| ジャズ | |
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| 様式的起源 | ブルース、ラグタイム |
| 文化的起源 | 19世紀、アメリカ南部(諸説あり) |
| 使用楽器 | ピアノ、トランペット、トロンボーン、サクソフォン、クラリネット、フルート、鍵盤楽器、コントラバス、ドラム、ギター、声 |
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| 関連項目 | |
ジャズ(英: jazz)は、19世紀末から20世紀初頭にかけてアメリカ合衆国南部のニューオーリンズを中心に形成された音楽である。黒人の音楽文化を主要な基盤とし、ブルース、ラグタイム、黒人霊歌、ブラスバンドや行進曲、ヨーロッパの音楽文化など、複数の音楽的要素が結びついて発展した。
一般にジャズは、即興演奏や演奏者同士の相互作用を重要な要素とし、シンコペーション、スウィング、ブルース的な音使いなどが特徴としてみられる。ただし、ジャズは時代や地域によって大きく変化してきたため、単一の音楽形式や編成によって定義することは難しい。小編成のコンボやビッグ・バンド、ヴォーカルを主体とする演奏、電子楽器を取り入れた編成など、さまざまな形態が存在する。
20世紀を通じて、ニューオーリンズ・ジャズ、スウィング・ジャズ、ビバップ、クール・ジャズ、ハード・バップ、モード・ジャズ、フリー・ジャズ、フュージョンなど、多様な様式が生まれた。
「jazz」という語の起源には諸説あり、現在も確定していない。有力な説の一つとして、「活力」や「気力」などを意味し、1860年にはすでに用例が確認されている19世紀の俗語「jasm」との関連が指摘されている。このほか、性的な意味を持つ俗語との関連や、フランス語で「おしゃべりする」を意味する「jaser」に由来する説など、さまざまな見解が唱えられてきた。
現在確認されている「jazz」の最初期の印刷用例は、1912年4月2日付のロサンゼルス・タイムズの野球記事にみられる。この記事では、投手ベン・ヘンダーソンが自身の変化球を「Jazz ball」と呼んでおり、この時点では音楽ではなく、「活力」や「勢い」を表す俗語として用いられていた。その後、1915年中頃にはシカゴの新聞で音楽を指す「jazz」の用例が確認されている。なお、初期には「jazz」や「jass」など複数の綴りが併用されていた。

ジャズでは、演奏者が独自の音色や演奏スタイルを持つことが重視されてきた。同じ楽曲であっても、奏者の解釈や即興によって演奏は異なり、既知の曲がそれぞれの方法で新たに提示される。
即興演奏は、楽曲の旋律や和声進行、形式などを土台とし、演奏者が身につけてきたフレーズやリズム、和声上の知識を用いながら、その場で音楽を展開していく実践である。こうした即興には、あらかじめ共有された楽曲の構造や演奏上の慣習と、その場での判断の双方が関わっている。また、ドラムやベース、ピアノなどのリズム・セクションも、ソリストや互いの演奏に反応しながら変化を加え、アンサンブル全体の展開に関与する。こうした演奏者間の相互作用も、ジャズの重要な特徴の一つである。

ジャズは文学、映画、写真、絵画、グラフィックデザインなど、音楽以外の芸術とも密接な関係を持ってきた。ビバップの即興性やリズム感はジャック・ケルアックらのビート・ジェネレーションの文学表現に影響を与えた。写真もまた、ジャズの文化的イメージを形成する上で大きな役割を果たした。ハーマン・レナードは1940年代から1950年代にかけて、ビリー・ホリデイやマイルス・デイヴィスらをナイトクラブや録音現場で撮影し、その作品は戦後ジャズを象徴する視覚資料となった。またブルーノート・レコードでは、フランシス・ウルフが捉えた演奏家の写真と、リード・マイルスによるタイポグラフィを組み合わせたアルバム・カバーが、独自の視覚的アイデンティティを確立した。ジャズの影響は美術にも及んだ。ロメール・ベアデンはジャズを題材とした作品やアルバム・アートを制作し、スチュアート・デイヴィスはジャズが自身の絵画様式の形成に影響したと語っている。さらに、ジャクソン・ポロックのアクション・ペインティングについても、彼が愛好したジャズの即興性やリズムとの関連が指摘されてきた。こうした写真、デザイン、美術などの視覚表現は、音楽と相まってジャズをめぐる文化的イメージを形作ってきた。

