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| マイルス・デイヴィス Miles Davis | |
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ニューヨークの自宅にて(1955~1956年) | |
| 基本情報 | |
| 出生名 | Miles Dewey Davis III |
| 生誕 | 1926年5月26日 |
| 出身地 |
イリノイ州オールトン |
| 死没 |
1991年9月28日(65歳没) カリフォルニア州サンタモニカ |
| ジャンル | ジャズ、ビバップ、クール・ジャズ、エレクトリック・ジャズ、クロスオーバー、フュージョン |
| 職業 | ジャズ・ミュージシャン、作曲家、編曲家 |
| 担当楽器 | トランペット、フリューゲルホーン、オルガン |
| 活動期間 | 1944年 - 1991年 |
| レーベル |
プレスティッジ・レコード コロムビア・レコード ワーナー・ブラザース(現ワーナー・ミュージック・グループ) |
| 公式サイト | https://www.milesdavis.com/ |
マイルス・デイヴィス(英語: Miles Davis、本名:マイルス・デューイ・デイヴィス3世(英語: Miles Dewey Davis III)、1926年5月26日 - 1991年9月28日)は、アメリカ合衆国出身のジャズトランペット奏者、作曲家、編曲家。
アルバム『カインド・オブ・ブルー』『ビッチェズ・ブリュー』など多くの作品で知られている。日本には彼を「モダン・ジャズの帝王」と呼ぶジャズ・ファンやジャズ評論家もいる。いわゆるジャズの巨人の一人。
クール・ジャズ、ハード・バップ、モード・ジャズ、エレクトリック・ジャズ、クロスオーバー、ヒップホップ・ジャズなど、時代に応じて様々な音楽性を見せ、ジャズ界を牽引した。

イリノイ州オールトン生まれ。翌年、イーストセントルイスへ転居。祖父はアーカンソー州に広い土地を持ち(マイルスの父によると「複式簿記ではアーカンソーで右に出る者はいないといわれた人で、白人たちが帳簿を直してもらいに夜陰に乗じてやってきた」という)、父は音楽家を志望していたほど音楽に造詣の深い歯科医、母はピアノとヴァイオリンをマスターし、教会でオルガンの教師をしたこともあり、姉も家でピアノを弾くという裕福かつ音楽と身近な環境で育った。13歳の誕生日に父親からトランペットをプレゼントされ、演奏を始める。高校在学中の15歳のときにユニオン・カードを手に入れ、セントルイスのクラブに出演するようになる。当時のセントルイスにはアフリカ系アメリカ人の労働者の居住区が多く、ジャズライブが定期的に行われていた。そのためマイルスは多数のジャズプレイヤーを見て学んでいた。
母にプロのミュージシャンになることを反対されていたが、16歳のころ、アイリーン・バースという少女を妊娠させ最初の結婚をし、その生活費を稼ぐ名目で音楽活動をある程度許されるようになった。
18歳のころ、マイルスは、セントルイスにビリー・エクスタインのバンドが来たとき、病気で休んだ第3トランペッターの代役を務め、チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピーとの共演を果たした。このときのことをマイルスは「バードとディズの演奏を聴いてても何が何だかさっぱりわからなかった」と語っている。彼はその後直ぐにニューヨークに向かい、ジュリアード音楽院のオーディションを受け、入学している(その後、ほとんど授業を受けないまますぐに中退している)。間もなくパーカーを探し当て、1年間同じ部屋で暮らしながら演奏を共にする。
1945年、ライオネル・ハンプトンのバンドに所属していたハービー・フィールズの録音に参加。公式の初レコーディングである。1947年には、パーカーやマックス・ローチのサポートを得て、初のリーダー・セッションを行う。
