ポール・マッカートニー

ポール・マッカートニー
Paul McCartney
生誕 ジェイムズ・ポール・マッカートニー
(1942-06-18) 1942年6月18日(84歳)
イングランドの旗 イングランド マージーサイド州リヴァプール
別名
  • ポール・ラモーン
  • ビリー・マーティン
  • バーナード・ウェッブ
教育 リヴァプール・インスティチュート(英語版)中退
職業
配偶者
    リンダ・イーストマン
    (結婚 1969年、死別 1998年)
      ヘザー・ミルズ
      (結婚 2002年、離婚 2008年)
        ナンシー・シェベル(結婚 2011年)
        子供 ヘザー、メアリー、ステラ、ジェイムズを含む5人
        家族 マイク・マクギア(英語版)(弟)
        公式サイト Official Paul McCartney
        音楽家経歴
        ジャンル
        担当楽器
        活動期間 1957年 -
        レーベル
        共同作業者
        著名使用楽器
        署名
        テンプレートを表示

        ジェイムズ・ポール・マッカートニー(Sir James Paul McCartney CH MBE、1942年6月18日 - )は、イギリスのシンガーソングライター、ベーシスト。1960年代にロックバンド、ビートルズのメンバーとして活動し、ジョン・レノンと共にレノン=マッカートニー名義で多数の楽曲の作詞作曲を多く手掛けたほか、ボーカルとベースやギター、ピアノなどの楽器演奏を担当した。

        ビートルズ解散後はウイングスを結成し、メンバーとして活動したほか、ソロ・ミュージシャンとしての活動も行い、デビューから半世紀以上が過ぎた現在も第一線で活躍を続けている。

        これまでに制作した楽曲は2019年時点で500曲以上で、『ギネス世界記録』に「ポピュラー音楽史上最も成功した作曲家」として掲載されている。

        2002年にはレノンや同じくビートルズのメンバーであったジョージ・ハリスン、そしてフレディ・マーキュリー、ボーイ・ジョージ、ロビー・ウィリアムズらとともに100名の最も偉大な英国人に選出されている。

        人物

        ビートルズの楽曲では「イエスタデイ」「ヘイ・ジュード」「レット・イット・ビー」等の作詞・作曲を行った。解散後には新たにバンド、ウイングスを結成し、「マイ・ラヴ」「007 死ぬのは奴らだ」「ジェット」「バンド・オン・ザ・ラン」「あの娘におせっかい」「心のラヴ・ソング」「幸せのノック」「夢の旅人」「しあわせの予感」「グッドナイト・トゥナイト」などのヒット曲を発表し話題となった。1980年代に入り、ウイングスは解散、ソロ名義で活動を始めた。『タッグ・オブ・ウォー』『フラワーズ・イン・ザ・ダート』『フレイミング・パイ』といったアルバムを発表し現在に至っている。

        ビートルズ時代を含め、基本的にベーシストとしてエレクトリックベースを主に使用するが、録音および公演では度々ピアノを演奏している。ギターの演奏にも定評があり、ビートルズ時代の「タックスマン」、ソロとして発売した「恋することのもどかしさ」などではギターソロを披露している。また、「カミング・アップ」「ワンダフル・クリスマスタイム」などではシンセサイザー、「ジョンとヨーコのバラード」や「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」「ディア・プルーデンス」などではドラムス、「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」などではメロトロンを演奏している。その他にも楽曲によりトランペット、フリューゲルホルン、マンドリンやチェロも担当している。それを示すように、1970年に発売されたアルバム『マッカートニー』、1980年の『マッカートニーII』、1997年の『フレイミング・パイ』、2005年の『ケイオス・アンド・クリエイション・イン・ザ・バックヤード』、2020年の『マッカートニーIII』、2026年の『ダンジョン・レインの少年たち』では、ほとんどの楽器をマッカートニーが一人で演奏している。

        作曲技法はほぼ独学だが、初期はリズム・アンド・ブルースに大きな影響を受けていた。またジョージ・マーティンの影響でクラシック音楽の技法も取り入れるようになった。ベースの演奏手法ではモータウンのジェームス・ジェマーソン、ボーカル・スタイルではリトル・リチャードの影響が強い。ビートルズのメンバーでは最も高い声域を持ち、コーラスの一人多重録音も盛んに行っている。インタビューでは、お気に入りのギタリストはジミ・ヘンドリックス、お気に入りのベーシストはクロスオーバーのスタンリー・クラークと回答している。一方でウッドベースに関しては、演奏例は皆無ではないものの、殆ど使用しない。

        信条は環境保護、動物愛護、平和主義、反人種主義である。マッカートニーの差別反対が顕著に出ている例として、いわゆる「ゲット・バック・セッション」における「ゲット・バック」の歌詞を考案した際の逸話がある。マッカートニーはその日の朝刊に、イノック・パウエル議員が「移民は国に帰れ(Get Back)!」と発言したという記事があったことを引き合いに出して、歌詞に「プエルトリコ人はアメリカにいらない」「パキスタン人、仕事を奪ってはいけない」などを即興で加え、仮タイトルを "(Don't Dig) No Pakistanis"(「パキスタン人は要らない」)としたという。

        経歴

        幼少期〜青年期

        1942年6月18日にマージーサイド州リヴァプールで誕生する。労働者階級出身。父のジェイムズは営業員や作業員として働く一方、セミプロ級の技術を持つアマチュアのジャズ・ミュージシャンであった。父方の曾祖父がアイルランド系で、さらに母方の祖父もアイルランド系だった。

        母メアリー(1909年 - 1956年)が乳癌のため1956年に死去した。この年、処女作「アイ・ロスト・マイ・リトル・ガール」を作曲する。同曲は後に1991年発売のライブ・アルバム『公式海賊盤』に収録される。ソロアルバム『マッカートニー』に収録されている「スーサイド」、ビートルズのアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』に収録されている「ホエン・アイム・シックスティー・フォー」もこの頃に作曲されたといわれている。

        リヴァプール・インスティチュート在学中の1957年7月6日、共通の友人であるアイヴァン・ボーンの紹介でジョン・レノンと出会う。10月18日にビートルズの前身となるレノンのバンド、ザ・クオリーメンに加入する。中等学校に入学をしてからは音楽に没頭したため、学業の成績は大きく下降し、欠席日数も増えた結果、不登校も経験している。また、学校へ登校した際にも授業中は「喫煙とカードゲームに夢中だった」と述べており、不真面目だったと自身の学生時代を振り返っている。

        ビートルズ時代

        1964年のマッカートニー

        ブライアン・エプスタインとマネージメント契約を結んだビートルズは、1962年、レノン、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターとの4人で、「ラヴ・ミー・ドゥ」でデビューした。その後1964年、アメリカで発売されたシングル「抱きしめたい」がチャート1位になったことをきっかけに、世界的に大成功を収めた。

        1966年6月にはビートルズの一員として来日し、日本武道館にて公演を行った。武道館ではクラシック・コンサートが行われた例はあったが、ポップ・ミュージックの公演は初めてのことだった。

        バンドとして音楽活動を続ける過程で次第に他のメンバーとの軋轢が生じていったとされている。

        1970年代

        1970年4月10日、ビートルズを脱退するというマッカートニーの意向がイギリスの大衆紙『デイリー・ミラー』で報じられ、ビートルズは事実上解散した。その1週間後の4月17日、騒動の最中に初のソロ・アルバム『マッカートニー』を発売する。脱退の反響が巻き起こした宣伝効果は大きく、アルバムは好調な売れ行きを見せ、アメリカの『ビルボード』誌や『キャッシュボックス』誌で第1位を獲得した。レノンからは「グループからの脱退宣言をアルバムの宣伝に利用した」として非難され、当時の音楽メディアやロック・ファンからは酷評する声も少なくなかった。

        翌1971年2月に発表されたシングル「アナザー・デイ」、5月に妻リンダとの連名で発表されたアルバム『ラム』にも『マッカートニー』の作風は受け継がれ、『ラム』は前作同様にヒットした。イギリスでは第1位、『ビルボード』では最高第2位を獲得し、トップ10内に24週間も残留したロング・セラーとなったが、評論家からは手厳しい批評を受けた。アラン・クレインにまつわる訴訟問題などで、険悪な関係に陥っていたビートルズの元メンバーの『ラム』への評価もきびしかった。このアルバムからアメリカ限定でシングル・カットされた「アンクル・アルバート〜ハルセイ提督」は、1972年度のグラミー賞で最優秀アレンジメント賞を獲得した。

        8月、予てよりバンドによる公演活動を目論んでいたマッカートニーは、ウイングスを結成し、12月にファースト・アルバム『ワイルド・ライフ』を発表した。

        Coloured image of a long-haired McCartney in the 1970s playing a guitar.
        ウイングスの公演で演奏するマッカートニー(1976年)
        1976年のマッカートニー

