| U2 | |
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ブリュッセル公演にて(2017年) | |
| 基本情報 | |
| 別名 |
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| 出身地 |
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| ジャンル | |
| 活動期間 | 1976年 - |
| レーベル | |
| 公式サイト | U2公式サイト |
| メンバー | |
| 旧メンバー |
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| YouTube | |
| チャンネル | |
| 活動期間 | 2006年 - |
| ジャンル | 音楽 |
| 登録者数 | 338万人 |
| 総再生回数 | 35億1136万8472回 |
| チャンネル登録者数・総再生回数は 2026年9月25日時点。 | |
U2(ユーツー)は、アイルランドの首都ダブリン出身のロック・バンド。1976年に結成され、ボノ(ボーカル・ギター)、ジ・エッジ(ギター・キーボード・ボーカル)、アダム・クレイトン(ベース)、ラリー・マレン・ジュニア(ドラムス)の4人で構成される。結成以来一度もメンバーの変更を行うことなく活動を続けており、全世界でのアルバム総売上は1億7000万枚を超え、ポピュラー音楽の歴史上最も成功したロック・バンドの一つとして広く認知されている。
初期のポスト・パンクをルーツとした原初的なサウンドから出発し、ボノの情熱的なボーカルと政治的・社会的メッセージを込めた歌詞、そしてエッジのディレイ・エフェクトを多用した空間的で浮遊感のあるギター・サウンドを特徴として独自の音楽性を確立した。
アメリカン・ルーツ・ミュージックに接近した1987年のアルバム『ヨシュア・トゥリー』の空前の大成功によって世界的スタジアム・バンドの地位を不動のものとし、続く1990年代には『アクトン・ベイビー』に代表されるインダストリアルやダンス・ミュージックを取り入れた前衛的なアプローチで大胆な自己革新を遂げた。以降も、1980年代から2010年代まで4つの年代(ディケイド)連続で全米アルバムチャート1位を獲得するなど、時代に合わせてサウンドとイメージを更新し続けている。
巨大なスクリーンや先鋭的なテクノロジーを用いたライブ・パフォーマンスの先駆者としても知られ、メディアを風刺したZoo TV ツアーや、音楽史上屈指の興行収入を記録したU2 360° ツアー、巨大な球体型アリーナのスフィアでの常設公演など、常にライブ・エンターテインメントの最前線を切り拓いてきた。
また、音楽活動と並行して社会課題にも深く関与しており、アムネスティ・インターナショナルのツアーやライブ・エイドへの参加をはじめ、ジュビリー2000、ONE Campaign、アフリカの後天性免疫不全症候群(AIDS)対策プログラム支援ブランド「RED」などボノを中心としたアフリカの貧困撲滅やエイズ対策などの人道支援・平和活動は国際的に高く評価されている。
これまでにグラミー賞をロック・バンドとしては史上最多となる計22回受賞しており、2005年には資格取得初年度で「ロックの殿堂」入りを果たした。『ローリング・ストーン』誌が選ぶ「歴史上最も偉大な100組のアーティスト」第22位。


U2が登場する以前のアイルランドの音楽シーンは、国際的にはぱっとしないものだった。ヴァン・モリソン率いるゼムが1960年代半ばにイギリスやアメリカでヒットを放ったものの、その成功は長続きしなかった。ロリー・ギャラガーやシン・リジィも世界的な成功とは言い難く、ボブ・ゲルドフ率いるブームタウン・ラッツは「ラット・トラップ(Rat Trap)」と「哀愁のマンデイ」で全英シングルチャート1位を獲得し、アイルランドのバンドとして初めて同チャートの首位に立つ快挙を成し遂げたものの、その後は勢いを維持できなかった。このように、当時はアイルランドのバンドにとって、世界的な成功を収めるのは容易なことではなかった。

U2のメンバーが通っていたマウント・テンプル・コンプリヘンシブ・スクール(マウント・テンプル校)は、カトリック色の強いアイルランドにおいて、国内初の特定の宗教・宗派に属さない画期的な公立の男女共学・中高一貫校として設立された。当時のアイルランドは、1967年に導入された中等教育無償化政策により、貧しい家庭の子供でも大学進学を目指せる教育環境が整いつつあった。
のちにU2を結成することになる4人はこの学校で出会い、バンドの歩みをスタートさせた。メンバー間には年齢差があり、1960年生まれのアダムとボノに対し、ジ・エッジとラリーは1つ年下(1961年生まれ)の学年であった。また、ポール・ヒューソン(後のボノ)は、のちに妻となるアリソン・スチュワート(アリ)ともここで出会っている。彼にとって彼女の存在は「未来そのもの」に見えるほどの一目惚れであったという。
学校でのポールは非常に目立つ存在であったが、14歳の時に母親を亡くした喪失感から、精神的な拠り所を求める信心深い一面も持ち合わせていた。彼は退屈を紛らわすため、近所の友人たちと「リプトン・ヴィレッジ(Lypton Village)」という前衛的なアート・グループを結成し、路上パフォーマンスなどを行っていた。彼らの主な関心事は、政治、芸術、セックス、そしてロックであった。
このグループでは互いをあだ名で呼び合い、ポールは補聴器店「Bonavox」(ラテン語で「良い声」の意)の看板に由来する「ボノ・ヴォクス」を経て、「ボノ」と呼ばれるようになった。後にグループへ出入りした他のメンバーにもあだ名が付けられ、デイヴはボノによって「エッジ」と名付けられた。一方、ラリーの「ジャムジャー」、アダムの「スパーキー」「ミセス・バーンズ」は定着しなかった。
やがてリプトン・ヴィレッジのメンバーたちは音楽活動を本格化させ、ボノを中心とするU2と、幼馴染のギャヴィン・フライデーやグッギらが率いるヴァージン・プルーンズの二つのバンドへと分派していくことになった。
1976年9月、学校の校内掲示板に「当方、ドラムセットにお金を無駄遣いしてしまいました。僕と同じようにギターにお金を無駄遣いした人はいませんか?」という一枚の貼り紙が貼られた。
これを掲示したのはラリー・マレン・ジュニアであった。ロックバンドを結成したがっていた息子を見かねた父親(ラリー・マレン・シニア)の助言によるものだったが、ラリー自身は「ただ楽しむだけのつもりだった。それ以外何のアイデアもなかったし、何も期待していなかった」と語っている。
9月25日、貼り紙を見た生徒たちがラリーの自宅のキッチンにやって来た。顔を見せたのはボノ、エッジ、エッジの兄のディック、アダム、その他2人(ピーター・マーティンとアイヴァン・マコーミック)であった。ラリーを含めた7人でセッションを行った結果、最終的にボノ、エッジ、アダム、ラリー、そしてディックの5人が残り、最初のバンド名は「フィードバック(Feedback)」に決まった。この名前は、当時の彼らが知っていた数少ない音楽用語であったことに加え、初期の未熟なリハーサルにおいてアンプから常にフィードバック・ノイズ(ハウリング)が鳴り響いていたことに由来している。
この年の秋(1976年10月頃)、学校のカフェテリアで開催されたタレント・コンテストに出場し、フィードバックとして初めて観客の前に立ってギグを行った。この時は、マウント・テンプル校の生徒ではなかった年長のディックを外した4人での演奏であった。
彼らが披露したのは、ピーター・フランプトンの「ショー・ミー・ザ・ウェイ」や、当時大人気だったベイ・シティ・ローラーズの「バイ・バイ・ベイビー」などのカバー曲であった。技術的にはぎこちない演奏だったものの、生徒たちからは大いに受け、アンコールまで求められた(レパートリーが尽きていたため、再び「バイ・バイ・ベイビー」を演奏したというエピソードも残っている)。この時の観客の熱狂的な反応が大きな転機となり、当初は遊び半分だった彼らもバンド活動に本気で取り組むようになっていった。
その後、バンドは練習とギグを繰り返す日々を送った。しかし、バンドの演奏技術はお世辞にも高いとはいえず、他人の曲を完璧にカバーすることができなかったため、やがて自分たちでオリジナルの曲を作るようになった。結果的にこれが功を奏し、カバーばかりやっていた他のバンドとは異なり、早いうちに自分たち独自のスタイルを築くことに繋がった。
やがてアイルランドにもパンク・ムーブメントが押し寄せ、ラジエーターズ・フロム・スペース、アンダートーンズ、スティッフ・リトル・フィンガーズなどのパンクバンドが現れた。1977年には、ナイル・ストークスがアイルランド初の本格的な大衆向け音楽雑誌『ホット・プレス』を創刊し、ロックDJのデイヴ・ファニングが海賊ラジオ局ラジオ・ダブリンで番組を始めた。ファニングと『ホット・プレス』のライター、ビル・グラハムはパンクを積極的に支持した。夏季休暇中にアダムはロンドンに赴いて本場のパンクを体験し、パティ・スミスの『ホーセス』、テレヴィジョンの『マーキー・ムーン』、ザ・クラッシュの『白い暴動』などのレコードをダブリンに持ち帰った。同年10月には、U2のメンバーはダブリンでザ・クラッシュの公演を観て、大いに刺激を受けた。
パンク・ムーブメントに触発されたボノたちは、バンド名をパンク風の「ザ・ハイプ(The Hype)」へと変更した。デヴィッド・ボウイのバックバンドの名前に因んで付けたバンド名だった。1978年2月、アイルランド国営放送(RTÉ)のプロデューサーの前で、自分たちの曲だと偽ってラモーンズの「Glad to See You Go」を演奏したザ・ハイプは、好意的な評価を得て初めてのテレビ出演を果たし、オリジナル曲の「The Fool」を演奏した。
その後、ザ・ハイプという名前にしっくりきていなかった彼らは、当時マネージャー役だったアダムを通じて、ラジエーターズ・フロム・スペースの元メンバーであるスティーヴ・アブリル(後に『ボーイ』以降のU2の多くのジャケット・デザインを手がける人物)に相談を持ちかけた。スティーヴが新バンド名の候補として挙げた6つのリストの中にあったのが「U2」であった。ボノは「解釈の仕方が無限にある。僕の中ではU2偵察機よりもUボートのイメージだった」と語っているが、アダム(およびスティーヴ)の視点はより実用的なもので、「文字1個、数字1個だけだからポスターに名前を大きく印刷できるし、普通の会話で使う言葉(You too)だから、宣伝文句の中にも滑り込ませやすい」というグラフィック・デザインおよびマーケティング上の理由から選ばれたものであった。
1978年3月18日、U2はLimerick Civic Week Pop '78に出場。「Street Missions」「Life On A Distant Planet」「The TV Show」の3曲を演奏し、36組のバンドとの争いを勝ち抜いて優勝した。賞金は500ポンド、他にトロフィーとCBSアイルランドでデモセッションをする権利を得た。そしてこれを機に、エッジの兄・ディックは学業に専念するために、正式にバンドを脱退した。

