、岡田が11位、ジベルナウが15位だった。ホンダのライダーで一番良い結果を出したライダーは2000年シーズンから500ccクラスに参戦した1999年シーズンの250ccクラス世界チャンピオン バレンティーノ・ロッシで、ランキング2位であった。
通算500勝、最高峰クラス200勝達成
ホンダのレースの歴史を振り返れば、技術革新を試みて自らを窮地に陥いれ、その後は現実的な技術を選択して勝利を獲得してきた。ホンダはレースに対して決断力と熱意、そして他のメーカーに比較してより潤沢な資金力を持っている。ホンダはロードレース世界選手権(WGP)において、1961年125ccクラス第1戦スペインGP(モンジュイック)で初勝利をあげ、2001年500ccクラス第1戦日本GP(鈴鹿)で通算500勝を達成した。WGPの最高峰クラスでは、1966年500ccクラス第1戦西ドイツGP(ホッケンハイム)で初優勝し、500ccクラスがMotoGPクラスに移行して5シーズン目の2006年第8戦オランダGP/ダッチTT(アッセン)で200勝を達成した。
国際ロードレーシングチーム協会(こくさいロードレーシングチームきょうかい、IRTA - International Road Racing Teams Association)は、MotoGPに参加している全チームと主要な専門供給業者、スポンサーから成る団体のことである。
モーターサイクルスポーツ製造者協会(—せいぞうしゃきょうかい、MSMA - Motorcycle Sport Manufacturers' Association)は、ロードレース世界選手権に参加するモーターサイクル製造会社(メーカー)で構成される協会のことである。2003年時点で次の6社が加盟している -- Aprilia(アプリリア)、Ducati(ドゥカティ)、ホンダ、カワサキ、スズキ、ヤマハ。
レーシング・オーガナイザーズ・アンド・プロモーターズ協会(—きょうかい)は、"Racing Organizers and Promoters Association"のことで、略称は"ROPA"。
ドルナスポーツ(Dorna Sports, S.L.)は、MotoGPの商標権を所持する会社である。CEOはカルメロ・エスペラータ(Carmelo Ezpeleta)。
ドルナは1992年からロードレース世界選手権(WGP)の運営を行っており、FIMはドルナがWGPの運営を始めてから250戦になったこを記念して、2008年5月19日にルマン(フランス)で記念式典を行い、ドルナに記念品を贈呈した。
ツー・ホイール・プロモーションズ(TWP - Two Wheel Promotions)は、1992年シーズンのロードレース世界選手権(WGP)のすべての商業的権利を所有していた会社である。社長はバーニー・エクレストン。1991年にWGPのすべての商業的権利を獲得し、テレビ放映権はドルナにリース。1993年にはWGPの商業的権利をドルナに売却した。
マウンテン・コースの南東に位置する1周17.38kmの公道を使用したロードコースで、マウンテン・コースの一部も使用する。コース名は、人造湖のクリプス湖(Clypse Resevoir)を周回することに因んで名付けられた。ホンダが1959年に初めてWGPの125ccクラスに参戦したときに使用されたコースである。
ロードレース世界選手権(WGP)を引退するライダーに対して、WGP関係者はそのライダーに対して「おめでとう」と言う。その意味についてイギリス人ジャーナリストのケル・エッジは次のように説明している。
「会社を定年退職した人に『おめでとう』とはいわないが、学校を卒業した人には『おめでとう』というでしょ。なぜなら、彼らには未来があるから」(ケル・エッジ)
かつては、ライダーたちはロードレース世界選手権が開催されるヨーロッパ各地のサーキットまで車で移動していたため、彼らの居住地としてヨーロッパの中心部が選ばれることが多かった。しかし、現在のトップライダーたちは航空機を使って各サーキットまでやって来るようになったので、居住地はどこでもよくなった。これはトップライダーたちの報酬がそれに見合ったものになったからである。このような環境を作り出すことに、片山敬済やバリー・シーン、ケニー・ロバーツらが大きな役割を担った。
かつてのパドックの雰囲気は和やかなものであった。ライダーやメカニック、チームディレクターなどがお互いにそれぞれのキャンプ場所を自由に訪れ、談笑したりしていた。一緒に酒を呑んだり、食事をしたりして楽しんでいた。しかし、日本の4メーカーが500ccクラスに多額の費用をかけるようになってからパドックの様子は変化し、チームの関係者以外の者が近づくと嫌悪感を示すようになった。このような状況になったのは、各チームが1シーズンを戦うために数十億円という費用をかけていることが影響している。
パドック内の設備は貧弱なものであったが、ライダーやジャーナリストたちが長年サーキット側に改善を申し入れ続けて少しずつ良くなってきて、トイレやシャワーが設置されるようになり、また、サーキットにもよるが、簡単な手術ができる救急施設を設置しているところもある。ここまで来るには、ライダーたちは大きな犠牲を払ってきた。多くの事故やライダーの死、レースのボイコットを行いながらやっと手に入れたものである。
ロードレース世界選手権の開催に莫大な資金が動くようになってからはライダーたちの人間関係も変化してきた。アマチュア的なレース運営が為されていた頃のライダーたちの人間関係は和気藹藹としてものであった。サーキットからサーキットへの移動中に、あるライダーのトランスポーターが故障などで止まっていたりすると他のライダーたちが修理を手伝ったり、既にパドックに到着しているライダーたちはそのライダーに代わってレースへのエントリーの手続きをすませたりしていた。しかし、そのような人間関係は今はなく、故障で止まっているトランスポーターを見かけても挨拶代わりに軽くクラクションを鳴らして通り過ぎて行く程度である。従来は、ライダーたちはコンチネンタルサーカスの一員として一つの共同体に属しているような関係にあったが、今やレースは完全に仕事となった。以前のようなコンチネンタルサーカスの共同体の一員としての気持ちを持っていた最後の世代のライダーは、バリー・シーンやフランコ・ウンチーニ、マルコ・ルッキネリ、ケニー・ロバーツである。
以前は、GPマシンにはサイレンサー(消音器)が装着されていなかったが、1976年頃にサイレンサーの装着がレギュレーションで規定された。これにはライダーたちから不満が出たが、当時のFIMの責任者がライダーたちへその経緯を説明した。説明の概要は以下のようなものである。
「ロードスポーツに乗るライダーたちはGPマシンに憧れて、自分たちのバイクをGPマシンのように改造して、サイレンサーを装着しないで公道を走り、騒音問題を引き起こしている。GPマシンにサイレンサーが装着されれば、公道を走るライダーたちも自分たちのバイクにGPマシンと同じようにサイレンサーを装着するようになるだろう」(FIM責任者)
この説明にはライダーたちも納得し、GPマシンにサイレンサーが装着されるようになった。現在、MotoGPではMotoGP初期の頃より騒音規制が緩和されている。迫力のある音を出すためだそうである。モーターサイクルレースを取り巻く社会環境が変化してきたようである。逆にロードスポーツでは騒音規制が厳しくなっている。アフターマーケットメーカーのロードスポーツ用サイレンサーの騒音自主規制の厳しさには警察も驚いたそうである。
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レギュレーション(規則)
MotoGP公式ウェブサイト
国際モーターサイクリズム連盟(FIM)ウェブサイト(英語)
新聞、出版社、放送局などのウェブサイト