        1979年、当時の国連事務総長クルト・ヴァルトハイムの要請により、12月26日から29日にかけて行われたユニセフ主催のチャリティ公演『カンボジア難民救済コンサート』の最終日に出演。クイーンやザ・クラッシュ、エルヴィス・コステロ&ジ・アトラクションズなどが参加した豪華な公演のトリを飾った。しかし、これが、ウイングスにとって最後の公演となってしまった。

        1980年代

        1980年1月16日に訪日したマッカートニーは成田空港の税関で大麻取締法違反(不法所持)により現行犯逮捕され、9日間勾留された後に国外退去処分を受けた。予定されていたウイングスの日本公演は全て中止となり、グループとしての活動が休止状態に陥ってしまう。

        マッカートニーは、ソロ・アーティストとしての活動を9年ぶりに再開。4月にソロ・シングル「カミング・アップ」、5月には10年ぶりのソロ・アルバム『マッカートニーII』を発表した。北米では「カミング・アップ」のB面に収録された1979年のウイングスのスコットランド・グラスゴー公演でのライブ音源が人気を博し、6月に全米1位を獲得した。

        10月31日・11月3日、マッカートニーは「ウィ・オール・スタンド・トゥゲザー」の録音にビートルズ時代のプロデューサーであるジョージ・マーティンを迎えた。その際、マッカートニーはウイングスの新しいアルバムのプロデュースも依頼したが、デモ・テープを聴いたマーティンからソロ・アルバムにしたほうがいいと助言された。マッカートニーは提言を受け入れ、11月末にはデニー・レインとともにマーティンのプロデュースで『タッグ・オブ・ウォー』の制作を開始した。しかし12月8日、ビートルズ時代の仲間であったレノンがニューヨークで射殺される事件が起きた。ビートルズの黄金時代を共に築いた仲間の訃報にマッカートニーは強い衝撃を受け、直後にスタジオに籠ってしまった。その後年内の活動を中止し、自宅に籠もったまま公の場に姿を見せなかった。

        1981年になるとすぐに、マッカートニーはサセックスのパークゲート・スタジオで録音を行い、その後ジョージ・ハリスンの「過ぎ去りし日々」のコーラスにリンダ、レインとともに参加した。2月になると、マッカートニーはカリブ海のモントセラトでマーティンの進言で有名ミュージシャンとともにアルバムの録音を開始した。

        1982年、このセッションでレコーディングされたシングル「エボニー・アンド・アイボリー」とアルバム『タッグ・オブ・ウォー』を発表、ともに全米、全英で1位を獲得した。このアルバムにはレノンに対する追悼曲である「ヒア・トゥデイ」が収録されており、現在でもしばしば演奏されている。同年、マイケル・ジャクソンとのデュエット曲「ガール・イズ・マイン」を発表。ジャクソンとは1983年発表のアルバム『パイプス・オブ・ピース』でも「セイ・セイ・セイ」でデュエットしており、この曲も全米で1位を獲得した。

        1984年には「ひとりぽっちのロンリー・ナイト」を発表し、全英2位、全米6位とヒットした。さらに自らが脚本・音楽を手がけ、主演した初の映画作品『ヤァ! ブロード・ストリート』を制作・公開した。映画の内容に関しては酷評され、興行的にも失敗に終わったが、ビートルズナンバーも収録されたサントラ盤『ヤァ! ブロード・ストリート』は成功を収めた。

        1985年、有名なプロデューサーのヒュー・パジャム、フィル・ラモーンの協力を得て制作した、アメリカ映画『スパイ・ライク・アス』の主題歌「スパイズ・ライク・アス」が全米第7位のヒットになった。同年7月13日にアフリカ難民救済を目的として行われた、20世紀最大のチャリティー・コンサート『ライヴエイド(LIVE AID)』では「ヘイ・ジュード」でイギリス・ステージのトリを飾った。

        1986年、ヒュー・パジャムをプロデューサーに起用した『プレス・トゥ・プレイ』はチャート順位・売上共に不振に終わり、評論家からの評判も芳しくなかった。続いて発売される予定であったラモーンがプロデュースしたアルバムは完成を目前にマッカートニーとの意見が対立、頓挫してしまった。

        1988年、少年時代に慣れ親しんだロックンロールのスタンダード・ナンバーを歌った初のカヴァー集『バック・イン・ザ・U.S.S.R.』を制作し、ソ連限定で発表した。

        1989年、シングル「マイ・ブレイヴ・フェイス」はエルビス・コステロとの共作の話題性も手伝って久々のヒット、アルバム『フラワーズ・イン・ザ・ダート』は全世界で250万枚以上の売上を記録した。9月、マッカートニー夫妻はアルバムに参加したスタジオ・ミュージシャン4人とともに10年ぶりの本格的な公演活動を開始する。翌年にかけて行われた、『ゲット・バック・ツアー』と称されたこのワールド・ツアーはマッカートニーがビートルズの過去を受け入れることをテーマにしており、初めてビートルズ時代の作品がセットリストの約半分を占めた。

        1990年代

        1990年3月にはビートルズとしての来日以来、24年ぶりの日本公演が実現。ワールド・ツアー終盤には1990年4月21日のブラジル、リオデジャネイロのマラカナン・スタジアム公演では18万人以上の観客を集め、有料興行の観客動員数の世界最高記録を更新した。このツアーでの演奏はライブアルバム『ポール・マッカートニー・ライブ!!』として発売され、映像は映画『ゲット・バック』として公開された。

        1991年1月、『MTVアンプラグド』の収録を行い、後に『公式海賊盤』として発表される。マッカートニーはポピュラー音楽以外のジャンルにも挑戦し、ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団の創立150周年を記念した初のクラシック作品『リヴァプール・オラトリオ』を上演する。アメリカ人作曲家カール・デイヴィスとの共作で、ヴォーカリストにキリ・テ・カナワとアメリカのテノール歌手ジェリー・ハドレーを迎えたこの作品は、同名のアルバムも発表された。これ以降、現在に至るまで彼はロックやポップスと並行して数作のクラシック作品を発表している。

        1993年のマッカートニー

        1993年、アルバム『オフ・ザ・グラウンド』を発表したマッカートニーは、『MTVアンプラグド』と同じラインナップのバックバンドを率いてコンサート・ツアーを行う。『ニュー・ワールド・ツアー』と題されたこのツアーにおいて、マッカートニーは前回のツアーで訪れることのできなかった地域を中心に公演を行い、その模様をライブ・アルバムとビデオに収めた。なお、当初は日程に組み込まれていなかった日本公演も同年秋に行っている。

        1994年、ビートルズの歴史を振り返るドキュメンタリー映像作品と未発表音源集を発表する『ザ・ビートルズ・アンソロジー』プロジェクトが本格的に始動した。とりわけ注目されたのが「25年ぶりの新曲発表」と大々的に報道された、レノンが1970年代後半に録音したデモテープに他の3人のメンバーの演奏を重ねて完成させるという企画である。この企画は、1980年代後半にハリスンを復帰に導いたことでも知られるエレクトリック・ライト・オーケストラのジェフ・リンの協力を経て、最終的に「フリー・アズ・ア・バード」「リアル・ラヴ」として結実した。

        1995年、リンを共同プロデューサーに迎えてアルバムを制作し、1997年に『フレイミング・パイ』として発表する。この作品は全米と全英のチャート両方で高順位を記録しただけでなく、翌年の第40回グラミー賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーにノミネートされるなどその内容も賞賛された。

        1998年、長年連れ添った妻リンダが乳癌で亡くなると、マッカートニーは自身を支え続けた愛妻の死を悼んで2作のクラシック作品を捧げ、さらに彼女が生前に提案していたロックン・ロールの傑作カヴァー集『ラン・デヴィル・ラン』を発売した。

        2000年代

        2001年、ウイングス時代の軌跡を振り返るドキュメンタリー作品『ウイングスパン』を発表。2枚組のコンピレーション・アルバム『夢の翼〜ヒッツ&ヒストリー〜』も同時発売され、アメリカでは100万セットを売り上げてプラチナ・ディスクに認定された。10月20日にはマッカートニーの提唱によって、9月11日のアメリカ同時多発テロ事件による世界貿易センターの崩壊で亡くなった消防士の追悼とチャリティを目的に、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにて『ザ・コンサート・フォー・ニューヨーク・シティ』が開かれた。ポールの呼びかけに応じ、 デヴィッド・ボウイ、ミック・ジャガーとキース・リチャーズ、エルトン・ジョン、ボン・ジョヴィ等々、多数のミュージシャンが参加した。11月にはリンダが亡くなって以来初のオリジナル・アルバム『ドライヴィング・レイン』も発表した。

        2002年、アメリカで9年ぶりにツアーを行った。この公演を収めたライブ・アルバム『バック・イン・ザ・U.S. -ライブ2002』はアメリカでミリオン・セラーを記録した。同年11月には、ソロでの3度目の日本公演を行った。