リムリックでの優勝を果たした後、バンドは『ホットプレス』のライター、ビル・グラハムと知り合う。グラハムは早くからU2の可能性に目をつけ、当時バンドのマネージャー役を務めていたアダムから頼まれて、彼らのリハーサルを見に行った。グラハムはそこでU2の可能性を感じ、大学時代からの友人だったポール・マクギネスを紹介する。マクギネスは当初、彼らの才能には懐疑的だったが、1978年5月25日、ダブリンのプロジェクト・アーツ・センターでライブを見たことで、4人の熱意、誠実さ、野心に惹かれ、マネージャーを引き受けることになった。
その後、マクギネスは単なるマネージャーの域を超え、「5人目のU2」と呼ばれるほどバンドにとって不可欠な存在となった。1978年から2013年まで35年間にわたってマネージャーを務め、U2が無名の若手バンドから世界的なロック・バンドへと成長していく過程を、ビジネス面から支え続けた。
1978年6月、メンバーは全員学校を卒業し、それぞれの親から1年の猶予期間を与えられ、バンド活動に専念することになった。その後、ダブリンを中心に地道にライブを重ね、地元での支持を広げていった。1979年、U2はCBS Recordsのアイルランド支社と契約し、9月2日、3曲入りミニ・アルバム『スリー』をアイルランド限定でリリースした。U2にとって最初の商業リリースであった。
同年12月にはイギリス進出を目指して、イギリス各地でライブを重ね、レコード会社の関係者に自分たちを売り込んでいったが、メジャー・レコード会社から契約の申し出を受けることはできなかった。同年2月には、シングル「アナザー・デイ」をリリースしたが、チャート入りしなかった。そこでU2は、周囲に「イギリスツアーは大成功だった」と嘘八百を吹聴して回り、もはや後がないとばかりにアイルランド国内ツアーへ打って出た。1980年2月26日には、ダブリンのナショナル・スタジアムで、約2000人の観客を動員したライブを成功させた。
このライブには、アイランド・レコードのタレント・スカウト、ビル・スチュワートが足を運んでおり、その夜、U2はアイランド・レコードから契約の申し出を受けた。バンドは同年4月にアイランドと契約、契約内容は4年間でアルバム4枚、最初の12か月に少なくとも3枚のシングルとデビュー・アルバムを発売するというものだった。

1980年5月23日、ジョイ・ディヴィジョンを手掛けたことで有名だったマーティン・ハネットのプロデュースで、アイランドとの契約後初のシングルとなる「11オクロック・ティック・タック」をリリースしたが、チャート入りはしなかった。
ハネットはU2のファースト・アルバムもプロデュースする予定だったが、諸事情により実現しなかった。その代役として白羽の矢が立ったのが、ピーター・ガブリエルやXTCの作品を手がけて頭角を現していたスティーヴ・リリーホワイトだった。
兄貴肌のリリーホワイトは若いメンバーをよく引っ張って、レコーディングは順調に進み、同年10月20日、ファースト・アルバム『ボーイ』がリリースされた。本作はイギリスのアルバムチャートで52位を記録し、数か月後にはアメリカのチャートにもランクインし、ビルボード200で63位を記録。批評も概ね好評だった。

アルバムリリース後、U2はヨーロッパだけでなく、アメリカも積極的にツアーで回った(ボーイ・ツアー)。当時のU2はアメリカではまだ無名に近かったが、東海岸や西海岸の大都市だけではなく、中西部まで足を延ばし、地道に各地でライブを重ねていった。マクギネスは、アメリカで成功するためには短期間のツアーでは不十分で、各地の小さな会場を丹念に回り、時間をかけて観客を開拓する必要があると考えていた。この地道な努力が実を結び、後年にはアメリカに確固たるファンベースを築くことになった。当時の関係者によれば、U2のメンバーは「成功」を非常に真剣に捉えており、出会うすべてのジャーナリストや関係者に対して体系的かつ執拗な売り込みを行い、着実にスターダムへの足場を固めていたのだという。
ロンドンで迎えたツアー最終日、U2の楽屋に2人の大物ミュージシャンが訪れ、バンドを激励した。1人は、1975年の『明日なき暴走』で一躍スターダムにのし上がり、評論家ジョン・ランドーから「ロックンロールの未来」とまで評されたブルース・スプリングスティーン。そしてもう1人は、ザ・フーのギタリストでソングライターでもあるピート・タウンゼントだった。後年、スプリングスティーンは、「彼らの音楽は大きくて、エコーがかかっていた。彼らの音を初めて聴いた瞬間から、大きな空間で鳴っているところが想像できた。感情も大きかったし、アイデアも大きかった」と振り返っており、U2が将来スターになることを予見していた。
1981年6月9日のロンドン公演をもってボーイ・ツアーが終了すると、U2は前作に引き続きスティーヴ・リリーホワイトをプロデューサーに迎え、同年7月からセカンド・アルバムのレコーディングに入った。しかし、ツアー先のポートランドで、ボノが新作用の歌詞やアイデアを記したノート入りのブリーフケースを盗まれてしまい、完成した歌詞が一切ない状態でスタジオ入りを余儀なくされた。さらに、ボノ、エッジ、ラリーの3人が、キリスト教信仰とロックバンドのライフスタイルの両立に深く悩み、バンド存続の危機に陥っていたことも重なり、制作は極めて難航した。
それでも困難を乗り越え、同年10月12日に2作目のアルバム『アイリッシュ・オクトーバー』のリリースにこぎつけた。しかし、セールスも批評も前作ほどではなく、アイランド・レコード社内はU2との契約を打ち切ることが真剣に検討されるほどだった。結局、アイランド・レコード創設者、クリス・ブラックウェルが首を縦に振らず、バンドは首の皮一枚で繋がった。
しかし、オクトーバー・ツアー・欧州公演終了後、今度はバンドの解散の危機に陥った。当時、ボノ、エッジ、ラリーの3人は、シャローム(Shalom)というキリスト教のグループに参加していた。バンドが成功し始めた頃、ボノがグループのリーダーに金銭的援助を申し出たところ、「ロックンロールで得た不浄な金など受け取れない」と断られた。さらに他のメンバーからも、ロックバンドなど辞めてもっと宗教活動に従事すべきだと非難を浴びるようになった。ラリーは真っ先にこのグループから距離を置いたが、ボノとエッジは精神的に追い詰められ、ついにバンドを辞める決意を固めるに至った。
2人から辞意を告げられたマネージャーのマクギネスは、激しく動揺した。しかし彼は、「すでにツアーは組んである。君たちには、バンドのために働いている人々に対して契約を履行する法的・道徳的義務がある。君たちの信じる神は、法(契約)を破れと教えるのか?」と2人を鋭く問い詰め、説き伏せた。この説得に対し、エッジも「神が契約不履行を望むはずがない」と納得し、辛うじてバンドは解散の危機を乗り越えた。その後、ボノとエッジはシャロームを脱退し、やがて「ロックンロールと信仰の両立は可能である」という強い確信に至るようになった。