パーカーの元でのビバップからキャリアは始まったが、マイルスは新たな可能性を求め、1948年に編曲家のギル・エヴァンスやジェリー・マリガンらと出会う。ギルの協力を得て、後のウェスト・コースト・ジャズの興盛に多大な影響を与えた『クールの誕生』を制作。スイング時代に意欲的な活動を繰り広げたピアニスト兼バンドリーダーのクロード・ソーンヒルの音楽から受けた影響を発展させたものだった。その後もギルとは度々共同制作を行う。

1950年代に入ると、J・J・ジョンソン、ソニー・ロリンズ、ホレス・シルヴァー、ジョン・ルイス、アート・ブレイキーなどと共演するが、麻薬の問題で一時演奏活動から遠ざかる。しかしそこから立ち直り、1954年プレスティッジ・レコードから発表した『ウォーキン』は高く評価され、ハード・バップのトップ・アーティストとしての地位を固める。1954年12月24日にはアルバム『マイルス・ディヴィス アンド モダン・ジャズ・ジャイアンツ』でセロニアス・モンクと共演する。両者は音楽に対する考え方が相容れなかったとされ、この共演は俗に「喧嘩セッション」とも呼ばれるが、実際の所、演出上マイルスが吹くときにモンクに演奏しないよう、マイルスが指示しただけとされる。
1955年、ジョン・コルトレーン、レッド・ガーランド、ポール・チェンバース、フィリー・ジョー・ジョーンズのメンバーで、第1期クインテットを結成。同年、ニューポート・ジャズフェスティバルにおいて、チャーリー・パーカー追悼のために結成されたオールスター・バンドに参加。このときの演奏がきっかけとなりコロムビア・レコードと契約。1956年に移籍第1作『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』発表。その一方で、プレスティッジとの間に残された契約を済ませるために、アルバム4枚分のレコーディングをたった2日間で行った。24曲、すべてワンテイクであったといわれる。俗に「マラソン・セッション」と呼ばれるが、連続した2日間ではなく、2回のセッションの間には約5か月のブランクがある。これらの演奏は『ワーキン』『スティーミン』『リラクシン』『クッキン』の4枚のアルバムに収録され、プレスティッジはこの4枚を毎年1枚ずつ4年かけて発売した。また、1957年にはパリに招かれ、ルイ・マル監督の映画『死刑台のエレベーター』の音楽を制作した。映画のラッシュ・フィルムを見ながら即興演奏で録音したというのが伝説になっている。
1958年にはキャノンボール・アダレイを加えて、バンドはセクステット(6人編成)になる。同年にはキャノンボールの『サムシン・エルス』に参加。また、レッド・ガーランドが退団したため、ピアノにビル・エヴァンスを迎える。ビルはバンドにクラシック音楽(特にラヴェル、ラフマニノフ)の要素を持ち込みマイルスに影響を与えたが、7か月余りで脱退。ウィントン・ケリーが代わって参加した。
1959年代表作の一つ『カインド・オブ・ブルー』を制作。その際にはビルを特別に呼び戻した。この作品でマイルスは、これまでのコード進行に頼る楽曲ではなくスケール(音列)を指標とした手法、いわゆるモード・ジャズの方法論を示した。この作品は革新的である以上に演奏の完成度が非常に高い。


1960年にジョン・コルトレーンがグループを脱退、他のメンバーも随時交替する。ここからしばらくメンバーは固定されず(この時期ソニー・スティット、ソニー・ロリンズ、J・J・ジョンソンらと再び共演している)、作品的にも目立ったものは少なく、ライブレコーディングが中心となっていく。1963年ジョージ・コールマン、ハービー・ハンコック、ロン・カーター、トニー・ウィリアムスがグループに参加。ほどなくサックスのコールマンがサム・リヴァースに変わる。
1964年7月10日から16日にかけて、東京都、大阪市、京都市、名古屋市、札幌市で「第1回世界ジャズ・フェスティヴァル」が開催。マイルスは同フェスティヴァルに出演するため初来日した。同年秋にはウェイン・ショーターを迎え、マイルス、ウェイン、ハービー、ロン、トニーという第2期クインテットが確立。1968年前半までこのメンバーで活動した。途中マイルスが健康状態の悪化で活動の休止を余儀なくされる時期もあり、録音された作品はあまり多くは無かったが『E.S.P.』『マイルス・スマイルズ』『ソーサラー』『ネフェルティティ』など優れたスタジオ・アルバムと数枚のライブ・アルバムを発表した。特に前述の4作品は60年代4部作と呼ばれ、50年代のマラソンセッション4部作と並んで人気が高い。演奏面でも作曲面でも4ビートスタイルのジャズとしては最高水準まで昇りつめた5人は、「黄金クインテット」と呼ばれる。マイルス自身もこのクインテットを「偉大なバンド」と評しており、4人から学んだことも多かったと語っている。