        2003年5月にはロシア連邦モスクワの「赤の広場」で野外公演を開き、約10万人の観客を動員した。この公演の模様を収めた2時間のドキュメンタリー番組『ポール・マッカートニー・イン・レッド・スクエア(英語版)』は、第56回プライムタイム・エミー賞バラエティ・スペシャル部門にノミネートされた。また2004年にはサンクトペテルブルクで公演を開き、その模様を収めたドキュメンタリー番組『ポール・マッカートニー・ライヴ・イン・サンクトペテルブルク』も、第58回プライムタイム・エミー賞バラエティ・スペシャル部門にノミネートされた。

        LIVE 8でのポール・マッカートニー

        2005年には『ライブ・イン・ザ・U.S.2005』としてアメリカツアーを行い、カリフォルニア州アナハイムでの公演では史上初の試みとして、NASAを通じて地球から約220マイル上空の宇宙飛行士へその模様を生中継した。この時のナンバーは「イングリシュ・ティー」とビートルズの「グッド・デイ・サンシャイン」だった。7月には世界中で同時に行われた、チャリティー公演である『LIVE 8(ライブ エイト)』にも参加した。9月には、2003年から2005年春までの長期間に渡り、レディオヘッドの作品などで知られるナイジェル・ゴッドリッチをプロデューサーに迎えて制作したアルバム『ケイオス・アンド・クリエイション・イン・ザ・バックヤード』を発表した。このアルバムは2006年の第48回グラミー賞に3部門でノミネートされ、アルバムに先がけてシングル・カットされた「ファイン・ライン」も、同賞のソング・オブ・ザ・イヤーの候補に挙がった。また、2007年の第49回グラミー賞に最優秀男性ポップボーカル賞に「ジェニー・レン」がノミネートされた。

        2007年3月、スターバックスがコンコード・ミュージック・グループと設立したヒア・ミュージックと契約を結び、キャピトル・レコードのみならず長年契約していたEMIからも離れた。6月、移籍第1弾アルバム『追憶の彼方に〜メモリー・オールモスト・フル』を発表。このアルバムでも2008年の第50回グラミー賞に3部門でノミネートされると共に、全米では1982年の『タッグ・オブ・ウォー』以来となる、オリジナルアルバムでのプラチナ・ディスクに認定された。

        2008年、ブリット・アワードにて特別功労賞を受賞。5月、米エール大学から名誉音楽博士号を授与される。

        2010年代

        バラク・オバマ大統領から賞を贈られたポール

        2010年 4月、EMIが所有していたマッカートニーのソロとウイングスの作品の配給権がコンコード・ミュージック・グループに移譲され、ヒア・ミュージックから再発されることになった。6月2日、ポピュラー音楽で世界の文化に大きな影響を与えた作曲家・演奏家に贈られるガーシュウィン賞を受賞。授賞式では、当時のバラク・オバマ大統領から直接賞を贈られた。9月22日にはヒューレット・パッカードが、マッカートニーの作品をクラウド型のデジタル・ライブラリー化する計画を発表。同社はマッカートニー・プロダクション・リミテッドと共同で、インターネット上で公開しながらデジタル・ライブラリーを保護することが可能な最新システムを構築し、ファンがマッカートニーのライブラリーの一部を視聴することを可能にした。

        2011年9月、ニューヨーク・シティ・バレエ団から依頼を受け、 ピーター・マーティンと共同制作した自身初のバレエ向けスコア『オーシャンズ・キングダム』を発表した また10月にはアメリカ人女性ナンシー・シベルと結婚した。

        2012年2月、ダイアナ・クラールらを迎えて制作した、ジャズのスタンダード・ナンバーのカヴァー集『キス・オン・ザ・ボトム』をリリース。このアルバムは第55回グラミー賞で最優秀トラディショナル・ポップ・ボーカル・アルバム賞を受賞した。2月9日には個人としてハリウッド・ウォーク・オブ・フェームの星を獲得。6月4日、エリザベス2世の英国女王即位60周年祝賀の『クイーンズ・ダイヤモンド・ジュビリー・コンサート2012』に参加し、コンサートのトリを飾った。7月27日、ロンドンオリンピックの開幕式で、会場を埋めつくした観衆とともに「ヘイ・ジュード」を演奏した。12月12日にはマディソン・スクエア・ガーデンにて開催された『ハリケーン「サンディ」復興支援チャリティ・コンサート』でニルヴァーナのデイヴ・グロール、クリス・ノヴォセリックらと共演し、「ヘルター・スケルター」「カット・ミー・サム・スラック」などを演奏した。

        2013年10月、オリジナル作品としては6年ぶりとなる新作アルバム『NEW』を発表。全英・全米では3位、日本では2位(デイリーチャートでは1位)とヒットし、ゴールドディスク(10万枚販売)にも認定された。11月には11年ぶりとなる日本公演を大阪、福岡、東京で行い、26万人を動員した。

        2014年5月17日、前年に引き続き日本公演が東京と大阪で予定されていたが、ウイルス感染による体調不良により公演を中止し、緊急帰国する。1975、1980年に続く3度目の公演中止となった。日本公演直後に予定されていた初の韓国公演も中止となり、6月の米国公演は10月以降に延期となった。7月5日、ニューヨーク州オールバニ公演よりツアーを再開。約3時間で40曲を演奏した。

        2015年1月、リアーナ、カニエ・ウェストと共演した「フォー・ファイブ・セカンズ」が「スパイズ・ライク・アス」以来29年ぶりの全米トップ10ヒットを記録。4月には日本公演が大阪ドーム、東京ドームで計4回、追加公演として1966年のビートルズ以来49年ぶりとなる日本武道館での公演が行われた。日本武道館での公演は同年7月と10月に日本でTV放送された。

        2016年8月17日、キャピトル・レコードとの再契約を発表し、同レーベルへの復帰第1弾となる新作アルバムの制作中であることが報道された。12月31日にはNHKの『第67回NHK紅白歌合戦』にビデオ出演し、「2017年に日本に行きます!(I'm coming to Japan in 2017. See you there!)」と発言した。

        2017年1月18日、マッカートニーは音楽出版会社ソニーATVに対して、同社が保有する1985年にマイケル・ジャクソンが購入したビートルズの楽曲の著作権返還を求める訴訟をニューヨーク郡裁判所に起こした。7月に訴訟が和解に達したがその内容については明かされていない。7月公開の映画『パイレーツ・オブ・カリビアン/最後の海賊』では、主人公ジャック・スパロウの叔父「ジャックおじさん」を演じ、牢屋の中でビートルズの『レット・イット・ビー』にも収録されたリヴァプールの俗謡「マギー・メイ」を歌う姿をみせている。

        2018年7月26日、リヴァプールのキャヴァーン・クラブに出演した。この模様は、後にBBCによって2020年のクリスマスに『Paul McCartney Live at the Cavern Club 2018』として放送された。9月7日、キャピトル・レコードから発表したアルバム『エジプト・ステーション』が『タッグ・オブ・ウォー』以来36年ぶりの全米チャート1位を獲得。10月から11月にかけて、東京ドーム、初となる両国国技館、名古屋ドームで公演を行った。

        2020年代

        2020年12月18日、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックによるロックダウン中に自宅スタジオで制作したアルバム『マッカートニーIII』を発表。全英アルバムチャートにおいて、ソロ名義では『フラワーズ・イン・ザ・ダート』以来、31年ぶりとなる第1位を獲得した。

        Got Backツアーでのマッカートニー(2023年)

        2022年2月18日、同年4月28日から6月16日に開催される北米ツアー『GotBack』を発表。3月4日には6月に開催される『グラストンベリーフェスティバル』のヘッドライナーに決定したことが発表された。

        2024年7月19日より9月24日まで六本木ヒルズ「東京シティビュー」にて、『ポール・マッカートニー写真展 1963-64〜Eyes of the Storm〜』を開催。ポール自身が所有していたカメラ(PENTAX35mmなど)を用いて、ビートルズメンバーのポートレイトをはじめ、行く先々に集まるカメラマンやファンを撮影した写真を中心に展示している。同年10月12日から2025年1月5日まではグランフロント大阪「ナレッジキャピタル イベントラボ」にて開催。

        2024年10月1日より27日まで南米ツアー、12月4日より19日までヨーロッパとUKツアーの『GotBack』を開催。

        動物愛護

        菜食主義者であり、環境保護活動家としても精力的に活動している。同じく菜食主義者だった最初の妻リンダの娘ステラ、2番目の妻ヘザー・ミルズと共にPETA(動物の倫理的扱いを求める人々の会)の会員でもある。

        生成AIへの意見表明

        2025年1月、オプトアウト申請されていないインターネット上のコンテンツを人工知能の訓練に利用できるようにする英国政府の著作権法改正案への反対意見を表明した。

        ポールは、アーティストの著作権が適切に保護されないリスクがあるとして、「素晴らしい歌を書く若手がデビューしても、楽曲を自分のものにできなくなってしまう」「曲を作った人が関与できなくなってしまい。誰でも盗むことができてしまう」「法案を提出するなら、クリエイティブな思想家やアーティストを必ず保護するようにして欲しい。そうしないと、英国は彼らを失ってしまう」などと述べた。