オクトーバー・ツアー中の1982年3月22日にシングル「セレブレイション」をリリースしたが、またしてもヒットしなかった。
経済的困難から脱するためには、ヒット曲が必要と考えるようになったバンドは、三度スティーヴ・リリーホワイトを迎えて新作のレコーディングに入り、同年2月28日に3作目のアルバム『WAR(闘)』をリリースした。アルバムはバンド初の全英アルバムチャート1位になり、アルバム収録曲の「ニュー・イヤーズ・デイ」も全英シングルチャートで初のトップ10入り(最高10位)を果たしたほか、アメリカのビルボード・ホット・100チャートに初めてランクインした。他にもアルバムには、北アイルランド問題をテーマにした「ブラディ・サンデー」が収録されており、U2の代表曲の一つとなった。
アルバムに伴うウォー・ツアーでは、U2は北米とヨーロッパを精力的に巡演した。なかでも6月5日にアメリカ・コロラド州のレッドロックス野外劇場で行われた公演は、雨と深い霧に包まれる悪条件のなかでの熱演となり、U2のライブ・パフォーマンスを象徴する公演として後世まで語り継がれることになった。この模様はライブ映像作品『ライブ・アット・レッド・ロックス』として記録され、同公演を中心としたライブ音源は、同年11月にライブ・ミニ・アルバム『ブラッド・レッド・スカイ=四騎=』としてリリースれた。アルバムは全英アルバム・チャート2位、アメリカのビルボード200で28位を記録し、U2の国際的な知名度をさらに押し上げた。
また、このツアーでは11月に初来日を果たし、大阪、瀬戸、東京で計6公演を行った。日本滞在中にはフジテレビ系音楽番組『夜のヒットスタジオ』に出演し、「ニュー・イヤーズ・デイ」を披露した。11月21日に収録されたとみられるこのテレビ出演では、エッジのギターが故障するというハプニングが発生し、彼は同曲のギター・パートの大半をピアノで演奏することになった。

U2はデビュー作『ボーイ』から3作連続でスティーヴ・リリーホワイトをプロデューサーに起用してきたが、より新たなサウンドを模索するため、4作目ではブライアン・イーノとダニエル・ラノワを迎えた。前衛的な音楽活動で知られるイーノの起用には周囲からも懸念の声があり、アイランド・レコード創設者クリス・ブラックウェルも、U2のロック・サウンドが実験的な作品になることを危惧して反対したとされる。
当初、イーノ自身もロック・バンドのプロデュースに積極的ではなかったが、U2の音楽に関心を持つようになり、参加を決めた。イーノはラノワを共同プロデューサーとして起用し、2人はU2とともに新たなサウンドの構築に取り組んだ。
1984年5月、U2はアイルランド・ミース県のスレーン城でレコーディングを開始し、同年10月1日に4作目のアルバム『焰』を発表した。本作では、それまでの作品で聴かれたロックやポストパンクを基調としたサウンドから音楽性を広げ、シンセサイザーやエフェクト、アンビエント的な音響などが取り入れられ、U2の音楽的転換を示す作品となった。また、本作からは「プライド」が全英シングルチャート3位のヒットとなり、「バッド」が代表曲の一つとなった。
1984年から1985年にかけて行われたアンフォゲッタブル・ファイアー・ツアーは、ヨーロッパ、北米、オセアニアを巡り、アリーナ規模の公演を中心にU2の国際的な人気をさらに拡大した。1985年4月1日にはニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデン公演を成功させ、アメリカだけで約57万8,000人の観客を動員し。『ローリング・ストーン』は「私たちが選ぶ80年代のバンド(Our Choice: Band of the ’80s)」という見出しを掲げ、初めてU2を表紙に起用した。また、U2の5枚のアルバムのうち4枚がビルボード・アルバム・チャート・トップ200にランクインし、そのうち3枚は100万枚以上を売り上げた。ツアー終了までに、U2はアメリカで最大の「カルト・バンド」と呼べる存在となっており、その立ち位置は、『ボーン・イン・ザ・U.S.A』によってスーパースターへと駆け上がる以前のブルース・スプリングスティーンにも似ていた。

この時期、U2の知名度と人気を高めるうえで大きな役割を果たしたのが、自作品のヒットだけでなく、チャリティ・コンサートなどで披露した精力的なライブ・パフォーマンスだった。
1984年末、ボブ・ゲルドフが提唱したエチオピア飢餓救済プロジェクト、バンド・エイドのチャリティ・シングル「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」にボノが参加したことを皮切りに、バンドは様々な社会的活動に深く関わるようになった。その決定打となったのが、翌1985年7月に開催された歴史的チャリティ・コンサート、ライブ・エイドへの出演である。
1985年7月13日、ウェンブリー・スタジアムのステージに立ったU2には、約15分間の出演時間が与えられた。U2はウェンブリー公演の最初の出演者で、そのため、多くの視聴者がU2の演奏を目にすることになった。バンドは「ブラディ・サンデー」に続いて「バッド」を演奏した。しかし演奏中、ボノはステージを降りて観客席のフェンスまで移動し、観客の女性を引き寄せて抱き合いながら踊るというパフォーマンスを披露した。これは、ボノがブルース・スプリングスティーンから拝借した演出で、焰ツアーでもたびたび行っていたものであった。このため演奏時間は予定を大幅に超過し、用意していた楽曲をすべて演奏することはできなかった。演奏後、メンバーやマネージャーのポール・マクギネスは、限られた出演時間を十分に生かせなかったことを悔やみ、ボノもバンドの脱退を考えるまでに精神的に追い詰められた。しかし、このパフォーマンスはテレビ中継を通じて大きな反響を呼び、U2はライブ・エイドに出演したアーティストの中でも、クイーンと並んで特に印象的なステージを披露したバンドとして注目を集め、U2のアルバム・セールスは、その後数か月で3倍に増加した。
同年、ボノは南アフリカのアパルトヘイトに反対するプロジェクト、サン・シティにも参加。さらに1986年5月には、アイルランドの深刻な失業問題に対抗するためのチャリティ・イベント、セルフ・エイドにバンドとして出演し、失意の底にあった母国の若者たちを力強い演奏で鼓舞した 。

続く同年6月には、アムネスティ・インターナショナルが主催した全米アリーナ・ツアー希望の戦略に、ポリスやピーター・ガブリエル、ルー・リードらと共にヘッドライナーとして参加する。このツアーの実現にあたっては、ボノ自身が他の大物アーティストたちに直接電話をかけて出演交渉に奔走した。
ツアー最終公演では、象徴的な出来事が起こった。ポリスの素晴らしいステージの最後に、北アイルランド紛争を題材にした「インヴィジブル・サン」が演奏されると、U2のメンバーが一人ずつ舞台袖から現れ、ポリスの楽器を引き継いでいった。ラリーはスチュワート・コープランドに代わってドラムを叩き、エッジはアンディ・サマーズのギターを、アダムはスティングのベースを受け取り、最後にボノがステージ中央へ進んで歌を引き継いだ。それは、当時「世界最大のバンド」と呼ばれていたポリスから、次の時代を担おうとしていたU2へ、象徴的にバトンが手渡される瞬間となった。
この全米ツアーは大成功を収め、アムネスティの会員数を倍増させただけでなく、U2のファン層が「世界に変化をもたらす」という新たな政治的・社会的意識を共有していることを証明した。
これら一連の活動を通して、U2は音楽活動と社会的・政治的なメッセージを結びつけるバンドとして広く認知されるようになった。

この時期のもう一つの大きな音楽的変化は、バンドがルーツ・ロックへと目覚めていったことである。U2はパンクやポスト・パンクのムーブメントから直接誕生したバンドであり、ブルースやカントリーといったロックンロールの伝統的なルーツを通ってきていなかった。しかし、1984年のスレイン城でのライブでボブ・ディランと共演した際、彼から直接「君たちはもっと音楽のルーツを学ぶべきだ」と指摘されたことや、その後のサン・シティのプロジェクト等でキース・リチャーズ(ローリング・ストーンズ)と交流し、彼から古いブルースの魅力を教えられたことが、ボノにとって自らの音楽的教養を見直す大きな転機となった。
また、アメリカの伝統音楽に深く惹かれる一方で、ボノは自分たち自身の母国のルーツにも目を向けた。1986年には、アイルランドの伝統音楽グループであるクラナドの楽曲「イン・ア・ライフタイム」にゲストボーカルとして参加。この共演を通じて、彼はアイルランド音楽が持つ特有の哀愁や、ケルト的な神秘の響きを深く吸収していった。
こうしたアメリカン・ルーツ・ミュージックへの探求と、アイルランドの伝統音楽の要素、さらにはアメリカという国が抱える「理想の神話と冷酷な現実」に対するボノの政治的・文学的な関心が一つに結実したのが、1987年3月9日に発表された5作目のアルバム『ヨシュア・トゥリー』である。前作に引き続きブライアン・イーノとダニエル・ラノワをプロデューサーに迎えた本作は、彼らのトレードマークであったヨーロッパ的でアンビエントな音響空間に、アメリカ音楽のアーシーな土臭さを見事に融合させた傑作となった。