1968年、8ビートのリズムとエレクトリック楽器を導入した、『マイルス・イン・ザ・スカイ』を発表。この年の後半には、リズム・セクションがチック・コリア、デイヴ・ホランド、ジャック・ディジョネットに交替。このメンバーによる録音は長らく公式には発表されなかったため、ファンの間では「幻のクインテット」「ロスト・クインテット」と呼ばれていたが、マイルスの死後1993年になってようやくライブ盤『1969マイルス』が発表され、黄金クインテットに劣らない高水準の演奏がようやく日の目を見ることになった。
1969年7月、ジョー・ザヴィヌル、ジョン・マクラフリンの参加を得て、『イン・ア・サイレント・ウェイ』を発表。

1970年3月、LP2枚組の大作『ビッチェズ・ブリュー』を発表した(録音は1969年8月)。3人のキーボード、ギター、ツイン・ドラムとパーカッション、という大編成バンドでの演奏で、重厚なリズムとサウンドは70年代のジャズの方向性を決定づけた。この時期、マイルスはジェームス・ブラウンやスライ・ストーン、ジミ・ヘンドリックスなどのアルバムを好んで聴いていたと伝えられており、そのファンクやロックの要素を大胆にジャズに取り入れた形となった。
1970年代に入るとマイルスはファンク色の強い、よりリズムを強調したスタイルへと発展させ、ジャズ界でブームとなりつつあったクロスオーバーとは一線を画する、ハードな音楽を展開する。マイルスのエレクトリック期とは、この時期を指すことが多い。マイルスは、次々にスタイルを変えながらスタジオ録音とライブを積極的に行ったが、公式発表された音源は必ずしも多くはなく、後に未発表音源を収録した編集盤が多く発売されることになる。
1972年、公式に発表した『オン・ザ・コーナー』は、ファンクを取り入れたことが話題となる問題作であった。しかし、クロスオーバー・ブームで、かつてのメンバーのハービー・ハンコックやチック・コリアなどがヒット作を出す一方で、こういったマイルスの音楽はセールス的には成功とはいえなかった。
1973年と1975年に来日しツアーを行う。この頃から健康状態が悪化。
1975年2月1日、大阪フェスティバルホールで行われた昼・夜公演を最後に、以降は長い休息期間となる。 なお、本公演を収録したライブアルバム『アガルタ』(昼公演)と『パンゲア』(夜公演)は同年8月に発表された。
1978年3月2日、コロムビアのニューヨーク・スタジオにて、ギタリストのラリー・コリエル、ベーシストのT.M.スティーヴンス、ピアニストの菊地雅章とジョージ・パヴリス、ドラマーのアル・フォスターがレコーディング・セッションに参加。この時の音源は長らく公式に発表されていないが、2010年頃から非公式で出回っている。

1980年に活動再開。ドラムのアル・フォスター以外はビル・エヴァンス(サックス)、マイク・スターン、マーカス・ミラーなど、当時それほど有名ではなかったフュージョン系の若手がメンバーとなった。1981年に復帰作『ザ・マン・ウィズ・ザ・ホーン』制作。10月には新宿西口広場(現在の東京都庁)で来日公演を行った。この模様は、後日NHKテレビで放映され、ライヴ盤『ウィ・ウォント・マイルス』にはその一部が収録されている。以降、1983年、1985年、1987年、1988年、1990年と度々来日した。
1980年代はフュージョン、ポップ・ジャズ色を強め、アルバム『ザ・マン・ウィズ・ザ・ホーン』(1981年)や『スター・ピープル』(1983年)はメンバーや楽曲ともにフュージョンの割合が多い。1985年に制作された『ユア・アンダー・アレスト』ではマイケル・ジャクソンの「ヒューマン・ネイチャー」やシンディ・ローパーの「タイム・アフター・タイム」などを取り上げた。