        日本公演実現とファンの努力

        マッカートニーはビートルズの解散後にソロミュージシャンとして現在まで7度訪日し、ツアーを行っている。しかし、主にウイングスとして活動していた1970年代に彼の日本公演が実現することはなかった。

        1976年のマッカートニー

        初の日本公演は1975年に計画されていたが、マッカートニー夫妻の72年のスウェーデンなどでの薬物所持歴などを理由として、法務省が訪日直前にビザを無効としたため中止になっていた。

        ビザが発給された1980年には、成田空港で大麻所持により逮捕、勾留、強制退去で公演は中止された。このため当時マッカートニーは入国管理局のブラック・リストに掲載され、日本への入国は不可能になったと考えられた。

        1989年1月、ニュー・アルバム発売後にワールド・ツアーを行うことが内定すると、ビートルズ公認ファンクラブのビートルズ・シネ・クラブがマッカートニー側に日本公演の実現の働きかけを開始。『フラワーズ・イン・ザ・ダート』発売後の7月にはマッカートニーの入国許可を求める署名活動を全国的に実施、20万人もの署名を集め、12月22日に法務省へ提出した。法務省も『ライヴエイド』などマッカートニーの世界的な文化貢献の認知度も考慮してビザ発給を許可したため、ビートルズの来日公演から約24年ぶりとなる1990年3月に、ファン待望の日本公演が行われた。

        日本公演日程

        ディスコグラフィ

        GotBackツアーでのマッカートニー(2022年)

        (チャート;英:ミュージックウィーク/米:ビルボード)

        オリジナル・アルバム

        プロデュース作品

        シングル

        アルバム

        楽曲提供

        主な楽曲を掲載。詳細は「ポール・マッカートニーの作品」を参照。(チャート;英:ミュージックウィーク/米:ビルボード)