ジャズは、アメリカの文化や歴史に対する黒人の貢献を広く認識させる役割を果たしてきた。一方、黒人のミュージシャンの間でもその捉え方は一様ではない。黒人文化の達成を象徴するものとみなされる一方で、人種差別や芸術表現に対する制約を想起させるものとして捉えられることもあった。ジャズの演奏や興行も当時の人種隔離から自由ではなく、ハーレムのコットン・クラブのように、黒人ミュージシャンが出演しながらも黒人客の入場が制限される会場も存在した。その一方で、黒人と白人のミュージシャンによる交流や共演も行われ、人種混成のグループは音楽界における人種的な障壁を崩す一端を担った。さらに、ジャズは人種平等や公民権運動とも深く結びつき、人種差別への批判のみならず、黒人ミュージシャンによる「芸術家としての自己決定」をめぐる議論の場ともなってきた。


ジャズは、19世紀末から20世紀初頭のニューオーリンズで形成された。その成立には、黒人のブルース、霊歌、農村部のダンス音楽をはじめ、ラグタイム、ブラスバンド、クレオールや移民の音楽文化が関わった。初期ニューオーリンズ・ジャズでは、コルネット、クラリネット、トロンボーンなどが複数の旋律を重ねる集団即興が特徴となった。コルネット奏者のバディ・ボールデンは初期ジャズの重要人物とされるが、その演奏を収めた録音は残されていない。
1917年、ニューオーリンズ出身の白人楽団オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドは、「Livery Stable Blues」と「Dixie Jass Band One-Step」を録音した。これは一般に最初の商業的なジャズ録音とされ、その発売はジャズの流行をもたらした。一方、ニューオーリンズではそれ以前から、黒人音楽家を中心にブルースや即興演奏を取り入れた音楽が発展していた。
1910年代から1920年代にかけて、ニューオーリンズの音楽家はシカゴやニューヨークなどへ移り、演奏や録音を通じてジャズを広めた。とくにルイ・アームストロングは、ホット・ファイヴおよびホット・セヴンによる1925年から1928年の録音で、即興ソロの発展に大きな影響を与えた。同時期、ジェリー・ロール・モートンは、編曲された合奏と即興演奏を組み合わせた作品を残した。フレッチャー・ヘンダーソンやデューク・エリントンは、大編成楽団のための編曲を発展させ、1930年代のスウィングへとつながる基礎を築いた。
1920年代には、ジャズはアメリカの都市文化を象徴する音楽となった。1922年に刊行されたF・スコット・フィッツジェラルドの短編集『ジャズ・エイジの物語』は、1920年代を「ジャズ・エイジ」と呼ぶ時代認識を広めた。


1930年代には、大編成のダンス・バンドによる、編曲された合奏と即興ソロを交互に配するスウィング・ジャズが広まり、1940年代半ばまでラジオやダンスホールで人気を保った。フレッチャー・ヘンダーソンとドン・レッドマンは、トランペット、トロンボーン、サクソフォーン、リズム・セクションにそれぞれ固有の役割を与え、編曲されたアンサンブルの中に即興ソロを組み込む手法を発展させた。 デューク・エリントンは各奏者の音色や個性を生かした編曲を行い、カウント・ベイシー楽団はリフとリズム・セクションを軸とするカンザスシティの演奏様式を広めた。
ベニー・グッドマンはスウィング期を代表する人気楽団の一つを率い、1938年にはニューヨークのカーネギー・ホールで公演を行った。グッドマンのトリオとカルテットには、黒人演奏家のテディ・ウィルソンやライオネル・ハンプトンが参加し、当時としては珍しい人種混成のグループとして活動した。この時期には、ビリー・ホリデイやエラ・フィッツジェラルドらの歌手も広く知られるようになった。