本作は、商業的にも批評的にも空前の成功を収めた。イギリスでは発売初週に23万5,000枚を売り上げ、当時のイギリス音楽史上最速で売れたアルバムとなり、全英アルバムチャートで1位を獲得した。 アメリカでもBillboard 200でU2初の1位を獲得し、U2にとって初の全米アルバム・チャート首位作となった。また、本作に収録された「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」(3週連続1位)と「アイ・スティル・ハヴント・ファウンド・ホワット・アイム・ルッキング・フォー」(2週連続1位)がいずれも全米ビルボード・ホット 100で1位を獲得し、U2にとって初の全米シングル・チャート首位曲となった。本作はその後も売れ続け、累計売上は2,500万枚以上に達している。
また、U2は『タイム』誌の表紙を飾った史上4番目のバンドとなった。それ以前に表紙を飾ったのは、ビートルズ、ザ・バンド、ザ・フーだけだった。ある批評家は、U2を「60年代の理想主義と70年代後半の音楽的な自由奔放さをつなぎ合わせた、別の時代からやって来た人々」と評した。
1988年3月2日に開催された第30回グラミー賞では、『ヨシュア・トゥリー』が「最優秀アルバム賞」を受賞。さらに「最優秀ロック・パフォーマンス(デュオ/グループ・ヴォーカル)」も受賞し、U2はこの2部門で初のグラミー賞を獲得した。 最優秀アルバム賞では、マイケル・ジャクソンの『バッド』、プリンスの『サイン・オブ・ザ・タイムズ』などを抑えての受賞だった。授賞式でボノは、「これをU2の頂点だとは考えていない。これは始まりにすぎない」とスピーチした。
こうした圧倒的な商業的成功と批評的評価によって、U2は世界的なロック・バンドとしての地位を確立し、1980年代後半を代表する存在へと躍進した。

『ヨシュア・トゥリー』の爆発的な成功を受け、熱狂的な全米ツアーを敢行中のU2は、アメリカン・ルーツ・ミュージックへの探求をさらに推し進めた。その探求の延長線上に生まれたのが、1988年10月10日にリリースされた『魂の叫び』である。本作には「ディザイアー」「エンジェル・オブ・ハーレム」「ラヴ・カムズ・トゥ・タウン」など、アメリカ音楽への傾倒を直接的に示す楽曲が収録され、B.B.キング、ボブ・ディラン、ザ・メンフィス・ソウル・チルドレンらとの共演も実現した。
同時に、このプロジェクトはアルバムだけにとどまらなかった。U2はヨシュア・トゥリー・ツアーを記録した映像作品の制作にも乗り出し、フィル・ジョアノー監督による映画『U2/魂の叫び』を完成させた。作品にはライブ映像だけでなく、アメリカ各地でのU2の姿や、メンフィス、ニューオーリンズ、ハーレムなどを巡る彼らの旅、さらにB.B.キングらとのセッションが収められた。
本作は世界的なヒットを記録し、全米・全英アルバムチャートで1位を獲得。世界累計売上は1,400万枚を超え、U2の商業的成功をさらに押し広げる作品となった。しかし、映画とアルバムの発表後、バンドは特にアメリカとイギリスの音楽メディアから容赦ない激しいバッシングを浴びることになる。批評家たちは、U2がビートルズの「ヘルター・スケルター」をカバーし、ジミ・ヘンドリックスの「星条旗よ永遠なれ」の演奏を映画に挿入し、B.B.キングやディランといった伝説的ミュージシャンと肩を並べて演奏している姿を見て、「自分たちをロックの神々の神殿に格上げしようとしている」「傲慢で大げさすぎる」と酷評したのである。
後年出版された自伝『U2 BY U2』などにおいて、メンバーはこのプロジェクトの意図を、アメリカの伝統音楽を探求する試みであり、先人たちへの純粋な敬意であったと説明している。しかし、アルバムと映画全体の演出における生真面目さや客観性の欠如により、当時の批評家やメディアには、そうとは受け取られなかった。
本作に対するメディアからの強いバッシングは、バンドにとって大きな転機となった。彼らは1980年代に定着した「生真面目なロックバンド」というパブリック・イメージを見直し、次なる1990年代に向けて、音楽性および表現手法(アイロニーやユーモアを取り入れたアプローチ)の大幅な軌道修正を図ることになった。

1980年代後半に受けた激しいバッシングを経て、バンドは1990年代に向けた根本的な方針転換を図ることになった。彼らはかつての生真面目なパブリック・イメージを自ら解体し、新たにヨーロッパのインダストリアル・ミュージックやエレクトロニック・ダンス・ミュージックの要素を大々的に取り入れることを決断する。プロデューサーには再びブライアン・イーノとダニエル・ラノワを起用するとともに、デペッシュ・モードやナイン・インチ・ネイルズなどを手掛けた気鋭のエンジニア兼プロデューサー、フラッドを新たに招き入れた。 1990年末、東西統一直後のドイツ・ベルリンにあるハンザ・スタジオ(かつてデヴィッド・ボウイがベルリン三部作を録音した伝説的スタジオ)でレコーディングが始まった。しかし、制作初期にメンバー間で音楽的方向性をめぐる意見の対立が生じた。ボノとエッジが新たな音楽的実験を推し進めようとしたのに対し、ラリーとアダムは、従来のU2らしいロック・サウンドを重視していたためである。一時はバンドの解散さえ危惧される状況となったが、エッジが演奏した二つのコード進行をきっかけに、メンバー4人による即興的なセッションから「ワン」が生まれた。この曲の制作を通じてメンバーは再び音楽的な結びつきを取り戻し、バンドは制作を継続することになった。
こうして1991年11月19日にリリースされた7作目のアルバム『アクトン・ベイビー』は、従来のU2の音楽性から大きく方向転換し、エレクトロニック・ミュージックやダンス・ミュージックの要素を取り入れた作品となった。アルバムは商業的・批評的に高い評価を受け、U2の新たな音楽的方向性を示す作品となった。

さらに、同作に伴って行われたZoo TVツアーでは、ステージ上に多数の大型スクリーンを設置し、テレビ映像やニュース、広告などを大量に映し出す演出を取り入れた。メディア社会や大量消費文化を題材としたこの大規模なステージ演出は、従来のロック・コンサートとは異なるマルチメディア型のライブ・パフォーマンスとして注目を集めた。また、ボノは「ザ・フライ」「ミラーマン」「マクフィスト」などの架空のキャラクターを演じ、ユーモアやアイロニーを取り入れたパフォーマンスを展開した。
こうした音楽性とステージ演出の転換によって、U2は1980年代に形成された生真面目で社会的・宗教的なイメージから大きく変化し、1990年代の音楽シーンにおいて新たな存在感を示すこととなった。
1992年5月、Zoo TVツアー中のU2は、グリーンピースとともに英国のセラフィールド再処理施設の拡張計画への抗議に参加した。メンバーは防護服とマスクを着用し、アイリッシュ海で採取した汚染泥を施設側へ「送り返す」パフォーマンスを行った。活動は施設の所有地外で行われ、敷地への立ち入りを禁じた差し止め命令には抵触しなかった。バンドは、放射性物質の放出をアイルランドにとって身近な環境問題と捉えていた。
同年6月21日には、マンチェスターで「ストップ・セラフィールド」コンサートを開催し、クラフトワーク、パブリック・エナミー、ビッグ・オーディオ・ダイナマイトと共演した。公演と記録映像『Stop Sellafield: The Concert』の収益はグリーンピースに寄付された。
一方、Zoo TVツアーのヨーロッパ・レグに向けたプロモーション用EPとして制作が始まったプロジェクトは、創作意欲の高まりによってフル・アルバムへと発展し、1993年7月に8作目のアルバム『ZOOROPA』としてリリースされた。約2年間に及ぶツアーの合間を縫って短期間で制作された本作では、フラッドとイーノに加え、エッジもプロデューサーとして大きく関与した。前作『アクトン・ベイビー』で打ち出したエレクトロニック・ミュージックやダンス・ミュージックの要素をさらに推し進め、情報過多の現代社会を風刺した「ナム」、テクノやダンス・ミュージックの要素を取り入れた「レモン」、カントリー歌手ジョニー・キャッシュをリード・ボーカルに迎えた「ザ・ワンダラー」など、実験性の高い楽曲を収録している。本作は第36回グラミー賞で「最優秀オルタナティヴ・ミュージック・アルバム賞」を受賞し、U2の音楽的な変貌を象徴する作品となった。
しかし、1991年から1993年にかけて行われた大規模なZoo TVツアーは、メンバーに大きな肉体的・精神的負担をもたらした。ツアー終盤のシドニー公演では、アダムがアルコールの影響でステージに立つことができず、急遽ベース・テクニシャンのスチュアート・モーガンが代役を務めるという事態も発生した。ツアー終了後、U2はしばらく活動のペースを落とし、それぞれが新たな音楽的可能性を模索する時期へと入っていった。
この時期には、映画音楽を通じた新たな試みも行われた。1995年には、映画『バットマン フォーエヴァー』のために「ホールド・ミー、スリル・ミー、キス・ミー、キル・ミー」をU2名義で発表。歪んだギター・サウンドとストリングスを組み合わせたグラム・ロック調の楽曲で、ボノがZoo TVで演じたキャラクター、ザ・フライやマクフィストをモチーフにしたアニメーション・ミュージック・ビデオも話題となった。楽曲は全米・全英をはじめ各国のチャートで上位に入り、世界的なヒットを記録した。
また1996年には、ラリーとアダムが、映画『ミッション:インポッシブル』のテーマ曲をダンス・ミュージックとして再構築した「ミッション・インポッシブルのテーマ」を発表した。U2のリズム隊である2人を中心に制作されたこの作品は、エレクトロニック・ミュージックを取り入れたアプローチによって新たな方向性を示した。