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        主な使用楽器

        ベース

        ヘフナー社で最も有名なエレキベースの500/1
        カール・ヘフナー・500-1(Karl Höfner 500-1)(1本目 1961年製)
        最初に入手した左利き用500-1。デビュー前よりキャバーン・クラブなどで使用していたため、通称「キャバーン・ベース」という名称で知られる。ヘッドの部分の「HOFNER」のロゴがゴシック体風の書体で縦書きで書かれている点や、リア・ピックアップがフロント・ピックアップのすぐ下についており二つのピックアップの間隔が狭いことが特徴。また「Horfner」のロゴマークがボディ向かって左側、リアピックアップの高さの場所にデカールされている。このロゴは左右モデルで同じ場所にデカールされているため、通常の右利き用の場合は露出して外見上のアクセントとなるが、左利き用の場合はピックガードの下に隠れてしまうことになる。マッカートニーが本機のピックガードを外した1967年にはすでに後述のリペイントが行われていたため、このロゴマークも剥がされてしまっていた。
        それまでビートルズのベーシストだったスチュアート・サトクリフがバンド活動に消極的になっていった時期、マッカートニーが1960年6月に購入し使用していたエレクトリック・ギター「Rosetti Solid7」も不具合が生じていたためマッカートニーは主にピアノを担当していた。そのため、自身のSolid7のピックアップとコントロール基盤の一体部品を取り外し、社外品のピックアップマイクを外付けしたうえで3本のピアノ線を張ったものを、サトクリフが欠員の際の「即興ベースギター」として利用しながら代役を務めていた。しかし、ピアノ線の強い張力に耐えられず間もなくSolid7は完全に損壊。トニー・シェリダンとの「ポリドール・セッション」が決まり本格的なベースギターが必要となった事もあり、これを機にハンブルクの楽器店で購入したのがこの500-1であった。この時点ではまだサトクリフは脱退しておらず、ヘフナー500-5(のちにクラウス・フォアマンが買い取った)を抱えたサトクリフと、500-1を抱えたマッカートニーがステージで並んで映る写真も存在する。
        「マッカートニーが左利き用を特注した」とされる文献もあるが、当時からヘフナーのカタログにあった左利き用の既製品であり、当初楽器店に在庫が無かったため、ヘフナーから取り寄せたものである。500-1を選んだ理由としてマッカートニーは「フェンダーベースが欲しかったが、高くて購入できなかった」点(当時のイギリスではアメリカ製の品物には高額な関税がかけられていた)、「ボディのシェイプが左右対称で左利きのマッカートニーが持っても違和感がなかった」点、「ボディーシェイプが何となくカブトムシ(beetle)に似ていた」点などを挙げているが、『ハンブルグで共演したトニー・シェリダンのベーシストが500-1を使用していたのを見てマッカートニーが憧れを持った』というジョージ・ハリスンの証言もある。またショート・スケールで弾き易く、中が空洞なので非常に軽く肩が凝らない利点があり、これは『ザ・ビートルズ: Get Back』内で、ハリスンにリッケンバッカー・4001Sの使用を勧められたマッカートニーが500-1を使用する理由のひとつとして挙げていたり、1976年のウイングス全米ツアー中、現地メディアに「ヘフナーベースは使わないのか?」と質問されたマッカートニーが、本当は軽い500-1を使用したいが、サウンド面を考慮してリッケンバッカーを使用している旨を回答している。
        1963年に2本目のカール・ヘフナーを入手してからは、コンサート時のサブ・ベースとしてステージに用意していた。1965年頃には赤みの強い3トーン・サンバーストの再塗装を施し、破損していたピックアップのエスカッションを一体型の物に交換した。1968年にはシングル「レボリューション」のプロモーションビデオで使用。さらに、1969年の「ゲット・バック・セッション」でも使用された。
        ビートルズ解散後の1972年、ウイングスのアルバム「レッド・ローズ・スピードウェイ」のレコーディングセッションのさなか、運搬中の盗難に遭った。2018年にはマッカートニーの依頼を受けたカール・ヘフナー社が「ロストベースプロジェクト」を立ち上げてこのベースの捜索を開始したが、プロジェクトが一部の熱心なファン以外には知られていなかった数年の間はほとんど情報提供も無く、捜索の進展も見られなかった。これまで長らく、1969年の「ゲット・バック・セッション」中、トゥウィッケナム映画撮影所(英語版)にて盗難に遭ったというのが通説とされながらも、明確な根拠は示されていなかった。2021年11月に公開されたドキュメンタリー映画『ザ・ビートルズ: Get Back』で、1969年1月22日に移動したサヴィル・ロウにあるアップル・コア内の録音スタジオで撮影されたシーンに本機の姿が確認され、「トゥウィッケナム映画撮影所で盗難に遭った」という説がまず覆された。この500-1が頻繁に登場する同ドキュメンタリー映画の影響により「ロストベースプロジェクト」が少しずつメディア等に取り上げられるようになった2023年、ウイングスのサウンド・エンジニアだったイアン・ホーンにより、1972年10月にロンドンのノッティング・ヒル地区で彼のバンの荷台から盗まれたという盗難時期および状況の詳細情報がプロジェクトにもたらされた。しばらくの後、ベースを盗んだ犯人の子息から「自分の父親が窃盗犯であり、窃盗後すぐに近所のパブの大家に売り渡した」との情報がもたらされ、続いて報道を知った当該パブ大家の親族からの連絡により、自宅の屋根裏部屋に現存していることが確認された。窃盗犯本人、およびパブ大家はすでに他界していた。2ヶ月間に渡る鑑定の結果、マッカートニーのベースである事が確認され、2023年12月にマッカートニー本人の手元に返却された。発見されたベースは、以降のモデルと同じようにラウンドバックだったことが確認され、「1961年製はフラットバック」という通説も覆された。2024年12月に行われた公演で50年以上ぶりでステージで使用された。その時の写真などを見ると、ペグやストラップピンの交換、ボディの再塗装など、後述の2本目のヘフナーが80年代後半に行われたものと同規模のリペアが行われているようである。
        なお、マッカートニーは2000年代に入ってからリリースされた1961年仕様のスペシャルモデル(シリアルナンバー「1」)をヘフナーから贈呈されている。また2020年には、盗難時の本機の仕様を再現したレプリカモデルがヘフナーよりリリースされており、これもマッカートニーへ贈呈され、同年の新曲『Find My Way』のミュージックビデオ、および2023年のビートルズ名義の新曲『Now And Then』のミュージックビデオ内に映りこんでいる。
        カール・ヘフナー・500-1(Karl Höfner 500-1)(2本目 1962年仕様の1963年製)
        1963年10月に入手した2本目の500-1。ヘッドの「Hofner」のロゴが、横書きの筆記体状のものになっており、二つのピックアップの間隔が片方がネック寄り、もう一方はブリッジ寄りと1本目の物より広くなっている。マッカートニーのトレードマークとして有名になったのは、この2本目の方である。1965年夏頃、アルバム「ヘルプ!」の頃まで、レコーディングでのメインベースとして使用された。このベースにはもともとストラップピンが付いておらず、ビートルズ時代にはネック側はネックエンドとボディの隙間にストラップを巻き付け、テールピース側はテールピースにフックを付けて使用していた。1965年にリッケンバッカー・4001Sを手に入れてからは、レコーディングに使用される頻度は徐々に減っていったが、ライヴでは1966年にコンサート活動を停止するまで、一貫してメインベースとして使用された。ピックガードは一般的なねじ止め式ではなく、釘のようなもので取り付けられている。マッカートニーの実機も当初ピックガードが付いていたが(1966年の来日公演時にもピックガードは付けられていた)、1966年8月16日にペンシルベニア州フィラデルフィアのジョン・F・ケネディ・スタジアムで行われた公演からピックガードが取り外された状態で使用されるようになり、2026年現在に至る。1967年、シングル「ペニー・レイン」のプロモーションフィルムに登場して以降はレコーディングに使用されることもなく表舞台にも出てこなかったが、1969年の「ゲット・バック・セッション」で1本目とともにメインベースとして再登場し、アップル屋上でのライブでも使用された。ビートルズ解散後およびウイングス結成後は、レコーディング・ステージともにリッケンバッカー4001Sをメインにしていたため表舞台に出ることはなかった。ただし、1974年頃のリハーサル風景を撮影した写真の中でアンプに立てかけてあったり、当時のウイングスのギタリストだったジミー・マッカロクが左右を逆にして弾いている写真が残されており、ウイングス時代にはスタジオには持ち込まれていたが、レコーディングやライヴに使用されたことはほとんどなかったと思われる。1979年12月29日に行われた「カンボジア難民救済コンサート」の、マッカートニーをボーカルに出演者全員で「ルシール」を演奏する場面において、ゲスト出演者でレッド・ツェッペリンのボーカリスト、ロバート・プラントが本機を逆さまに抱えてステージに現れている(実際に演奏しているかどうかは不明)。
        1980年、ソロ名義で発売されたヒットシングル「カミング・アップ」のプロモーションビデオではマッカートニーがビートルズ時代の自身に扮し、この500-1を抱えて登場する。続いて1982年の「テイク・イット・アウェイ」のプロモーションビデオでもこの500-1を演奏したが、レコーディングには使用されていない。この時期にはストラップが交換され、アコースティックギターのように、ネックのナット部分にストラップの片方が結び付けられていた。
        1989年、アルバム「フラワーズ・イン・ザ・ダート」レコーディングセッションにおいて、共作者のエルヴィス・コステロの勧めで再びヘフナー使用を決意。この時に本格的かつ大規模なリペアを施し(ピックアップや配線などの電気系パーツ交換と修理、ネックの修正と補強、ボディの再塗装、フレットの擦り合わせと打ち直し、ブリッジの改良、コントロールスイッチパネルを2点ビス止めから4点ビス止めへ変更、ストラップピンにシャーラー製・ロック式のものを新たに取り付ける等、ほぼベース全般に及ぶ)、「マイ・ブレイヴ・フェイス」「ディス・ワン」などの主要曲のレコーディングに使用。続いて行われたワールドツアーでは、1969年のアップル屋上ライブ以来20年ぶりにライブ演奏に使用し、ビートルズ時代のヒット曲も多数演奏した。1989年〜1990年のワールドツアーでは、ウォル製の5弦ベース等、曲によっては他のベースも使用していたが、その次に行なわれた1993年のワールドツアーからはメインベースとして、ウイングスやソロの曲も500-1で演奏するようになり、以降コンサートとレコーディングの双方に於いて、再びメインベースとして現在も使用され続けている。1989年以降のポールのライヴでは、ギターは様々な種類のものを曲ごとに使い分けているが、ベースは基本的にこの500-1しか使用していない。
        1993年のワールドツアーまで、ボディサイドに1966年のビートルズ最後となったツアーのセットリストが貼ってあったが、現在は剥がされている。2005年頃に、それまで40年以上酷使してきたオリジナルの2連ペグ(長方形の形状でペグボタンの色は飴色、形も薄く小さい物)は破損したのか、当時一般流通していたヘフナー純正のリイシューパーツ2連ペグ(楕円形のペグはパール模様で厚く、大きさもオリジナルの物よりも二回り程大きい)に交換され、現在もこの状態で使用されている。ツアー時のサブベースとして、90年代は2本目の仕様に近いオールドのレフティ・ベース(3本目:1963年製)をスタンバイさせていた。この3本目はPV「OFF THE GROUND」で『空飛ぶヘフナー』として目にする事が出来るが、コントロール・パネルの位置が2本目に比べて上部に付いているので容易に見分ける事が可能。 その後、2008年頃のツアーではキャバーン・タイプの新しいヘフナー(50周年記念ピックガード付き:2006年製)がスペアとして常備されていたが、最近(2010年)のライブでは1962年リイシューモデル20/40の最初期ロットと同等品(ピックガード無し:1995年製)に変わっている。2012年に入って現行のビンテージ’62年型モデル(通称:「マージー」モデル)のボディ全体にユニオンジャックがペイントされたモデルを寄贈され、同年6月4日のエリザベス女王戴冠60周年公演で使用された。その後、2013年11月21日の東京ドーム公演最終日にも使用された。このベースもステージサイドには前出の20/40の1995年製と同じく、サブ・ベースとしてスタンバイされている。
        また近年、1964年頃にカール・ヘフナー社からマッカートニーに贈られたと言われるゴールド・パーツ付きの500-1がオークションに出品された(落札はされなかった)が、マッカートニー自身はこのヘフナーを「所有したことがない」と明言。実際にこのベースがマッカートニーに贈られたことは事実のようであるが、このヘフナーを手にしている写真などが存在せず、本人はこのベースについては全く覚えていないと言及した。本人が使用することなく他人に譲ったのか、マッカートニー自身の手に渡る前に第三者の手に渡ったのかなど真相は明らかになっていない。
        リッケンバッカー・4001S(Rickenbacker 4001S)(1964年製)
        マッカートニー所有の1964年製リッケンバッカー・4001S 近影(2000年頃)
        【参考】リッケンバッカー・4001(米国通常品)
        リッケンバッカー社より1965年に贈呈された左利き用ベース。当時リッケンバッカーは、イギリスに於いての輸入代理店だった商社のローズ・モーリス社を通じてヨーロッパ市場向けに独自のモデル展開を行っており、ドット・ポジションマーク、ノンバウンドボディ(バインディング無し)の仕様であるこのベースは「ROSE MORRIS#1999」という型式番号で発売された。米国通常品の「リッケンバッカー・4001」はバインディングが巻かれたバウンドボディに派手なトライアングル・ポジションマークが付いているため、それらが省略されたこの「#1999」は廉価版という位置付けであったが、マッカートニーをはじめクリス・スクワイア、ジョン・エントウィッスル、ピート・クウェイフといった英国人有名ベーシストがこぞって「#1999」を使用していたことから、リッケンバッカー「4001S」(「S」は「スタンダード」の意)としてアメリカでも販売開始されたものである。同社製ホースシュー・ピックアップが取り付けられ、ブリッジユニットはミュートが出来るようになっている。
        1964年2月、ビートルズ初のアメリカ遠征の際に、リッケンバッカー社社長のF・C・ホール自らが新製品を持参してビートルズに面会。ジョン・レノンには彼にとって2本目となる「リッケンバッカー・325」を、ジョージ・ハリスンには「リッケンバッカー・360/12」を贈呈したが、マッカートニーはホールが持参したこの4001Sを試奏はしたものの、その時には受け取らなかった。これは前年10月に新しい カール・ヘフナー・500-1を入手したばかりだった為である。翌1965年8月の2度目のアメリカツアーの際にF・C・ホールは再び本機を持参してマッカートニーに面会し、この時にあらためて贈呈し、マッカートニーはこのベースを受け取った。イギリスに持ち帰ったマッカートニーは1965年の『ラバー・ソウル』のレコーディングセッションから使用を開始し、以降ビートルズ解散まで、レコーディングにおけるメイン・ベースとして使用されるようになった。1966年のライヴツアーではサブ・ベースとして準備され、同年6月の日本公演でもステージ上のアンプ裏に立てかけてあったが、ビートルズ時代の公演に於いて実際にステージ演奏時に使用される事は一度も無かった。入手当初はレッド・サンバーストであったが、1967年にはレノンのギブソン・J-160E、ハリスンのフェンダー・ストラトキャスター等とともにサイケデリックな塗装が施された。
        マッカートニーの所有機は1964年、彼の為に特別に1本のみワンオフ製作された左利き用であり、ネック/ヘッドは通常の右利き用が流用されている。そのため、ヘッド部に取り付けられているトラスロッドカバーも右利き用のものに「Rickenbacker」の字体が逆向きに描かれたものであるため、肩から吊すと先が上あがりとなる(通常は下さがり)。また、内部の電気回路も右利き用のサーキットがそのまま流用されており、ボリュームポットとトーンポットの配列の位置関係や回転方向、ピックアップセレクターのトグルスイッチの作動方向が、のちに市販化された左利き用とは逆さまになっている。弦を支えるナット(上駒)も右利き用を修正したものがそのまま使われていた、1969年の「ゲット・バック・セッション」中に通常のニッケル弦よりも径が太いブラックナイロン弦をマッカートニーが装着したところ、弦がナット溝にはまりきらずに脱落するようになってしまったため、セッション中にリペアに出し、ナット修理と共に塗装が剥がされて木の地肌を露出したナチュラル仕上げを施される。リペアから戻ってきた状態の本機は、セッション最終日に収録された映画『レット・イット・ビー』の「トゥ・オブ・アス」演奏シーンでマッカートニーの後方に立て掛けられているのが確認できる。「ゲット・バック・セッション」終了後、1969年7月より正式に開始された「アビイ・ロード・セッション」では再びメインベース(ブラックナイロン弦装着)として使用された。ビートルズ解散後、1971年にはボディーシェイプの角が削られ、全体的に丸みを帯びた姿になった。その後のウイングス時代には、レコーディング、公演活動の両方で一貫して使用され、カール・ヘフナーに代わるマッカートニーのメインベースとして有名になった。1974年には、ビートルズ時代の1965年に損傷して一部が欠けていたピックガードを新品に交換し、ピッキングの邪魔になっていたリアのホースシュー・ピックアップを、出力がより高い「ハイゲイン・タイプ」と呼ばれるものに交換。また1976年のウイングス全米ツアー終盤頃に、トラスロッドカバーがそれまで装着されていた物より短い当時の現行市販品に交換されている。
        ウイングス解散以降もレコーディングやプロモーションビデオで使用され、1984年の映画『ヤァ!ブロードストリート』やアルバム『オール・ザ・ベスト』のジャケット写真にも登場したが、1989年のアルバム『フラワーズ・イン・ザ・ダート』のレコーディングセッション以降はほとんど使用されていない。ただし、2002年からのワールド・ツアーではサブとしてスタンバイされており、同年の日本公演にも1966年と同様に持ち込まれていた。なお、近年ではリアピックアップが再びホースシュー・タイプのものに交換されている。
        リッケンバッカー・4001S(Rickenbacker 4001S)(1970年代製)
        1970年代製でスリーピースネックの4001S。1964年製と違いヘッドのウォルナットの羽部分はナチュラルカラー。あまり詳細は知られていないが1970年代前半にレコーディングで使用した説がある。そして1964年製のリアピックアップをハイゲインに交換した際のパーツ取りという説もある。
        ヤマハ・BB-1200L
        1980年の日本公演が決定した際にヤマハ社より贈呈されたもの。スルーネック仕様のサンバーストカラー。1979年の英国ツアーや「テイク・イット・アウェイ」PVなどで使用。市販のモデルにはヘッドに筆記体で「Broad Bass」のロゴがあるが、マッカートニーのものには代わりに「YAMAHA」のロゴが採用されている。
        フェンダー・ジャズベース
        ビートルズ後期以降、少なくとも2本の使用が確認されている。どちらも1967–1968年製。1本は右利き用のもの(ハリスンの使用モデルを譲り受けた説がある)を弦を左用に張り替えて使用。
        もう1本は左用で、3トーンサンバースト・ローズウッド指板・べっ甲柄ピックガード仕様。これに付いているペグ(通称「パドル・ペグ」又は「lollipop key」)は1966年〜1970年のうちの限られた個体のみの仕様、あるいは1966年のみの仕様等の説がある。1976年のウイングス全米ツアーではスペアとしてステージ上に置かれ、1976年6月18日のアリゾナ州ツーソンの「ツーソン・コミュニティー・センター」での公演で実際にこのジャズベースを演奏している写真が残されている。
        ウォル・マーク(マッハ)II(Wal Mach II)
        マッカートニーがツアー用に特注制作した5弦ベース。『フラワーズ・イン・ザ・ダート』録音と1989–1990年のツアーで使用された。1994〜95年のビートルズ再結成時の「フリー・アズ・ア・バード」のレコーディングにも使用されている。
        ケイ ジャズ(Kay Jazz)
        1960年代に製造されたフル・アコースティック構造のエレクトリック・ベース。ウイングス初期のライヴと「エボニー・アンド・アイボリー」PVで使用。
        ゼマティス
        アルバム『バック・トゥ・ジ・エッグ』のPVで使用されたアコースティックベース。
        Wベース(コントラバス)
        1974年にリンダがナッシュヴィルで購入してマッカートニーにプレゼントしたもの。エルヴィス・プレスリーのベーシスト、ビル・ブラックが「ハートブレイク・ホテル」の録音で使用したといわれる金色のモデル。