1930年代末から1940年代初頭にかけて、大編成のスウィング・バンドが持つ制約への反応として、若手演奏家たちは小編成による複雑な即興演奏を追求するようになった。マックス・ローチ、チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピー、セロニアス・モンク、バド・パウエルらは、ニューヨークのミントンズ・プレイハウスで行われたジャム・セッションを通じて、速いテンポ、複雑な和音、変則的なアクセントを特徴とする、新たな様式を発展させた。これがビバップと呼ばれるようになり、戦後のモダン・ジャズの出発点となった。ただし、1942年から1944年にかけてアメリカ音楽家連盟による録音禁止措置が行われたため、ビバップ形成期の商業録音は限られている。
第二次世界大戦中にはダンス会場の閉鎖などによって大編成のスウィング楽団が衰退し、歌手の人気が高まる一方、少人数で活動できるコンボが増加した。1947年には、ガレスピーとキューバ出身の打楽器奏者チャノ・ポソによる「マンテカ」がビバップとアフロ・キューバンのリズムを結びつけ、ラテン・ジャズの成立を示す重要な録音となった。


1950年代から1960年代半ばにかけては、LPレコードの普及と録音技術の発達を背景に数多くの作品が制作され、ジャズの録音史における黄金期と位置づけられる。
1940年代末から1950年代にかけて、抑制された音色、叙情的な旋律、緻密な編曲を重視するクール・ジャズが発展した。マイルス・デイヴィスの九重奏団が1949年から1950年に録音した『クールの誕生』では、ギル・エヴァンスやジェリー・マリガンの編曲により、フレンチホルンやチューバを含む編成が用いられた。アメリカ西海岸では、マリガン、ショーティ・ロジャース、シェリー・マンらがこの流れを担い、ウエストコースト・ジャズと呼ばれるようになった。
1950年代半ばには、ビバップを基盤に、ブルース、ゴスペル、R&Bの要素を強く取り入れたハード・バップが発展した。アート・ブレイキー、ホレス・シルヴァー、クリフォード・ブラウン、ソニー・ロリンズらがその発展を担い、力強いリズム、ブルースに根ざした旋律、反復的なリフを特徴とする演奏を行った。ブルーノート・レコード、プレスティッジ・レコード、リバーサイド・レコードなどのレーベルは、この時期のモダン・ジャズの録音を数多く残した。
この時期には、ジャズと映画音楽の結びつきも強まった。モダン・ジャズ・カルテットは、1957年にロジェ・ヴァディム監督の映画『大運河』のためにジョン・ルイスが作曲した音楽を録音し、『たそがれのヴェニス』として発表した。同年、マイルス・デイヴィスはルイ・マル監督の『死刑台のエレベーター』の音楽をパリで録音し、映像を見ながら即興的に演奏した。こうした作品は、モダン・ジャズが映画の雰囲気や心理描写と結びつく可能性を示した。
1950年代末には、頻繁なコード進行の変化を抑え、少数のモード(旋法)を長く保ちながら、その音階を基盤に即興演奏を行うモード・ジャズが発展した。マイルス・デイヴィスの『カインド・オブ・ブルー』(1959年)はその代表的な作品であり、ジョン・コルトレーン、キャノンボール・アダレイ、ビル・エヴァンスらが参加した。
1960年代には、オーネット・コールマン、セシル・テイラー、サン・ラ、後期のコルトレーンらによって、あらかじめ定められたコード進行や構成に縛られない即興を追求するフリー・ジャズやアヴァンギャルド・ジャズが発展した。コールマンの『ジャズ来るべきもの』(1959年)は、ビバップの和声構造や一定の拍節から離れながら、即興演奏を中心に据えた作品である。コルトレーンの『至上の愛』(1964年)は、宗教的・精神的な探求を表現した作品として位置づけられている。1960年代のジャズは公民権運動とも結びつき、マックス・ローチとアビー・リンカーンの『We Insist! Freedom Now Suite』(1960年)や、チャールズ・ミンガスの「Original Faubus Fables」(1960年)などに、人種差別への抗議が表れた。