その一方で、U2はイーノとの共同制作をさらに発展させていった。その成果として1995年11月に発表されたのが、U2とイーノを中心とするプロジェクト「パッセンジャーズ」名義のアルバム『オリジナル・サウンドトラックス1』である。本作は「実在しない映画のためのサウンドトラック」をコンセプトに、アンビエント・ミュージックや電子音楽、実験的なサウンドを取り入れた作品となった。
アルバムでは、ルチアーノ・パヴァロッティをゲスト・ボーカルに迎えた「ミス・サラエボ」が特に大きな注目を集めた。同曲は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争下にあったサラエボを題材とし、戦争のさなかに開催された「ミス・サラエボ」コンテストをモチーフに制作された楽曲である。パヴァロッティによるオペラ的な歌唱とU2の音楽を組み合わせた異色の作品として、ヨーロッパを中心にヒットを記録した。

1990年代のエレクトロニック・ミュージックやクラブ・カルチャーから影響を受けたU2は、1997年にリリースした9作目のアルバム『ポップ』で、ロックとダンス・ミュージックをさらに融合させた新たなサウンドを追求した。制作には、フラッドのほか、ネリー・フーパーやハウイー・Bら当時のエレクトロニック・ミュージック・シーンで活動していたプロデューサーやDJも参加した。ボノが語った「ゴミの山の下から赤子のイエスを探し出す」という発想に象徴されるように、本作ではキッチュなポップ・カルチャーや大量消費社会の表層と、その背後にある精神的な欲求を結びつけることが試みられた。
しかし、制作は当初の予定どおりには進まなかった。ラリー・が背中の手術のため一時的に制作から離れたこともあり、U2はサンプリングやドラム・ループなど、それまで以上に電子的な手法を取り入れることになった。さらに、アルバムの完成前に翌年のポップマート・ツアーの日程を決定し、チケットの販売まで開始していたため、制作は厳しいスケジュールに追われることになった。結果として、アルバムは十分な時間をかけて完成させることができないまま、1997年3月にリリースされた。

こうした制作上の問題は、アルバムに伴うポップマート・ツアーにも影響を及ぼした。1997年4月にラスベガスから始まった同ツアーでは、巨大なLEDスクリーン、黄金色のアーチ、巨大なレモン型のミラーボールなど、それまでのU2のステージをさらに上回る大規模なセットが導入された。これらは大量消費社会や企業文化を戯画化したもので、ツアーそのものがU2の1990年代におけるアイロニーと視覚的な過剰さを象徴するものとなった。一方、アルバム制作とツアー準備が並行して進められたことで、バンドは十分なリハーサル期間を確保できなかった。ツアー序盤では新曲の複雑なアレンジをライブで再現することに苦戦し、巨大なステージ装置を用いた演出にもトラブルが発生した。こうした状況から、ポップマート・ツアーはその巨大なスケールと斬新な演出が評価される一方、「過剰なスペクタクル」として批判を受けることにもなった。
このように、『ポップ』は、1990年代にU2が追求してきたエレクトロニック・ミュージックやクラブ・カルチャー、アイロニーをさらに推し進めた作品だったが、同時にそのアプローチが抱える限界も明らかにした。ツアーを終えたU2は、次作の制作にあたって再びバンド本来のロック・サウンドを重視する方向へと転換していく。
1998年5月19日、ボノとジ・エッジはベルファストの無料コンサートにアッシュらと出演し、3日後の国民投票でベルファスト合意に賛成するよう呼びかけた。ボノはデヴィッド・トリンブルとジョン・ヒュームをステージに招き、両者の手を取って掲げた。ボブ・マーリーの「ワン・ラブ・ピース・コンサート」を参考にしたこの場面は、北アイルランド和平への支持を象徴するものとして広く報道された。
合意は国民投票で承認され、両指導者は同年のノーベル平和賞を共同受賞した。この経験は、ボノが政治活動における自身の役割を意識し、その後のジュビリー2000などへ関与する契機となったとされる。
1998年、U2はそれまでの投資による損失を受けて、自らの事業運営への関与を強め、事業体制の再編を進めた。その一環として、ポリグラム傘下のアイランド・レコードと3作のベスト・アルバムを発売する契約を締結した。契約額は当時5000万ドルと報じられたが、アイランド関係者によれば、実際にはそのほぼ2倍に達する規模だったという。
同年11月、その第1弾として『ザ・ベスト・オブU2 1980-1990』を発売した。「ニュー・イヤーズ・デイ」「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」など1980年代の代表曲に加え、過去のB面曲「スウィーテスト・シング」を新たに録音したヴァージョンが収録され、同曲は先行シングルとして発売された。
当時アイランド・レコードのマネージング・ディレクターだったマーク・マロットによれば、「スウィーテスト・シング」のシングル化を提案した際、ボノは全英トップ25にも入らないと予想していたが、実際には全英シングルチャート3位を記録した。マロットは、『ポップ』期のU2の作品が一部のファンにとって難解になっていたのに対し、同曲はより直接的な「歌」への回帰として受け入れられ、バンドの商業的な再浮上に貢献したと評価している。また、マロットによれば、『ザ・ベスト・オブU2 1980-1990』は約1400万枚を売り上げたという。
一方、1990年代におけるエレクトロニックな実験とアイロニーの極致ともいえる『ポップ』を経て、U2はテクノロジーへの依存や、皮肉と虚構をまとったキャラクターから距離を置き、もう一度バンドとしての自分たちを取り戻そうとした。
その転換期にあたる2000年初頭、ボノが原案を手掛け、ヴィム・ヴェンダースが監督した映画『ミリオンダラー・ホテル』が公開され、そのサウンドトラックも発表された。ここには、サルマン・ラシュディの詩をもとにした「ザ・グラウンド・ビニース・ハー・フィート」などU2名義の楽曲が収録されたほか、ボノがイーノやラノワらと結成した特別編成によるアンビエント色の強い楽曲も収められている。まさに、90年代に追求してきた実験路線の総決算ともいえる作品だった。
そして、同年10月、盟友のイーノ、ラノワ、そしてスティーヴ・リリーホワイトをプロデューサーに迎え、10作目のアルバム『オール・ザット・ユー・キャント・リーヴ・ビハインド』をリリース。4人のメンバーが同じ空間で楽器を鳴らしながら曲を形にしていく、よりオーガニックなアプローチへと回帰した。全英シングル・チャート1位になったオープニングを飾る「ビューティフル・デイ」の突き抜けるような高揚感に象徴されるように、ストレートなギター・ロック、力強いリズム、そして普遍性のあるメロディを取り戻した本作は、世界各国で初登場1位を記録。グラミー賞でも「最優秀レコード賞」「最優秀楽曲賞」など主要部門を含む複数の賞を獲得し、世界累計売上は1,200万枚を超え、U2は批評と商業の両面で大きな復活を遂げた。授賞式でボノは「U2はもう一度、この仕事に応募しているんだ。何の仕事かって? 世界最高のバンドという仕事だよ」とスピーチして、場内を湧かせた。
ただ、『オール・ザット・ユー・キャント・リーヴ・ビハインド』による商業的復活の背景には、『ポップ』のアメリカでの不振を受けた方向転換があったと指摘されている。イギリスの音楽ジャーナリスト、ジョン・ジョブリングによれば、一部のファンや批評家からは、本作が「初期U2」の要素を取り戻す一方、ラジオやMTVでの成功を意識して冒険性を抑えた作品になったとの批判もあった。ラリー・マレン・ジュニアも後に、当時はラジオやMTV、VH1で流れる楽曲を作り、主流のポップ市場で競うことを意識していたと述べている。
また、ジミー・アイオヴィーンの協力のもと、U2とプリンシプル・マネージメントは若年層への浸透を狙った約2年間のプロモーション計画を立て、『トップ・オブ・ザ・ポップス』やMTVの『トータル・リクエスト・ライブ』などに相次いで出演した。「エレヴェイション」も映画『トゥームレイダー』とタイアップされるなど、大規模なマーケティングが展開された。