        ギター

        ビートルズ時代とウイングス時代は左利き用のギターは入手困難(もしくは特注する必要があった)であったため、右利き用のギターを改造して使用していた。マッカートニーは普通の右利き用の弦の張り方のまま、ギターを逆向きにして演奏することもできるが、右利き用のギターは全てナットとブリッジを左利き用のものに交換、もしくは調整して使っている。

        アコースティック・ギター

        ゼニス・モデル17(Zenith Model17)
        マッカートニーが最初に手にしたギター。誕生日プレゼントとして父から贈られたトランペットを楽器屋に持ち込み、そのままこのギターと交換してもらったという。ドイツの楽器メーカーであるフラマス社が製造し、イギリスの音楽出版社ブージー&ホークス社が流通させていたギターで、メイプルの合板を使用したノンカッタウェイのアーチトップ・アコースティックギターである。クオリーメンに加入した当初から使用しており、後にアーチトップ用の金属のバーに固定するタイプのフローティング式ピックアップを後付けしてエレキ化されるが、その後機材面の限界を感じたマッカートニーがロゼッティ・ソリッド7を入手したことで、ギグで使われる事はなくなった。マッカートニーは現在もこのモデル17を所有しており、『ザ・ビートルズ・アンソロジー』の映像の中で、このギターで「トウェンティ・フライト・ロック」を演奏している姿を確認できる。現在は塗装をリフィニッシュされ、ピックガードも外されたままの状態となっている。
        エピフォン・テキサン(2005年製)直筆サイン入り Aged Texan
        エピフォン・テキサン(Epiphone Texan)
        1964年製で、当初は自身の作曲用としてエピフォン・カジノと同時に購入した。右利き用。全音下げチューニングで「イエスタディ」のレコーディング時に使用されている。当初はレコーディングやテレビ出演用のギターとして使用されていた。現在は全音下げチューニングに固定された状態で、コンサートツアーでは専ら「イエスタデイ」の演奏で使用される他、2005年のアルバム『ケイオス・アンド・クリエイション・イン・ザ・バックヤード』収録の「ジェニー・レン」でも使用された。ステッカーが表面に2枚貼られている。
        マーティン D-28(Martin D-28)
        1967年より使用開始。ビートルズ時代からウイングス時代まで使用したモデルは1967年製の右利き用。ウイングス解散後には左利き用のモデルを使用。2002年以降のツアーやライブでも頻繁に使用している。
        マーティン・OOO-18(Martin OOO-18)
        マーティン・J-18(Martin J-18)
        1993年のワールド・ツアーで使用。左利き用。サウンドホールに後付式のピックアップをガムテープで固定して使用された。J-18は、マーチンのMサイズボディと同じながら厚みはDサイズの深いもの、ボディ下部の広がりでooo-18と見分けが可能。
        マーティン12弦ギター(モデル名不明)
        ギブソン・J-180(Gibson J-180)
        通称エヴァリー・ブラザーズモデル。ムスターシュ (髭形) ・ピックガードがサウンドホールの左右に貼られ、外見上は利き腕による区別がない。1960年代後半製の仕様だが、近年はブリッジが改造され、オリジナルの仕様とは異なりブリッジピンで弦を留める仕様となっていることが確認されている。ウイングス時代から1993年のツアーまで、レコーディングやライヴで使用されている。
        ギブソン・J-185
        2013年のOut Thereツアーの頃から使用している12弦。サンバースト。
        ギブソン・J-160E
        ビートルズ時代にレノンとハリスンが使用したことで有名なモデルだが、マッカートニーはビートルズ解散以降に手にしている。ボディシェイプが変更された1969年以降の仕様で、右利き用のサンバーストカラー。
        タカミネ・NPT-010(Takamine NPT-010)
        アルヴァレズ・ヤイリ・YD-88BK(Alvarez Yairi YD-88BK)
        日本のK・ヤイリの米国輸出モデル。黒色・左用で、サウンドホールが無いのが特徴。現在も市販されている(オーダーでのカスタマイズも可能で、日本でもアルヴァレズ・ヤイリ仕様で作ることができる)。1989-1990年のツアーで使用。
        オベーション・カスタム・レジェンド1619
        1975年〜1976年のウイングスのワールドツアー、および1979年の英国ツアーで使用された6弦のオベーション。市販モデルとは仕様が若干異なる。
        オベーション・ペースメーカー1615
        1975年〜1976年のウイングスのワールドツアーで使用された12弦。
        オベーション・カスタム・レジェンド1658
        1975〜1976年のウイングスのワールドツアーで使用された、もう1本の12弦。