1960年代前半には、ブラジルのボサノヴァとジャズの交流が広がり、スタン・ゲッツ、ジョアン・ジルベルト、アントニオ・カルロス・ジョビン、アストラッド・ジルベルトによる「イパネマの娘」は、ボサノヴァを北米で広く知らしめた。
1960年代半ばには、ウェイン・ショーターやハービー・ハンコックらを擁するマイルス・デイヴィス第二期クインテットが、ポスト・バップと呼ばれる様式を形成する中心的な存在となった。同時期のブルーノート・レコード周辺でも、ジョー・ヘンダーソン、ジャッキー・マクリーン、アンドリュー・ヒル、ボビー・ハッチャーソンらが、ハード・バップを基盤としながらモードや前衛ジャズの要素を取り入れ、ポスト・バップを発展させた。日本では、こうした1960年代の潮流を「新主流派」と呼ぶことがある。
1970年、マイルス・デイヴィスは電気楽器を導入した大編成によるアルバム『ビッチェズ・ブリュー』を発表し、ジャズの即興演奏とロックの要素を結びつけた。同作では、デイヴィスとプロデューサーのテオ・マセロによる編集やオーヴァーダビングなどのスタジオ技術が積極的に用いられており、ジャズ・フュージョンの発展に大きな影響を与えた。
ドナルド・バード、マハヴィシュヌ・オーケストラ、リターン・トゥ・フォーエヴァー、ウェザー・リポート、ハービー・ハンコックらは、ジャズ・ロック、ファンクなどを組み合わせ、電化されたジャズを多様な方向へ展開した。なかでもハンコックの『ヘッド・ハンターズ』(1973年)は、R&Bやファンクのリズム、反復的なグルーヴ、シンセサイザーを前面に出し、ジャズ・ファンクを幅広い聴衆に広めた。
フュージョンの一部はR&Bラジオでも支持され、ジョージ・ベンソンのように演奏家と歌手の双方で成功する例や、ヴォーカルを取り入れるグループも現れた。1980年代後半には、レコード会社がジャズの聴衆を広げようとするなかで、商業的なフュージョンを背景とするスムーズジャズが販売上の呼称として広まった。スムーズジャズでは、イージーリスニングやR&Bバラードが参照され、即興演奏の比重は低くなった。
一方、1970年代のニューヨークでは、前衛的な即興演奏家たちがロウアー・マンハッタンの工場や倉庫を転用した空間を自主的な演奏会場とし、ロフト・ジャズと呼ばれる動きを形成した。
同じ時期、ミュンヘンで設立されたECMレコードは、キース・ジャレット、ヤン・ガルバレク、パット・メセニーらの録音によって、独自のレーベルとしての評価を確立した。同レーベルは、残響を強調した録音と簡素なカバーアートによって明確なイメージを築き、ガルバレク、ゲイリー・バートン、ラルフ・タウナーらの作品を通じて、当時の主要なジャズとは距離を置いた、空間の広がりを感じさせる内省的な音楽を打ち出した。
1980年代には、フュージョンや前衛ジャズとは異なる方向として、ストレート・アヘッド・ジャズを再評価する若い演奏家が現れた。ウィントン・マルサリス、ブランフォード・マルサリス、テレンス・ブランチャード、マルグリュー・ミラーらは、40年代から60年代に発展したアコースティック・ジャズの伝統を継承し、「ヤング・ライオンズ」または「新伝承派」と呼ばれた。
新伝承派の潮流と並行して、スティーヴ・コールマン、グレッグ・オズビー、ジェリ・アレン、グラハム・ヘインズらによるM-Baseコレクティヴの活動も展開された。M-Baseは特定の音楽様式ではなく、各演奏者の経験を音楽によって表現しながら、共通の創造的言語を形成しようとする創作上の理念であった。コールマンのグループでは、異なる周期をもつリズムを組み合わせた反復構造の中で、高度な即興演奏が行われた。日本では「ブルックリン派」とも呼ばれ、スイングジャーナルでは新伝承派と対比される潮流として紹介された。