アルバムに伴うエレヴェイション・ツアーでは、ポップマート・ツアーの大掛かりな舞台装置から一転し、アリーナを中心とした、より観客との距離が近いステージを選択した。巨大な多層スクリーンを廃し、観客を取り囲むようにハート型の花道を設けたシンプルな舞台構成によって、ボノやエッジが客席の間近まで移動できる親密な空間を作り上げた。2001年3月から12月までに全113公演を行い、約218万人を動員。興行収入は約1億4,350万ドルに達し、同年の世界ツアー興行収入で1位を記録した。
そして、そのツアーの最中にあたる2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件が発生する。U2は北米ツアーを続行するべきか深く葛藤したが、最終的には「今こそ音楽が果たすべき役割がある」と判断し、ツアーを再開した。テロによって深い悲しみと喪失感に包まれたアメリカでは、本作に収録された「ビューティフル・デイ」「ウォーク・オン」「ピース・オン・アース」などのピースフルなU2の楽曲は、ラジオで頻繁に流された。
こうしたU2とアメリカ社会との精神的な結びつきが、一つの頂点に達したのが、2002年2月にニューオーリンズで開催された第36回スーパーボウルのハーフタイムショーだった。U2は「MLK」から「ホエア・ザ・ストリーツ・ハヴ・ノー・ネイム」へと演奏をつなぎ、その背後に設置された巨大なスクリーンには、9.11の犠牲者の名前が次々と映し出された。演奏の終盤、ボノがジャケットを開いて、その裏地に縫い付けられた星条旗を見せる場面は、このパフォーマンスを象徴する瞬間となった。
その一方で、この時期にはバンドの活動をめぐる不穏な兆候もみられた。ボノが債務救済やアフリカのHIV/AIDS問題をめぐる政治活動に多くの時間を費やすようになると、その影響はバンド活動にも及び、ラリー・マレン・ジュニアは、ボノの活動を評価しながらも、エレヴェイション・ツアーでのパフォーマンスに「深刻な問題」を生じさせているとして、むしろ1年間活動を離れて政治活動に専念すべきだと述べた。 また、アメリカ同時多発テロ事件後の北米公演では、犠牲者の名前をスクリーンに映し出し、警察官や消防士をステージに登場させるなど追悼色を強めた演出が行われたが、一部からは作為的で悲劇を利用しているとの批判も受けた。

『ザ・ベスト・オブU2 1990-2000』(2002年)に収録された「エレクトリカル・ストーム」「ザ・ハンズ・ザット・ビルト・アメリカ」(マーチン・スコセッシ監督『ギャング・オブ・ニューヨーク』の主題歌)を経て、2004年11月にリリースされた『原子爆弾解体新書〜ハウ・トゥ・ディスマントル・アン・アトミック・ボム』は、スティーヴ・リリーホワイトら初期U2を支えたプロデューサー陣を再び制作に迎え、さらにストレートなロックンロールを追求した作品となった。ボノが「U2にとって初めてのロック・アルバム」と表現したように、本作では前作で始まった原点回帰の方向性をさらに押し進め、エッジのギターを前面に据えた力強くシンプルなバンド・サウンドを追求していた。
先行シングルの「ヴァーティゴ」は、アップル社とのタイアップによって世界規模で展開されたiPodのテレビCMに使用され、楽曲の世界的な認知度を一気に高めた。イギリスでは、デジタル・ダウンロードの売上がフィジカル・シングルを上回った2004年、その年の末に発売されたにもかかわらず年間ベストセラー・トラックとなった。さらに、ダウンロード・チャートと全英シングル・チャートの双方で1位を獲得する大ヒットとなった。さらに2005年のグラミー賞では「最優秀ロック・パフォーマンス(デュオ/グループ)」「最優秀ロック・ソング」「最優秀短編ミュージック・ビデオ」の3部門を受賞した。 さらに、「サムタイムズ・ユー・キャント・メイク・イット・オン・ユア・オウン」もイギリスで1位を獲得し、U2のアルバムから2曲のシングルがともに全英1位を記録したのはこれが初めてだった。アルバム自体も世界的な大ヒットとなり、34か国で初登場1位を記録。最終的に世界で1,000万枚を売り上げ、前作に続くU2の商業的復活を決定的なものにした。
そして2005年と2006年のグラミー賞では、本作とその収録曲がノミネートされた8部門をすべて受賞した。「ヴァーティゴ」が3部門を制したのに続き、2006年には「サムタイムズ・ユー・キャント・メイク・イット・オン・ユア・オウン」が「最優秀楽曲賞」を、「シティ・オブ・ブラインディング・ライツ」が「最優秀ロック・ソング」を獲得し、アルバム本体も「最優秀アルバム賞」と「最優秀ロック・アルバム」を受賞した。結果として本作は、U2にとって前作に続く2作連続の「最優秀アルバム賞」受賞作となった。
2005年3月、U2はロックの殿堂入りを果たした。デビューから25年を経て資格を得た最初の年での殿堂入りであり、式典ではプレゼンターを務めたブルース・スプリングスティーンがU2への熱烈な賛辞を送った。本作の成功とほぼ時を同じくして実現したこの殿堂入りは、U2が現役の人気バンドであるだけでなく、すでにロック史における重要な存在として認められていたことを象徴する出来事だった。
同年3月末から始まったヴァーティゴ・ツアーも、U2の巨大なライブ・バンドとしての地位を決定づけるものとなった。アリーナとスタジアムを組み合わせた大規模なツアーは各地でソールドアウトが続き、2005年だけで90公演すべてが完売、300万人以上を動員。興行収益は2億6000万ドルに達し、同年のツアー興行収益ランキングで1位を獲得した。

さらに、このツアーの期間中には、音楽を通じた社会的・政治的活動も大きな注目を集めた。2005年7月、アフリカの貧困問題への関心を高めるため世界各地で開催されたチャリティー・コンサートLive 8にU2が出演。ロンドンのハイド・パーク公演では、ポール・マッカートニーとともに「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」を演奏し、そのまま「ビューティフル・デイ」へとつなぐオープニングを披露した。
こうした社会との関わりは、翌2006年にも続く。前年にハリケーン・カトリーナによって甚大な被害を受けたニューオーリンズの復興を支援するため、U2はパンク・ロック・バンドのグリーン・デイと異色のコラボレーションを実現した。両者はザ・スキッズの「セインツ・アー・カミング」をカバーして共同レコーディングし、シングルとして発表。各国のチャートでヒットを記録した。さらに同年9月、営業を再開したニューオーリンズ・スーパードームで行われたNFLの公式戦では、U2とグリーン・デイがフィールド上で共演。「セインツ・アー・カミング」と「ビューティフル・デイ」を披露し、復興途上にあったニューオーリンズの人々に強いメッセージを届けた。
また、同年冬には、1998年以来8年ぶりとなる日本公演も実現した。2006年4月4日に横浜・日産スタジアムで予定されていた公演はU2側の事情により延期され、その振替公演として11月29日、30日、12月4日の3公演がさいたまスーパーアリーナで行われた。 来日時の11月29日には、ボノが首相官邸を訪れ、安倍晋三首相を表敬訪問した。ボノは安倍首相にサングラスを贈呈し、アフリカの感染症問題に対する日本の貢献を高く評価するとともに、今後も日本が世界をリードしていくことへの期待を示した。 また、ボノはTBS系報道番組『筑紫哲也 NEWS23』にも出演してインタビューを受け、12月1日にはU2としてテレビ朝日系音楽番組『ミュージックステーション』に出演した。 『ミュージックステーション』では「ヴァーティゴ」と「ウインド・イン・ザ・スカイズ」を披露し、後者はU2にとって日本で初めてライブ演奏された。