        エレクトリック・ギター

        ロゼッティ・ソリッド7 (Rosetti Solid7)
        マッカートニーにとって初めてのエレクトリック・ギター。1960年6月30日にヘッシー楽器店で分割払いで購入した。オランダの楽器メーカー、エグモンド社が製造したギターで、同社はイギリスに輸出するモデルに「ロゼッティ」という別のブランド名を施している。「ソリッド」という名称だが実際はソリッドボディではなく、サウンドホールの無いセミ・ホロウボディである。ハンブルク巡業の際にベーシストのサトクリフが度々公演を欠席するようになり、その代役が回ってくるようになったことで、マッカートニーはソリッド7に(クラブに備え付けのピアノから失敬してきた)ピアノ線を3本強引に取り付け、即興ベースとして使用するようになる。しかし、ピアノ線の強い張力に耐えられるはずもなく、間もなくして大破したソリッド7を修理する価値が無いと判断したメンバー達は、全員で「ソリッド7を木っ端微塵になるまで叩き壊す」という儀式めいたパフォーマンスをステージ上で行ったという。ソリッド7が即興ベースとしての役割を終えた1961年の春頃にはスチュアートが脱退寸前の状態で、既にバンドの正式なベーシストを担当していたマッカートニーは、トニー・シェリダンとの「ポリドール・セッション」に向けて新しいベース「ヘフナー・500-1」の購入を決断する。
        エピフォン・カジノ
        1962年製のサンバースト。右利き用。シリアルナンバーは84075。1964年12月、前出のエピフォン・テキサンと同時に購入した。ビグスビー・ビブラート・ユニット付き。購入直後、1964年12月21日~1965年1月16日にかけてロンドン・オデオンシネマで開催されたクリスマス・ショウの楽屋にマッカートニーが本機を持ちこんでいる写真が残っており、まだ右利き用に弦が張られている新品状態の本機をレノンが試奏していたり、ハリスンと共にブリッジのサムナットを回し調整を試みている写真が残されている。マッカートニーの勧めにより、のちにレノンとハリスンもカジノを購入する。
        レノンとハリスンが購入した1965年製モデルとは異なり、マッカートニーの所有モデルはヘッドの形状(オールド・スタイルのファット・ヘッド)、トラスロッドカバーにeマークがない、コントロールノブが黒い、ホーンの丸みが大きめといった1962年製までの仕様の特徴がある。アルバム『ヘルプ!』のレコーディング・セッション以来、現在までのレコーディングにおけるメイン・ギターである。「涙の乗車券」や「タックスマン」などのリード・ギターは、このカジノによって演奏されている。ピックガードは1970年に外され、のちのウイングス時代のレコーディング及びライブ、その後現在に至るまでの全キャリアを通して愛用している。ストラップピンがネックヒールではなく、右のカッタウェイに付いている(これはマッカートニー自身がこの位置に付けた可能性が高い)。現在はボディ裏までサンバースト塗装が施されている事から、ある時点でボディ材の交換や一部の再塗装を伴うリペア作業が行われた可能性が高い。
        ステージでは1973年のウイングスのヨーロッパ・ツアーで使用したのが最初。2005年の『Live 8』にて「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」をU2と演奏した時もこのギターを使用。近年のツアーでも、2010年のマイアミ公演や2013年・2015年の日本公演での「ペイパーバック・ライター」の演奏時など、ごくまれにステージで使用される。
        ギブソン・レスポール
        少なくとも3本所有しており、全て左利き用。
        (1)1989年にチープ・トリックのリック・ニールセンより購入した、通称「バースト」と呼ばれる1960年製。1989~90年のツアーで初登場。ネックジョイント部分のサンバーストがかなり濃くなっている点が特徴である。ギブソン所有のデータによると、1958年から1960年に作られた左利き用の「バースト」レスポールはわずか4本しかなく、2020年現在完全に本物である確証があるのは、このギターのみと言われている大変貴重なもの。現在ではライヴのアンコール最後の曲、「ジ・エンド」で使用されることが多い。
        (2)2000年代のリイシューモデルで、元々の色はサンバーストだったが、2009年頃にイラストレーターのロージー・ブルックスによって、両手を挙げた人がたくさん描かれたペインティングが施され、透明なピックガードが装着された。『グッド・イヴニング・ニューヨーク・シティ』など各種ライブ映像で確認できる。近年のツアーでは、「レット・ミー・ロール・イット」演奏時に使用。
        (3)リンダよりプレゼントされたと言われる1957年製ゴールドトップ。「ワンス・アポン・ア・ロング・アゴー」のPVや『夜のヒットスタジオDX』、イギリスのTV番組『LAST RESORT』出演時などで使用した他、1989-1990年のツアーでも使用。
        ギブソン・ファイヤーバードVII
        1966-1969年に製造されたノン・リバース・ボディ。左利き用。ビグスビーB5搭載。アルバム『ラム』セッション以降で使用。
        ダン・アームストロング/アンペグ・アクリル・ボディ・ギター
        右利き用。『バンド・オン・ザ・ラン』セッションで使用。また、『タッグ・オブ・ウォー』期のフォト・セッションでもその姿が見られる。
        フェンダー・ストラトキャスター
        1960年製、2トーン・サンバースト。左利き用。ローズ指板。ナットが交換されている。
        フェンダー・テレキャスター
        1968年製、サンバースト。左利き用。ファーストソロアルバム『マッカートニー』の録音等で使用された他、ウイングス時代にたびたび使用。のちにブリッジをフロイドローズに交換し、センターピックアップを増設するなどのカスタマイズが施されている。カスタマイズ後の姿は『プレス・トゥ・プレイ』リリース期前後の映像や、アーカイブシリーズの『マッカートニー』デラックスエディションのブックレット等で確認可能。
        フェンダー製ではないが、リアピックアップを交換した上で「ギズモ」を搭載、ボディの一部を削って弾きやすくした右利き用のテレキャスタータイプを、ウイングス時代に使用していたことがある。
        フェンダー・エスクワイヤー
        右利き用のサンバースト。ビートルズ時代の1967-1968年に使用。ローズ指板。
        リッケンバッカー・360/12VP
        よく言われる360/12V64ではない。24フレット仕様の左利き用。ファイアーグロー。『オール・ザ・ベスト』TVCMや『フラワーズ・イン・ザ・ダート』レコーディング・セッションなどで使用。「クイーニー・アイ」 のメイキングビデオで存在が確認できる。
        ミュージックマン・アルバート・リーモデル(プロトタイプ)
        アルバム『オフ・ザ・グラウンド』の時期にライブなどで使用。
        ギブソン・L-5
        2005年のアルバム『ケイオス・アンド・クリエイション・イン・ザ・バックヤード』の頃から使用。カラーはサンバースト。ピックガードの付いていない左利き用。
        ギブソン・ES-5 Switchmaster
        実際の使用歴は不明だが、1990年代に手にしている写真が残されている。

        私生活

        ウイングスのコンサート。リンダ・マッカートニーとともに。

        5年間ほど交際中のイギリスの女優ジェーン・アッシャーと1967年に婚約するが、マッカートニーの浮気を理由として1968年に婚約破棄されている。

        その直後から交際を始めた写真家リンダ・イーストマンが妊娠したため、1969年3月12日に結婚した。この時リンダには、前夫で地質学者のジョセフ・メルヴィル・シー・ジュニアとの娘であるヘザー・ルイーズ・シー(2人の結婚後にはヘザー・マッカートニー)がいた。以降、リンダはマッカートニーを公私共に支え続けたが、1998年4月17日 米国アリゾナ州ツーソンにて乳癌のため56歳で死去した。マッカートニーとリンダの間には、写真家のメアリー、ファッションデザイナーとして世界的に有名になるステラ、ミュージシャンとして活躍するジェームズの3人の子供が生まれた。

        2002年にリンダの死後に出会った元モデルのヘザー・ミルズと婚約を発表、その後正式に再婚し、2003年には娘ベアトリス・ミリーが生まれた。しかし、お互いの生活のすれ違いやマッカートニーの子供たちとの不仲などが原因で2006年に別居した。結局、離婚は2008年5月12日に認められ、6週間後に成立した。

        2011年、4年ほど交際していたアメリカ人女性ナンシー・シェベルとの婚約を5月6日に発表。同年9月14日、ナンシーとの婚姻予告届をロンドン市内の登記所に提出。同年10月9日に結婚し、ロンドン市内の公会堂で結婚式をあげた。2013年4月、サンデー・タイムズが「英音楽界での長者番付」を発表し、マッカートニーと、アメリカで運送会社を経営する妻ナンシー・シェベルの合計資産は6億8千ポンドにも上り、長者番付1位を飾った。