1986年、長年在籍したコロンビアからワーナー・ミュージックへ移籍。同年発表の『TUTU』は、マーカス・ミラーのプロデュース(1曲のみジョージ・デュークのプロデュース)で、バンドを従えずあらかじめ出来上がったトラックの上にトランペットをかぶせるポップス・ミュージシャンのような制作スタイルを取り入れた。また、プリンスなどにも接近し、いくつかのセッションや録音をした他、ペイズリーパークでのプリンスのライヴにゲスト出演している。また、TOTOによるアルバム『ファーレンハイト』にも、ゲストとして参加。以降も、チャカ・カーンやスクリッティ・ポリッティなど、ジャズ以外のジャンルの作品にも多くゲスト参加した。
1990年には東京ドームにて行われたジョン・レノン追悼コンサートに出演し、ビートルズの「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」をカバーした。さらにヒップホップのミュージシャンであるイージー・モー・ビーをゲストに迎えた新アルバムの制作を開始。
1991年9月28日午前10時40分、肺炎と呼吸不全などの合併症のため、カリフォルニア州サンタモニカの病院で死去。65歳没。
そのため、この新アルバムはイージー・モー・ビーにより大きく手を加えられ、『ドゥー・バップ』(1991年)としてリリースされることとなる。ヒップホップ・ジャズとも言える本作は、黒人ラジオでオンエアされるなどリスナーの評価はよかったが、未完成ということもあり当時、評論家は批判的だった。
なお、マイルス亡き後も様々な音楽・評論・出版物などで引用・評価され、様々な賞を受賞し続けている。
マイルスのトランペット・プレイは、ミュートを(1940年代後半〜1950年前半に使用したミュートは「カップ・ミュート」が中心で、「ハーマン・ミュート」を頻繁に使用するのは1950年代中頃から)使用し、自身の特性を考慮し、ヴィブラートをあまりかけず、跳躍の激しい演奏などといったテクニックにはあまり頼らない面が挙げられる。また、ディジー・ガレスピーのようなハイトーンを避け、中音域がトランペットにおいて最も美しい音が出る、として多用し、音から音へ移動する場合、半音階を用いている。なお、これらの奏法が「リリシズム」に例えられることがある。
作曲としては、1950年代中頃より「楽曲全体の構成」を重視した作品が多くなり、テーマの入り方にも趣向を凝らしたものが多くなった。また時にアドリブとは思えないような、尺(空間)を大胆に持たせ丁寧なメロディーラインを有したソロ演奏も見受けられた。キャノンボール・アダレイのアルバム『サムシン・エルス』の中の一曲「枯葉」における演奏は、これらの特徴が顕著に表れている。またこういった特徴と先述のミュート奏法から、1950 - 1960年代のバラードやスローテンポナンバーは総じて評価が高い。「楽曲全体の構成」に重きを置く彼の音楽性は、無駄な音を出さないという「空間性」にも繋がっていき、特にそれは後年になると音楽プロデューサー的な役割となって彼の音楽性に強く表れていった。
楽曲上の主な特徴は、初期においては、テーマの後、それぞれが順にソロ演奏を行い、その間バックアップとして呼応したり煽ることはあっても、アドリブ演奏を同時に2つ以上ぶつけることはせず、その後、再びテーマに戻って終わるといった、ジャズでの典型的なスタイルである。1960年代以降は、テーマに戻らずに終了する作品も見られる。また、1970年代以降のステージでは、トランペットの他に電気オルガンやシンセサイザーといったキーボードを演奏することもあった。
クラシックなどのアレンジも研究し、クール・ジャズや後の完全にアレンジされたジャズにおいて、その成果が発揮された。特に、マイルスが導入したスタイルにモード (旋法)・ジャズ(Modal Jazz)がある。これらは、チャーリー・パーカーらが創出したビバップに限界を感じ、コードが導入される以前の古い教会旋法を積極的に採りいれたアルバム『カインド・オブ・ブルー』で、モード・ジャズの発端を開いた。