1990年代には、ジョシュア・レッドマンやウォレス・ルーニー、ケニー・ギャレットらがアコースティックなポスト・バップを担う新世代の奏者として台頭した。ブラッド・メルドーは、ピアノ・トリオによる即興演奏を追求する一方、レディオヘッドやニック・ドレイクなどの楽曲を取り上げ、ロックやポピュラー音楽の楽曲をジャズのレパートリーとして再解釈した。
ジョン・ゾーンを中心とするニューヨークのダウンタウン・シーンでは、ジャズの即興演奏と現代音楽、ロック、ユダヤ音楽などを横断する活動が展開された。ゾーンはネイキッド・シティやマサダで活動し、1995年には実験的な音楽を発表するレーベル、ツァディク・レコードを設立した。
ジャズ・ヴォーカルでは、カサンドラ・ウィルソンがブルース、フォーク、カントリーなどの楽曲を取り上げ、従来のジャズ・スタンダードに限定されない幅広いレパートリーを展開した。ダイアナ・クラールは、ピアノ・トリオやオーケストラを伴ってスタンダードを歌い、1999年の『ホエン・アイ・ルック・イン・ユア・アイズ』ではグラミー賞の最優秀ジャズ・ヴォーカル・アルバムを受賞し、年間最優秀アルバムにもノミネートされた。
この時期には、ジャズの録音からサンプリングした音源や、ジャズの演奏をヒップホップのビートに組み込んだジャズ・ラップが広がった。ア・トライブ・コールド・クエスト、ギャング・スター、ザ・ルーツ、ディガブル・プラネッツらがその代表的な担い手となった。
ジャズ演奏家の側でも、ヒップホップやR&Bとの共同制作が進んだ。ロイ・ハーグローヴは1990年代末にソウルクエリアンズの作品へ参加し、2003年にはRHファクター名義で『ハード・グルーヴ』を発表した。ディアンジェロやコモンらを迎え、ジャズにネオ・ソウルやヒップホップ、ファンクを取り入れた同作は、2000年代以降のジャズとヒップホップ/R&Bの融合を示す重要作となり、後続の世代にも影響を与えた。ロバート・グラスパーは『イン・マイ・エレメント』(2007年)の「J Dillalude」で、J・ディラの複数のビートをピアノ・トリオの演奏へと置き換えた。
1990年代半ば以降のヨーロッパでは、ジャズの生演奏にクラブ・ミュージックのビートや電子音を組み合わせる動きが広がり、ニュージャズと呼ばれた。ブッゲ・ヴェッセルトフトは1996年にニュー・コンセプション・オブ・ジャズを始動し、電子的なビートとジャズの即興演奏を結びつけた。ニルス・ペッター・モルヴェルの『Khmer』(1997年)では、トランペットの即興演奏にサンプリング、ハウスやドラムンベースのビート、アンビエントやダブの音響が取り入れられた。

ロバート・グラスパー率いるロバート・グラスパー・エクスペリメントの『ブラック・レディオ』(2012年)は、エリカ・バドゥやレイラ・ハサウェイらをゲストに迎え、ジャズとR&B、ヒップホップを横断した作品となった。同作は、2013年のグラミー賞で最優秀R&Bアルバムを受賞した。
ロサンゼルスでは、テラス・マーティン、カマシ・ワシントン、サンダーキャットら、ジャズを中心にヒップホップやR&Bの制作にも関わる音楽家たちが活動した。彼らは、2010年代を代表するラップアルバムとなったケンドリック・ラマーの『トゥ・ピンプ・ア・バタフライ』(2015年)にも参加した。また、ワシントンが同年に発表した『ジ・エピック』は、10人編成のバンドに合唱団とオーケストラを加えた3枚組・約172分の作品で、ジョン・コルトレーンやファラオ・サンダースに連なるスピリチュアル・ジャズの系譜を受け継いだ。
シカゴを拠点とするマカヤ・マクレイヴンは、インターナショナル・アンセムから『In the Moment』(2015年)や『Universal Beings』(2018年)を発表した。これらの作品では、ライブでの即興演奏を録音した音源にエディットやオーバーダブを施し、楽曲として再構成した。