        2019年時点で子どもが5人、孫が8人いる。祖父として孫に本の読み聞かせをすることもあり、2019年11月5日に初の絵本『グランデュードのまほうのコンパス』を刊行した。かつて孫を寝かしつけようと読んだE・E・カミングスの詩集に卑猥な表現があって、絵本の自作を思い立ったという。

        サッカーのプレミアリーグでは、イングランド・リヴァプールをホームタウンとするエヴァートンFCのファンである。

        また大相撲のファンでもある。1993年11月中旬に訪日した際は、福岡公演の前日11月17日に羽田空港から航空機で福岡空港に移動したのち大相撲11月場所観戦のため福岡国際センターに直行。予告なくマッカートニーが登場したために場内は騒然となり、翌日のスポーツ新聞でも取り上げられた。

        2013年11月の訪日の際にも福岡で観戦。日本相撲協会が11月14日午前から「ポール・マッカートニーさんが相撲を観に本日いらっしゃいます」と告知しており、画面に何回も登場した。また懸賞制度に特に興味を持ち、12・13日目と千秋楽の結びの一番において新作アルバム『NEW』を宣伝する懸賞を5本ずつ掛けた。初めて懸賞をかけるときは1日1本・15日間懸けることになっており、申し込みは場所前となっていたが、日本相撲協会はポール側の申し入れを「特例」として受け付けた。11月22日に帰国の途につくポールにこのことを大きく報じた紙面を記者が見せると大変に喜んだという。

        顕彰

        表彰

        主なものを掲載。詳細は「ポール・マッカートニーの受賞・ノミネート一覧」を参照。

        叙勲

        博士号

        その他

        著書

        フォロワー

        ポール死亡説

        脚注

        [脚注の使い方]

        注釈

        1. ↑ 他に「ゴールドディスクの最多保持者」「最多レコード売り上げミュージシャン」としても認定されている。
        2. ↑ 後年『リヴァプール・オラトリオ』のような大作も手掛けたが、実際の譜面作りやオーケストレーションはマーティンに依存していたとされている。
        3. ↑ シュープリームスの「恋はあせらず」ほか多数の名演で知られている。
        4. ↑ 1968年に行われたイーノック・パウエル(英語版)の「血の川」演説に反発していた。
        5. ↑ ソロ・アルバム『マッカートニー』の発売前に配付された、マッカートニー自身が用意した「ポールとの一問一答」というプレス用資料の中に「ソロキャリアのスタート」「今後ビートルズのメンバーと作曲することはない」というマッカートニーの発言があったことに基づいた記事である。
        6. ↑ レノンは1969年9月に行われたアップル本社での会議でグループ脱退を宣言していたが、レコード会社との契約更新に悪影響があることを恐れたアラン・クレインの説得で秘密にされていた。
        7. ↑ 元々ヴァルトハイムはビートルズに再結成公演を行うよう要請していた。レノンを除く3人は「再結成ということでなければ」という条件で出演を承諾していたが、メディアの注目を集めたため白紙に戻ってしまい、代わりにウイングスが参加することになった 。
        8. ↑ ウイングスは、翌1981年4月のデニー・レインの脱退により事実上の解散を迎えた。
        9. ↑ CBSコロンビア系に移籍しての作品だった。
        10. ↑ 自らの脚本で制作されることになった『くまのルパート』を原作としたアニメーション映画「ルパートとカエルの歌」の主題歌。
        11. ↑ イギリス・イースト・サセックスのキャッツフィールド村にあった住宅兼レコーディング・スタジオ。2008年に売却され、住居用アパートに改築された。
        12. ↑ 「ワンダーラスト」にハリスンのギター演奏をオーバーダブするためだったのだが、ハリスンの提案で3人のコーラスを録音することになった。
        13. ↑ スタンリー・クラーク、スティーブ・ガッド、リンゴ・スター、カール・パーキンス、エリック・スチュワート、スティービー・ワンダー等
        14. ↑ 通称『ザ・ロスト・ペパーランド・アルバム』。
        15. ↑ 同社の最初のアーティスト契約はマッカートニーであった。
        16. ↑ 日本での発売元も東芝EMIからユニバーサル・ミュージックに変わった。
        17. ↑ 「ONE ON ONE JAPAN TOUR 2017」と題し、2017年4月25日(火)の日本武道館と、4月27日・29日・30日の東京ドーム公演を行った
        18. ↑ MPLコミュニケイションズが1978年に取得した「ラヴ・ミー・ドゥ」「P.S.アイ・ラヴ・ユー」の2曲と、ユニバーサル・ミュージックが所有する「プリーズ・プリーズ・ミー」と「アスク・ミー・ホワイ」の2曲を除く。
        19. ↑ アメリカで1976年に制定された著作権法には、楽曲の原作者が一度手放した著作権を35年後に取り戻せるという規定があり、1978年以前に制作された楽曲の著作権が原作者に返還されるのは56年後と定められている。マッカートニーは「ラヴ・ミー・ドゥ」でデビューした1962年から2018年で56年になることを受けてこの訴訟を起こした。
        20. ↑ なお後年、この事件については不起訴処分(起訴猶予)で入国許可取り消しとなったため「入国歴なし」との扱いだった事が明らかになった。
        21. ↑ 札幌、仙台、新潟、名古屋、大阪、高松、松山、広島、福岡、熊本の全10都市。
        22. ↑ ビートルズの元メンバーではリンゴ・スターが1989年と1995年に武道館公演を行っている。
        23. ↑ 「ヤング・ボーイ」「ザ・ワールド・トゥナイト」「ビューティフル・ナイト」のCDシングル各2種、合計6種に「Part 1」〜「Part 6」と題されたダイジェスト版が収録された。
        24. ↑ 30インチ。フェンダーなど一般的な通常のロング・スケールのベースは34インチ。
        25. ↑ 原因はオクターブピッチの調整時に、ピックガードもしくはピックガードとブリッジを固定する金属の棒が破損した為と言われている。マッカートニーによるとその後このピックガードは紛失した。
        26. ↑ マッカートニーがメインベースとして使用していたカール・ヘフナー・500-1や、米国フェンダー社製の楽器類は『セルマー』社によって輸入されていた。
        27. ↑ 4001Sを受け取る事で、ステージやメディア出演時などの公の場で、リッケンバッカー製のベースしか使用できなくなること(エンドース契約)を警戒したという説もある。当時ビートルズはギターやベースのアンプについては、ヴォックスとエンドース契約を結んでいたため、その当時公式の場ではヴォックス聖のアンプしか使用できなかった
        28. ↑ リッケンバッカーでは「ファイア・グロー」の名称で呼んでいる
        29. ↑ シルバー、もしくはグレーの塗料をボディ上部にデタラメに塗っているか、垂らしている
        30. ↑ 後に市販化された左利き用においても、ネック、ヘッド、トラスロッドカバーは右利き用が流用されるのが基本であった。80年代にリリースされた後継機種「4003」の左利き用では、専用のネック、ヘッド、トラスロッドカバーが装着されるようになった。
        31. ↑ これが原因で「ゲット・バック・セッション」ではほとんど使用されなかった
        32. ↑ ホースシュー・ピックアップのコバルト磁石が磁力を失っていたため、ストックのピックアップのコイルを増し巻きしたものに交換。オリジナルのブリッジが変形してきしみ音を出すようになっていたため交換。さらにフレットとナットも(ナットは牛骨製に)交換。マッカートニーが実際にリッケンバッカー社に依頼した修理内容は音の出なくなったホースシュー・ピックアップの修理のみだったが、担当修理スタッフの「たくさんのラヴとケア」によりその他の修理もなされたと、当時の修理スタッフは語っている。
        33. ↑ 家庭を重視するマッカートニーと、地雷撲滅運動で世界を飛び回り家を空けることの多かったミルズとの関係にはすれ違いが生じた。その上、夫である彼の仕事に口を出して周囲のスタッフとトラブルを引き起こすミルズとの間には、次第に口論が頻発するようになったともいう。
        34. ↑ ミルズはマッカートニーの子供たちとの関係もうまくいかず、マッカートニーは再婚に反対する子供たちと衝突して一時期は疎遠になったという。
        35. ↑ ロンドンの裁判所は2008年3月17日における判決で総額2430万ポンド(約47億円)をミルズに支払うよう命じたと発表した。
        36. ↑ 「ミルズは慰謝料5450万ドル(約50億円)で不動産の購入・豪勢な海外旅行・寄付活動を行ない、2年足らずで全て遣い切った」と報道される。
        37. ↑ 同年5月、ニューヨークポスト紙の報道により、婚約者であるナンシーにカルティエの5カラットダイヤモンドの指輪を贈ったことがわかった。この指輪は1925年のビンテージもので値段は65万ドル(日本円で約5,200万円)だという。婚約者であるナンシーはインタビューで「プロポーズの場所はカリフォルニア州。突然でした。彼が贈ってくれた5カラットの指輪にぞくぞくしました」と述べている。
        38. ↑ 個人からの懸賞は受け付けていないため、名義としてはイベント興行会社のキョードー東京のものである。

        出典

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        参考文献

        外部リンク