他にも、ブルースやロック、はたまたヒップホップなども採り入れ、ジャズを超えた、様々なジャンルの音楽に注目していた。1960年代後半は、マイルス自身ロックなど電気楽器を取り入れた音楽にも強い関心を持っていた(70年代のキャリアに於けるマイルスのトランペットにもエレクトリック・サウンドへ対応するための改造が施され、ワウ・ワウ・ペダルを駆使した唯一無二のサウンド・スタイルを確立させたのは有名である)。ジェームス・ブラウン、スライ・ストーン、ジミ・ヘンドリックスの音楽を評価し、ジミとは共同で録音する計画まであった。ただ、ジミとの共演は非公式なセッションだけで終わった。プリンス作曲の「ジェイルバイト」の音源は、未発表のままとなっている。ただし、ブートというかたちでプリンスと共演したもう一つの作品「キャン・アイ・プレイ・ウィズ・ユウ」は出回っている。この曲は元々、アルバム『TUTU』に入る予定であったが、曲調が他の収録曲と合わないため外れた。また、『ユア・アンダー・アレスト』では、スティングがナレーションでゲスト参加し、マイケル・ジャクソンやシンディ・ローパー(「タイム・アフター・タイム」)のカバーも収録している。
音楽的には柔軟で先進的な姿勢を貫いたマイルスも、フリー・ジャズは演奏せず、オーネット・コールマンを批判したこともあった。


マイルスは、アメリカにおける人種差別問題にしばしば批判的であった。「白人によるアメリカ」を嫌悪しており「カストロはアメリカを批判するのに3日掛かると言ったが、俺なら2週間掛かる」と喧伝していた[要出典]。マイルス自身も人種差別の被害を受けており、1959年、バードランドの前で白人の警官に立ち去るよう命じられ、刑事に頭を殴られ連行された。
また、「今生きている人間で最も大切な人を5人挙げてくれないか」とインタビューで聞かれ、「俺自身と弁護士のハロルド・ロベット、ギル・エヴァンスと妻のフランセス。あとの一人は50歳をこえたアメリカン・ニグロなら誰でもいい。みんな白人にひどい目に遭わされたのに我慢したからさ」と答えている[要出典]。
しかし、音楽性の追求のためには人種は関係ないというスタンスを貫き通した。マイルスが一番の親友と称しているアレンジャー、ギル・エヴァンスには生涯に渡って強い影響を受けていた。また、初期の名作『クールの誕生』にはリー・コニッツやジェリー・マリガンといった白人ミュージシャンを起用した。リー・コニッツを雇った際、当時主なマイルス音楽のリスナーだったアフリカ系アメリカ人層からは批判されたが、マイルスは「いいプレイをする奴なら、肌の色が緑色でも雇う」と発言したと伝えられている。
1958年にはセクステットにビル・エヴァンスを迎え入れたが、唯一の白人メンバーとして聴衆の一部から疑問視されたことなどもあり、同年11月に脱退した。1960年代末のエレクトリック導入期には、ジョー・ザヴィヌルやジョン・マクラフリンの存在抜きには考えられないほど彼らの才能を評価していたし、その後もチック・コリアやキース・ジャレット、デイヴ・リーブマンなど多くの白人メンバーが在席した。ピアニストのケイ赤城は1989年から2年間、日本人として唯一のレギュラー・メンバーを務めた。70年代後半の休養期にも、日本人ピアニスト菊地雅章が未発表セッションに参加していた。
速いものを好み常にフェラーリなどのスポーツカーを乗り回していた。また彼曰く最速のスポーツであることから、ボクシングをたしなんでいた。このスポーツカーへのこだわりは飛行機で移動すれば1時間のところを、クルマに乗ることに固執し、3時間かかってしまったことにも現れている。1980年の復帰以降は、絵を描くことに没頭し、『スター・ピープル』のジャケットにはマイルス自身のドローイングが使われている。
※以下、Capitol、Blue note、Prestige、CBS、Warner Bros.はレコードレーベル名
Capitol
Blue note
Prestige
CBS
カムバック後
Warner Bros.
グラミー賞は、通算8回受賞、32回ノミネートされている。またアルバム11枚がグラミーの殿堂入りを果たし、本人には生涯功労賞が授与されている。その他、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム(1998年)、死後15年経った2006年にロックの殿堂入りを果たし、授賞式でのプレゼンターは、マイルスとグループを共にしていたハービー・ハンコックが務めた。
デンマークによって、音楽的に著しい成果を上げた人物に対して贈られる賞である。主にクラシック奏者が受賞するため、マイルスの受賞は異例であった。