イギリスでは、2010年代後半にロンドンの新世代の演奏家が注目された。シャバカ・ハッチングス、ヌバイア・ガルシア、モーゼス・ボイド、エズラ・コレクティヴらは、ジャズにダブやカリブ海地域の民俗音楽などを組み合わせた。エズラ・コレクティヴは2023年に『Where I'm Meant to Be』でマーキュリー賞を受賞し、同賞を受賞した最初のジャズ・グループとなった。
2020年には、新型コロナウイルス感染症の世界的流行により、ジャズ・アット・リンカーン・センターが会場でのコンサートや教育プログラムを中止し、ライブ配信や、過去の公演映像、オンライン教育の提供を拡大した。同年のNEAジャズ・マスターズ記念公演も、会場公演の延期を受けてオンライン形式で開催された。
2020年代前半には、イマニュエル・ウィルキンスやジョエル・ロスといったブルーノート・レコードの若手ミュージシャンが、アコースティックな小編成による現代ジャズの新たな担い手として台頭した。両者は、ブルースや黒人教会といった黒人の音楽的・宗教的伝統を、現代的な作曲や即興演奏を通じて捉え直している。
ジャズ・ヴォーカルでは、サマラ・ジョイがジャズ・スタンダードを中心とする歌唱で広く注目を集め、2023年のグラミー賞で最優秀新人賞と最優秀ジャズ・ヴォーカル・アルバムを受賞した。
ジャズは、20世紀を代表する音楽文化の一つであり、アメリカ合衆国で生まれた最初の独自の芸術音楽として評価されている。1987年には、アメリカ連邦議会がジャズを「アメリカの希少かつ価値ある国民的財産(a rare and valuable national American treasure)」と位置づける決議を採択し、その文化的・歴史的意義を公式に認めた。
現在では、ジャズは演奏活動だけでなく教育・研究の対象としても広く定着している。アメリカやヨーロッパ、日本などでは、大学や音楽院にジャズ教育課程が設置され、演奏や創作の実践、音楽史などが体系的に教授されている。また、スミソニアン博物館やジャズ・アット・リンカーン・センターをはじめとする文化機関は、コンサートの開催や教育活動、歴史資料の保存を通じてジャズ文化の継承と普及に取り組んでいる。
また、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)は、2011年に毎年4月30日を「国際ジャズ・デー(International Jazz Day)」に制定した。国際ジャズ・デーは、ジャズを異文化間の対話や相互理解、平和の促進に寄与する文化として位置づけ、世界各地でコンサートや教育プログラムなどが開催されている。
イギリスでは1919年、オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドと、シドニー・ベシェらが参加したサザン・シンコペイテッド・オーケストラがロンドンで公演し、同国におけるジャズの普及に大きな影響を与えた。フランスでは1934年、ジャンゴ・ラインハルトとステファン・グラッペリらがフランス・ホット・クラブ五重奏団を結成した。ヴァイオリン、3本のギター、コントラバスからなる編成は当時のジャズとしては新しく、同楽団は戦間期のヨーロッパで最も人気のあるジャズ・グループの一つとなった。
ナチス政権下のドイツでは、ジャズやスウィングは黒人にルーツを持つことや、ナチスが「ユダヤ的」とみなしたことから規制の対象となり、1935年にはラジオでの放送が禁止された。一方で、スウィングが全面的に禁止されたわけではなく、第二次世界大戦中にはナチス当局が国外向けの対敵宣伝のために「チャーリー・アンド・ヒズ・オーケストラ」を編成し、スウィングをプロパガンダに利用した。
20世紀後半のスカンディナヴィアでは、ヤン・ガルバレクらの音楽を中心に、ジャズを地域の民俗音楽や北方の風景と関連づける動きが活発化し、「ノルディック・トーン」と呼ばれる音楽的イメージが広く定着していった。
キューバでは1920年代からジャズ・バンドが活動し、アメリカ合衆国のジャズとキューバ音楽との交流が継続した。1970年代には、ピアニストのチューチョ・バルデス率いるイラケレが登場し、アフロ・キューバン音楽にジャズ、ファンク、ロック、クラシック音楽などの要素を取り入れた音楽を展開した。同楽団からはパキート・デリベラやアルトゥーロ・サンドヴァルらも輩出され、以後のキューバン・ジャズの発展に大きな影響を与えた。