2009年1月18日、バラク・オバマの大統領就任を祝うコンサート「ウィ・アー・ワン:オバマ就任祝典」に出演した。ワシントンD.C.のリンカーン記念館前で約40万人の観客を前に、「プライド」と「シティ・オブ・ブラインディング・ライツ」を披露。キング牧師が1963年に「アイ・ハヴ・ア・ドリーム」の演説を行った場所で、ボノは「プライド」の演奏中に「自由を鳴り響かせよう」と呼びかけ、キング牧師の夢をアメリカだけでなく、アイルランド、ヨーロッパ、アフリカ、イスラエル、パレスチナにも広げるメッセージを発した。続いて演奏された「シティ・オブ・ブラインディング・ライツ」では、オバマが選挙キャンペーンでこの曲を使用したことにも触れ、次期大統領への敬意を表した。
一方、前2作でストレートなロック・サウンドへの回帰を推し進めたU2は、次なるアルバムで再び実験的なアプローチへと向かい、2007年からモロッコのフェズでレコーディング・セッションを開始した。今回はブライアン・イーノとダニエル・ラノワを単なるプロデューサーとしてではなく、対等なソングライター(共作者)として招き入れている。「未来の賛美歌」をテーマに、北アフリカの民族音楽からインスピレーションを得ながら、エレクトロニクスとロックを融合させる実験的なサウンドを追求した。 その後、ダブリン、ニューヨーク、ロンドンでの長期にわたるセッションを経て、2009年2月に12作目のアルバム『ノー・ライン・オン・ザ・ホライゾン』がリリースされた。
しかし、本作は批評家から一定の評価を得た一方、商業面では前2作に及ばなかった。アルバムは30か国で初登場1位を記録したものの、2009年10月の時点で世界売上は約100万枚にとどまり、2004年の『原子爆弾解体新書』の売上を大きく下回った。ボノは、U2が当時のポップ・ミュージックの潮流を見誤り、より実験的で複雑な作品を作ってしまったことへの失望を語っている。先行シングルの「ゲット・オン・ユア・ブーツ」も、全英シングル・チャートで12位、アメリカのビルボード・ホット 100で37位にとどまり、「ビューティフル・デイ」や「ヴァーティゴ」のような大ヒットには至らなかった。

一方、本作に伴って2009年6月からスタートしたU2 360°ツアーは、商業的には歴史的な大成功を収めた。スタジアムの中央に巨大な4本脚の構造物を設置し、その下に円形のステージを組んで観客が360度全方向からバンドを取り囲むという規格外のセットは、通称「ザ・クロウ(The Claw)」と呼ばれた。ツアーは2009年から2011年まで26か月にわたって行われ、30か国・5大陸で110公演を実施。最終的に700万人を超える観客を動員し、興行収入は7億3,642万1,586ドルに達した。2011年7月の終了時点で、史上最高興行収入のコンサート・ツアーとなった。
しかし、その華々しい興行的成功とは裏腹に、ツアーの内実には多くの困難も伴った。本作からの新曲が過去のヒット曲ほど観客に浸透していなかったため、バンドはセットリストの構築に苦心することになった。 さらに2010年5月、ツアー再開に向けたリハーサル中にボノが深刻な脊椎損傷を負い、ミュンヘンで緊急手術を受ける事態となった。これにより北米ツアーは延期され、同年6月に予定されていたグラストンベリー・フェスティバルへのヘッドライナー出演もキャンセルされた。
ボノの重傷と長期にわたるリハビリテーションを乗り越え、U2は2011年、再び精力的な活動を展開した。
同年3月に発生した東日本大震災に際しては、世界のトップ・アーティストが参加したチャリティー・コンピレーション・アルバム『ソングス・フォー・ジャパン』に「ウォーク・オン」を提供した。このアルバムは、地震と津波による被災者を支援するために企画されたもので、世界各国のトップ・アーティストによる楽曲を収録。収益は日本赤十字社に寄付された。U2も震災発生から間もない3月27日に参加を発表し、いち早く日本への支援を表明した。
続く6月には、ボノとエッジが音楽と作詞を担当したブロードウェイ・ミュージカル『スパイダーマン: ターン・オフ・ザ・ダーク』が、ニューヨークのフォックスウッズ・シアターで正式開幕した。U2にとって初めて本格的にミュージカルへ挑戦するプロジェクトで、二人はU2のための楽曲とは異なり、登場人物の物語や感情を支える音楽の制作に取り組んだ。しかし制作は難航し、出演者の負傷事故や度重なる延期、演出・脚本の大幅な変更を経て、2011年6月14日にようやく正式開幕を迎えた。制作費は約6,500万~7,000万ドルに膨れ上がり、当時のブロードウェイ史上最高額とも報じられた。作品に対する批評家の評価も厳しく、ボノとエッジの楽曲についても賛否が分かれた最終的に約3年間の上演を経て2014年1月に閉幕した本作は、商業的・批評的には成功したとは言い難い結果に終わった。
そして同月、前年のボノの負傷によって出演を断念せざるを得なかったイギリスのグラストンベリー・フェスティバルに、U2はついにヘッドライナーとして初出演を果たした。2011年6月24日、ピラミッド・ステージの初日のトリを務めたU2は、約1時間45分にわたって19曲を演奏。「リアル・シング」で幕を開け、「アウト・オブ・コントロール」で締めくくるステージでは、激しい雨が降り続く悪条件の中、「ビューティフル・デイ」「ミステリアス・ウェイズ」「ワン」「ホエア・ザ・ストリーツ・ハヴ・ノー・ネイム」など、代表曲を次々と披露した。
巨大なU2 360°ツアーを終えたU2は、次なるアルバムのテーマを模索するなかで、自らの原点であるアイルランド・ダブリンでの青春時代を見つめ直していった。2013年末には、その制作過程から生まれた新曲「オーディナリー・ラヴ」を映画『マンデラ 自由への長い道』に提供。ネルソン・マンデラへの敬意を込めて書かれたこの曲は高く評価され、2014年1月、第71回ゴールデン・グローブ賞で「最優秀主題歌賞」を受賞した。
翌2014年2月には、エイズ対策を目的とする(RED)とのチャリティー企画として新曲「インヴィジブル」を発表。スーパーボウル中継で楽曲のCMを放映するとともに、iTunesで24時間限定の無料ダウンロードを実施し、1ダウンロードにつきバンク・オブ・アメリカが1ドル、最大200万ドルを(RED)に寄付する仕組みを採用した。これは、U2がインターネット時代の新しい音楽配信と社会貢献を結びつけた試みだった。

そして同年9月、Appleの新製品発表会に登壇したU2は、13作目のアルバム『ソングス・オブ・イノセンス』を、iTunes Storeの5億人以上のユーザーに無料提供するという前代未聞のリリースを敢行した。Appleは「史上最大のアルバム・リリース」と称し、119か国のユーザーに無料で配信された。 一方、ユーザーが明示的に選択しなくてもライブラリにアルバムが追加される仕組みは大きな反発を招き、Appleは削除専用ツールを用意する事態となった。後にボノ自身も「美しいアイデアだったが、調子に乗ってしまった」と謝罪している。
音楽的には、アルバムはボノの母親への思いや、ダブリンでのパンク・ロックとの出会いなど、U2の少年時代の記憶を掘り起こした極めてパーソナルな作品となった。本作に伴う2015年のイノセンス・アンド・エクスペリエンス・ツアーでは、アリーナ中央を縦断する巨大なシースルーLEDスクリーンを導入し、メンバーがスクリーン内部に入り込んで演奏する革新的なステージ演出を実現した。

その一方で、前作と対をなす『ソングス・オブ・エクスペリエンス』の制作は予定より長期化していた。政治情勢の変化やボノ自身の健康上の危機などを受け、完成していた楽曲を見直し、アルバムの内容を大幅に書き直すことになったためである。その結果、2017年の段階でもアルバムは完成せず、U2は新作の発売に先立って、デビュー30周年を迎えた『ヨシュア・トゥリー』を中心に据えた特別なツアーを行うことを決定した。
2017年5月から始まったヨシュア・トゥリー・ツアー2017は、1987年の名盤『ヨシュア・トゥリー』を全曲演奏する構成を軸とし、北米、ヨーロッパ、南米を巡回。全51公演で約270万人を動員する大規模なスタジアム・ツアーとなった。ステージには約61×14メートル、8K解像度の巨大LEDスクリーンが設置され、30年前のアルバムを最新の映像技術によって再構築するという、過去と現在を結びつけたツアーとなった。

そして2017年12月1日、ようやく14作目の『ソングス・オブ・エクスペリエンス』をリリース。『ソングス・オブ・イノセンス』と対をなす作品として、家族や友人、ファン、そして自分自身に宛てた「手紙」のような歌詞を持つ、より成熟した作品となった。アルバムは全米Billboard 200で初登場1位を獲得し、U2にとって8作目の全米1位アルバムとなった。これによりU2は、1980年代、1990年代、2000年代、2010年代の4つの年代すべてで全米1位を獲得した史上初のグループとなった。
翌2018年のエクスペリエンス・アンド・イノセンス・ツアーでは、前ツアーで確立した映像技術をさらに発展させ、「イノセンス」と「エクスペリエンス」という二つの世界を一つのステージ上で交差させる演出を展開した。U2はキャリア後半に入っても、過去の成功を再現するだけでなく、映像、テクノロジー、ロック・コンサートを融合させながらライブ表現の更新を続けた。
さらに2019年には、ヨシュア・トゥリー・ツアー2019として再び『ヨシュア・トゥリー』を軸にしたスタジアム・ツアーを開催。ニュージーランド、オーストラリア、シンガポール、韓国、フィリピン、インドに加え、日本では12月4日と5日の2日間、さいたまスーパーアリーナで公演を行った。これはU2にとって実に13年ぶりの日本公演となり、ボノはステージ上で「日本との深いつながり」を語り、1983年の初来日以来の日本との縁にも触れた。

