| スティーリー・ダン | |
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1977年 スティーリー・ダンの中心メンバー、ウォルター・ベッカー(左)とドナルド・フェイゲン(右) | |
| 基本情報 | |
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| ジャンル | |
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| レーベル | |
| 公式サイト | steelydanofficial.com |
| メンバー | ドナルド・フェイゲン |
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スティーリー・ダン(英語: Steely Dan)は、アメリカ合衆国ニューヨーク出身のロックバンド。主にドナルド・フェイゲンとウォルター・ベッカーによるデュオ体制で活動し、世界的な成功を収めた。2017年にベッカーが死去し、以降はフェイゲンのソロユニットとして継続している。
ラテン音楽やR&B/ソウル、ブルー・アイド・ソウルやジャズなど黒人音楽寄りで幅広く多様性を持った音楽性が特徴。ジャズ的な代理コードや意表をつくコード進行で曲にひねりを加え、著名なスタジオ・ミュージシャンを起用し高度なアンサンブルを構築。その独特なサウンドは、クロスオーバーや黒人音楽に関心を持つミュージシャンに、多大な影響を与えた。テクニカルな面が強調されがちだが、1950年代、60年代のジャズやR&Bが持つフィーリングを重視しており、ボブ・ディランに影響を受けた、ドナルド・フェイゲンの奇妙で難解な歌詞も特徴の一つとしてあげられる。
ドナルド・フェイゲンとウォルター・ベッカーはニューヨークのバード・カレッジ在学中に知り合い、共同で曲作りを始める。カレッジ卒業後(ベッカーは中退)2人は作曲家として活動するが仕事には恵まれず、ジェイ&ジ・アメリカンズのバックミュージシャンなどで糊口を凌いでいた。この頃に作られたデモテープは、後に「ベッカー&フェイゲン」名義の作品集としてレコード、CD化されている。ようやくABCレコードのプロデューサーのゲイリー・カッツに才能を見出された2人はロサンゼルスに移住、バンドとしてレコード・デビューするために旧知のミュージシャンを呼び寄せ、スティーリー・ダンを結成した。バンド名は、ウィリアム・S・バロウズの小説『裸のランチ』に登場する男性器の張型「Steely Dan III from Yokohama」に由来する。
結成当初のメンバーは、ドナルド・フェイゲン(ボーカル、キーボード)、ウォルター・ベッカー(ベース)、デニー・ダイアス(ギター)、ジェフ・バクスター(ギター)、ジム・ホッダー(ドラム、ボーカル)、デイヴィッド・パーマー(ボーカル)。主なスタッフにゲイリー・カッツ(プロデューサー)、ロジャー・ニコルズ(エンジニア)。
1972年、デビュー・アルバム『キャント・バイ・ア・スリル』発表、そこからシングル・カットされた「ドゥ・イット・アゲイン」は全米6位の大ヒットを記録した。
プロのミュージシャンとなればライブ活動は必要不可欠だが、本来作曲家としての活動を望んでいたベッカーとフェイゲンは肉体的にも精神的にも過酷なライブを嫌い、それがやがて他のメンバーとの軋轢を生む。また作品を追うごとに理想とするサウンドとメンバーの演奏力の差が明らかになると、彼等の感情を無視して外部のスタジオ・ミュージシャンを積極的に起用するようになり、バンドとしての一体感は失われていった。
1974年、3枚目のアルバム『プレッツェル・ロジック』発表、そこからシングルカットされた「リキの電話番号(Rikki Don't Lose That Number)」は全米4位と、シングルとしては彼ら最大のヒットを記録した。しかしすでにこの頃はバンド形態は崩壊寸前状態で、パーマーは既に解雇され、同年にバクスターとホッダーも解雇され、ライブ活動は停止した。なお同年のライブではマイケル・マクドナルド、ジェフ・ポーカロがツアーメンバーとして参加している。
以降はスタジオ・レコーディングのみの活動に専念、トム・スコット、ラリー・カールトン、チャック・レイニー、バーナード・パーディー、スティーヴ・ガッドら主に、クロスオーバー系の腕利きミュージシャンを大勢起用するようになった。
1976年、5枚目のアルバム『幻想の摩天楼』を発表。ゴールドアルバムに選ばれチャート15位に入賞、ちなみにスティーリー・ダンのアルバム中、最もギターが多用された作品である。
1977年、6枚目のアルバム『彩(エイジャ)』発表、全米3位、200万枚を売り上げる大ヒットを記録した彼らの代表作である。同アルバムでは、東西の有名スタジオ・ミュージシャンを贅沢に起用していた。音楽評論家からも高い評価を受け、このアルバムはスティーリー・ダンの名声を決定的なものにした。なおデニー・ダイアスが本作を最後に正式にメンバーから外れ、スティーリー・ダンは名実共にベッカーとフェイゲンの2人だけのグループとなった。