ブラジルにおけるジャズは、20世紀前半から都市のダンス音楽やビッグバンドを通じて普及し、のちにサンバなどの在来音楽との融合が進んだ。1950年代末に成立したボサノヴァとジャズとの密接な関係は国際的にも認知を得たが、その後もブラジル国内では、サンバ、ショーロ、バイアォン、フレヴォなどの伝統リズムに、即興演奏やジャズの和声を融合させた器楽音楽が発展した。こうした音楽は「ムジカ・インストゥルメンタル・ブラジレイラ」(ブラジル器楽音楽)とも呼ばれ、エルメート・パスコアール、エグベルト・ジスモンチらがその代表的な音楽家として知られている。
メキシコでは、とりわけ1950年代から1960年代にかけてメキシコシティを中心に演奏家やクラブ、聴衆が増加し、同国ジャズの黄金時代を築いた。アルゼンチンでも1920年代以降、ブエノスアイレスを中心とする都市文化にジャズが浸透し、伝統的なタンゴとの交錯を生むと同時に、外来文化の受容とアイデンティティをめぐる議論の対象となった。
南アフリカでは、1920年代から1930年代のヨハネスブルグの都市文化において、マラビと呼ばれる音楽とダンスが発展した。1940年代から1950年代に入ると、アメリカのジャズが南アフリカの黒人音楽家に影響を与える一方、アフリカ在来の旋律とアメリカのジャズを組み合わせた独自の都市音楽も発展した。
1950年代末には、アブドゥーラ・イブラヒム(当時はダラー・ブランド)やヒュー・マセケラ、キッピー・モエケツィ、ジョナス・グワングワらがジャズ・エピッスルズを結成した。1960年に録音された『Jazz Epistle Verse 1』は、同国の黒人音楽家による最初期のモダン・ジャズ・アルバムと位置づけられている。その後、アパルトヘイト体制による統制強化を受け、1960年前後にはマセケラら多くの音楽家が国外へ活動の場を移した。こうした中、イブラヒムはマラビ、ダンス音楽、カーニバル音楽、賛美歌、ゴスペルなど、南アフリカの多様な音楽をより明確に自身の作品へ取り入れるようになった。
エチオピアでは、ムラトゥ・アスタトゥケが同国の伝統的な旋法にジャズ、ラテン音楽、ファンクなどを融合し、1960年代から1970年代にかけて「エチオ・ジャズ」と呼ばれる様式を形成した。
戦前、日本へ渡来した西洋音楽・舶来音楽の代表格にジャズとタンゴがあった。ジャズの聴き手や演奏家には、都市生活者やブルジョワ階級の子弟が多くみられた。初期のジャズ演奏家としては紙恭輔、南里文雄、井田一郎らが知られる。中でも井田は1923年、神戸で日本人初のプロ・ジャズバンドとされるラフィング・スターズを結成した。
1927年12月に発売したディック・ミネの「ダイナ」が大ヒットを記録した。「ダイナ」は日本で広くカバーされたジャズソングであり、榎本健一はパロディとしてカバーした。他にも初期のジャズ・ソングの代表例として、堀内敬三が「My Blue Heaven」を訳詞した「青空」があり、1928年に二村定一、天野喜久代らの歌唱でレコード化された。
1930年代に流行したスウィングジャズは時代の最先端であり、服部良一は1935年、当時のモダンデザインの象徴であった流線型を題材にした「流線型ジャズ」(歌:志村道夫)を世に送り出した。
1940年10月31日をもって日本全国のダンスホールは一斉閉鎖された。行政警察を管掌する内務省や、映画・音楽を監督指導する情報局はジャズを「敵性音楽」として禁止命令を出したものの、その規定は抽象的すぎたため、音楽の素人である役人にはどの曲がジャズに該当するのか判別が難しかった。1943年1月にはジャズレコードの演奏禁止が言い渡され、レコードの自主提出の要請や、「治安警察法第16条」の適用による強制回収によって米英音楽の一掃が図られた。しかし、北村栄治のように自宅で密かに聴き続けていた者もいた。最終的には、役人に協力する音楽業界の人間が集まる「日本音楽文化協会(いわゆる『音文』・音楽界の統制団体)」の小委員会における決定により、正式にジャズの演奏が全面禁止となった。これ以降、ジャズミュージシャンたちの活動の場は各種の慰問団などへと移っていった。
戦前に活躍したジャズ・ミュージシャンやジャズ歌手としては、淡谷のり子、川畑文子、ベティ稲田、レイモンド・コンデ、水島早苗、あきれたぼういずらもいた。
終戦後、戦時中に活動を制限されていたジャズは、進駐軍のクラブやラジオ放送などを通じて急速な復活を遂げた。戦後初期の日本のジャズの先駆けとしては、松本伸らによるニュー・パシフィック・オーケストラが挙げられる。また、弘田三枝子や伊東ゆかり、しばたはつみらは少女歌手として米軍キャンプで歌唱した。
1947年には、服部良一作曲、笠置シヅ子歌唱の『東京ブギウギ』が大きな人気を得て、戦後の大衆音楽を象徴する作品となった。その後も江利チエミやナンシー・梅木といった歌手や、ジョージ川口、世良譲、ティーブ釜萢(ムッシュかまやつの父)をはじめとする優れた演奏家が多数登場し、ジャズは大衆への広がりを見せた。一時期は、外国のポピュラー音楽全般を指して「ジャズ」と呼ぶ風潮すら生まれた。また、この時期にはディキシーランド・ジャズのバンドも数多く結成された。
1952年のジーン・クルーパ・トリオの来日公演を皮切りに、海外のジャズ演奏家による来日公演が相次ぎ、本場の最新動向が日本の聴衆や演奏家たちへ伝えられた。翌1953年には、ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニックやルイ・アームストロング・オールスターズが相次いで来日した。
同時代には、鈴木章治とリズム・エースや北村英治といった演奏家たちが本格的な活動を開始し、宮沢昭や守安祥太郎らも活躍した。やがて日本のジャズは国際化の時代を迎え、1956年に穐吉敏子、1962年には渡辺貞夫がバークリー音楽院(現バークリー音楽大学)へ留学を果たした。さらに1963年には松本英彦がモントレー・ジャズ・フェスティバルに出演するなど、国外で活躍するミュージシャンが次々と登場した。このほか、八木正生や猪俣猛らも活躍した。
1960年頃、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズの『モーニン』(1958年発表)の大ヒットを契機に、日本国内でファンキー・ブームが巻き起こった。1961年には、ミュージシャンたちによる勉強会「ジャズ・アカデミー」が発足し、翌年に「新世紀音楽研究所」へと改名した。ここに集った高柳昌行、富樫雅彦、日野皓正、菊地雅章、山下洋輔らは、毎週金曜日にシャンソニエ「銀巴里」で実験的なジャムセッションを繰り広げた。日野皓正は、そこが自身の原点であると後に振り返っている。
1965年のニューポート・ジャズ・フェスティバルには、弘田三枝子がビリー・テイラー・トリオとともに3日目のトリを務め、日本人ジャズシンガーとして初の出演を果たした。1960年代から70年代にかけては、日本でもフリー・ジャズが大きな盛り上がりを見せ、阿部薫や高柳昌行らがその先駆者として牽引した。1970年代後半に入るとフュージョン・ブームが到来し、渡辺貞夫らもフュージョン・アルバムを発表した。また、中央線沿線を拠点に活動するミュージシャンも多数登場し、1980年代後半には新星堂のプロデューサーによって「中央線ジャズ」という呼称が提唱された。
21世紀には、小曽根真、大西順子ら既存の世代が活動を続ける一方、上原ひろみ、山中千尋、黒田卓也、挾間美帆らが国際的に活動し、2010年代以降には石若駿をはじめとする新世代の演奏家も登場した。
ジャズ喫茶は、店内でジャズのレコードなどを鑑賞することを主要な特徴とする日本独自の喫茶店文化である。特に1950年代から1970年代にかけて広く普及し、家庭で高価なオーディオ機器や輸入レコードを所有することが容易でなかった時代には、ジャズを聴くための重要な場の一つとなった。