1980年、7枚目のアルバム『ガウチョ』発表後、スティーリー・ダン、すなわちベッカーとフェイゲンのコンビは翌年に活動を停止する。『ガウチョ』もヒットを記録、高い評価を獲得したが、前作の評価があまりにも高かったゆえに制作時のプレッシャーは並々ならぬものがあった。フェイゲンやプロデューサーゲイリー・カッツの完璧主義は前作を超え、演奏に寸分の狂いも許さず、一方ベッカーは麻薬に溺れレコーディングどころではなくなっていた。前作に比べ、膨大な時間(2年半)と費用(日本円で1億円以上)がかさんだり、アルバムのメインとなるべき曲が思わぬミスで消されるなどのトラブルが頻発したが、完成度の高さは頂点を極めている。スティーリー・ダンはこのアルバムを区切りに、長い休止期に入る。
1982年、ドナルド・フェイゲンはソロ・アルバム『ナイトフライ』を発表。スティーリー・ダン時代のサウンドにさらに磨きをかけ、以前に劣らぬヒットと高い評価を獲得した。3M製32トラックのデジタル・マルチトラックレコーダーを使用した音響面のクオリティの高さも絶賛され、一時期はPAエンジニアのサウンド・チェックの定番となっていたほど「音のいいアルバム」といわれていた。
一方のウォルター・ベッカーは麻薬中毒から脱するためにハワイ・マウイ島に移住。1985年にチャイナ・クライシスのプロデューサーとして音楽界に復帰した。その後、フェイゲン、ベッカーともに目立った活動をすることはなかった。
1993年、フェイゲンのソロ・アルバム『カマキリアド』をベッカーがプロデュースしたことをきっかけに2人での活動を再開する。そして同年に「スティーリー・ダン・フィーチャリング・ウォルター・ベッカー&ドナルド・フェイゲン」名義でライブツアーを開始、翌年には初来日も果たした。このツアーの模様は公式のライブ盤『アライヴ・イン・アメリカ』として発売されている。
1996年、再び世界ツアーを行ない、同年に発表したベッカーのソロ・アルバム『11の心象(11 Tracks Of Whack)』をフェイゲンがプロデュースしている。
2000年、スティーリー・ダン名義としては『ガウチョ』以来20年ぶりとなる8枚目のスタジオ・レコーディング・アルバム『トゥー・アゲインスト・ネイチャー』を発表。全米6位の大ヒットを記録し、同年のグラミー賞では最優秀アルバムをはじめ4部門を獲得した。
2003年、9枚目のアルバム『エヴリシング・マスト・ゴー』発表。
同年、アルバム『彩(エイジャ)』がグラミーの殿堂入りを果たしている。
2017年9月3日、ウォルター・ベッカーの死去が、ベッカーのオフィシャルサイト上で発表された。67歳没。当初死因等の詳細は発表されていなかったが、11月16日にベッカーの妻デリアにより、死因については急激な進行の食道癌であったことが公表された。癌は毎年受けていた健康診断で発見され、化学療法による治療を行っていたものの、進行が早く発見から4ヶ月も経たないうちに死去したという。ドナルド・フェイゲンは追悼声明で、大学時代からの長年の友人でありバンドメイトでもあったベッカーを回想するとともに、スティーリー・ダンとして作り上げてきた音楽を、自分ができうる限り続けていきたいと語った。
ベッカー死去の翌週から、意向の通りバンド活動を継続。ベッカー亡き後初のツアーは10月13日、オクラホマ州タッカービル公演からスタートし、「ドゥービー・ブラザーズ」とのジョイントライブをイギリスで3公演開催する事を発表した。
2019年秋、過去の名作『幻想の摩天楼』『彩(エイジャ)』『ガウチョ』『ナイトフライ』のアルバム全曲を再現する日替り企画を、秋の米東海岸ツアーにて実施。

当初、フェイゲンは自分がボーカルを取ることをとても嫌がっていた。自分の声域が狭く理想的な声質でない、大学までボーカルなんてやったこともなかった、あがり症なのでライブなどではMCもこなさければいけないことが不安、という理由だった。そのため、ボーカリストをいつも探していた。一方、プロデューサーのゲイリー・カッツら周囲の人間は、フェイゲンのボーカルを気に入り強く勧めていた。デイヴィッド・パーマーをボーカリストとして迎え入れ数曲演奏したが、やはりフェイゲンが歌ったほうがいい、ということになり、彼がリードボーカリストに決まった。
3rdアルバムの頃からは、演奏者にもより高いレベルの演奏を要求するようになったため、より高度な技術を持つスタジオミュージシャンを招聘して演奏させることが多くなり、オリジナル・メンバーの出番が少なくなっていった。それはフェイゲンとベッカーにも当てはまり、2人も演奏に参加しない曲も増えていた。ツアーもやめることで、2人以外のメンバーの仕事は余計なくなっていった。ただし2人は他のメンバーを直ぐには解雇せず、アルバムでほとんど演奏していないメンバーに対しても、その後の活動の準備が整った段階で自ら脱退を決めてもらうようにしていた。
1972年
1973年
1974年
1975年
1976年
1977年
1978年
1980年
1981年
2000年
※アルバムチャート順位は「Billboard 200」、シングルチャート順位は「Billboard Hot 100」より。
※ドナルド・フェイゲンおよびウォルター・ベッカーのソロ・アルバムについてはそれぞれの項目を参照。