2020年以降のU2は、新型コロナウイルスの世界的な流行によってライブ活動が大きく制限される一方、過去の楽曲を見つめ直し、新たな形で再提示する時期へと入っていった。2021年には、映画『SING/シング:ネクストステージ』のために新曲「ユア・ソング・セイヴド・マイ・ライフ」を発表。ボノは同作でアニメーション映画の声優にも初挑戦し、U2としては2019年の「アヒンサー」以来となる新曲となった。
2022年には、ボノが初の本格的な自伝『サレンダー(SURRENDER: 40 Songs, One Story)』を出版。11月に刊行されたこの本は、U2の楽曲40曲をそれぞれ一つの章の題名とし、少年時代のダブリンからU2の結成、世界的な成功、社会活動に至るまでを振り返ったものだった。さらにボノはこの自伝を舞台化した一人芝居「ストーリーズ・オブ・サレンダー」を上演し、音楽と朗読、演劇を組み合わせた新たな表現にも取り組んだ。
同年5月には、ロシアによるウクライナ侵攻を受けて、ボノとエッジがウクライナの首都キーウを訪問。ゼレンスキー大統領からの要請を受け、地下鉄駅を利用した防空シェルターで約40分間の即興ライブを行った。ウクライナのバンド、アンティティラのフロントマンで、当時は前線で衛生兵として活動していたタラス・トポリアも参加し、U2は音楽を通じてウクライナへの連帯を示した。この経験は後の「ユアーズ・エターナリー」にもつながっていく。
そして2023年3月、U2は『ソングス・オブ・サレンダー』を発表した。これは『ソングス・オブ・イノセンス』や『ソングス・オブ・エクスペリエンス』以来の新作アルバムではなく、40年以上にわたるキャリアから40曲を選び、エッジを中心に完全に新たなアレンジで再録音した作品である。原曲のポストパンク的な緊張感を削ぎ落とし、テンポやキー、コードを変更し、時には歌詞まで書き換えることで、より親密で内省的な音楽へと生まれ変わらせた。コロナ禍のロックダウン中に始まったこの実験は、U2が自らの過去を「現在から聴き直す」試みへと発展した。

同年9月には、ラスベガスに開業した巨大な球体型会場「Sphere」で、U2:UV アクトン・ベイビー・ライブ・アット・スフィアを開始した。『アクトン・ベイビー』を軸にしたこの公演は、会場全体を巨大な映像空間として利用する圧倒的な没入型ライブとなり、U2は1980年代から追求してきたロックと映像・テクノロジーの融合を、さらに極端なレベルへと押し進めた。当初の予定を大幅に延長し、最終的には2024年3月2日まで40公演を開催。最終公演では、長年U2のドラマーを務めるラリ-7も会場に姿を見せ、U2は「40」の演奏で40公演の歴史的なランを締めくくった。
2024年には、U2が1990年代のボスニア戦争下のサラエボで音楽を通じて現地の人々と連帯した歴史を描くドキュメンタリー映画『キス・ザ・フューチャー』も公開された。作品は、包囲下のサラエボで活動していた地下音楽シーンと、それを世界に伝えようとしたアメリカ人援助活動家ビル・カーターの働きを軸に、U2が1997年にサラエボで行った歴史的なコンサートへと至る過程を描いた。
同年10月には、U2が社会的・政治的な意識を持つ音楽活動を評価され、ウディ・ガスリー賞(Woody Guthrie Prize)を受賞。ボノとエッジは授賞式で6曲のアコースティック・セットを披露し、「ランニング・トゥ・スタンド・スティル」「マザーズ・オブ・ザ・ディサピアード」「ワン」「プライド」などを演奏した。この受賞は、U2が長年にわたり戦争、貧困、人権、社会的不公正をテーマに音楽と活動を続けてきたことが、ウディ・ガスリーの精神と重ね合わせて評価されたものだった。
そして2026年、U2はついに新たなスタジオ・アルバムに向けて本格的に動き始めた。2月18日には、6曲入りのEP『デイズ・オブ・アッシュ』を突然リリース。現在の政治・社会情勢に対する怒りや不安、ウクライナなどで自由のために戦う人々への連帯を強く打ち出した内容となった。U2はこのEPを、後に予定される新アルバムとは別の「現在への即時的な反応」と位置づけている。
さらに4月には、6曲入りの第2のEP『イースター・リリー』を発表。ボノは、この作品について「自分たちの関係は、この困難な時代に耐えられるのか」といった非常に個人的な問いを楽曲に込めたと説明している。同時に、バンドは新しいスタジオ・アルバムの制作を継続しており、ボノはそれを「ノイジーで、混沌としていて、理不尽なほどカラフルな」作品として、ライブで演奏することを強く意識していると語った。
7月には、新作アルバムからの先行シングルとして「ストリート・オブ・ドリームス」をリリース。ジャックナイフ・リーをプロデューサーに迎えたこの曲は、2017年の『ソングス・オブ・エクスペリエンス』以来、9年ぶりとなるU2の新スタジオ・アルバムに向けた第一歩となった。アルバムは2026年後半のリリースが予定されているが、現時点では正式なタイトルや発売日はまだ発表されていない。
さらに7月24日には、U2とDJ・プロデューサーのマーティン・ギャリックスによるコラボレーション曲「ファイアフライズ」もリリースされた。この曲はU2の4人全員がギャリックスと共演した初の楽曲で、ボノのボーカルとU2のロック・サウンドにギャリックスのエレクトロニックなプロダクションを融合。ベルギーのトゥモローランドでは、ギャリックスのステージにエッジがサプライズ登場し、同曲を初披露した。
U2のメンバーは、結成前からビートルズ、ローリング・ストーンズ、ザ・フー、デヴィッド・ボウイなどに親しんでいた。ボノは1990年、ザ・フーのロックの殿堂入りを紹介するスピーチで、同バンドを自分たちにとって最も重要なロールモデルだったと述べた。ボウイやT・レックスからは衣装や演劇的な舞台表現にも刺激を受け、ボノは後年、Zoo TVツアーの舞台表現がボウイのグラス・スパイダー・ツアーから影響を受けたことも明かしている。また、ピンク・フロイドやヴェルヴェット・アンダーグラウンドからも音楽的な影響を受けた。ボノは、ピンク・フロイドの『アニマルズ』で使われたエコー装置の音に、従来のブルースの音階にとらわれない、未来的で意外性のある音楽の可能性を見いだしたと回想している。さらに、アイルランドのロリー・ギャラガー、シン・リジィ、ホースリップスが国外でも活躍する姿は、U2が世界を目指すうえでの励みとなった。
パンク・ロックとの出会いは演奏技術にとらわれず、自分たちの曲を作る契機となった。U2のメンバーはラモーンズやザ・クラッシュのダブリン公演を観て、簡潔な音楽に情熱や自己表現を込める姿勢を学んだ(詳細は「U2とラモーンズとの関係」および「U2とザ・クラッシュとの関係」を参照)。セックス・ピストルズ、バズコックス、パティ・スミスからも影響を受け、ボノは後年、「プリティ・ヴェイカント」を、それまで存在したものすべてに向けられた、刺激的な拒絶の表明だったと回想している。また、アイルランドのパンク・バンドであるラジエーターズ・フロム・スペース、スティッフ・リトル・フィンガーズ、アンダートーンズなど、同じアイルランドの若者がバンドを組み、独自の曲を発表する姿に励まされた。
テレヴィジョン、スージー・アンド・ザ・バンシーズ、パブリック・イメージ・リミテッド(PIL)、ジョイ・ディヴィジョンなどのポストパンクやニュー・ウェイヴは、U2が独自の音楽性を形成するうえで重要な役割を果たした。エッジは、テレヴィジョンのアルバム『マーキー・ムーン』やトム・ヴァーレインの奏法を高く評価し、ジョン・マッギオークやキース・レヴィンなど、従来のロックとは異なるギター演奏を追求した音楽家から影響を受けた。音楽ジャーナリストのビル・フラナガンは、PILのデビュー・アルバム『パブリック・イメージ』におけるギターとベースのサウンドを、初期U2の「半分の原型」と評した。ジョン・ライドンも、エッジがPILの音楽的な発想を異なる方向へ発展させ、独自の表現にしたと評価している。また同時代のエコー&ザ・バニーメンも影響源であり、ボノは、彼らとの競争がU2の音楽的な水準を高めたと述べている。
電子音楽への関心も初期からあり、クラフトワークや、反復と即興を組み合わせたカンの音楽に親しんでいた。ボノはクラフトワークを「ヨーロッパ最高のソウル・グループ」と評し、エッジは1983年、カンの元メンバーであるホルガー・シューカイや、PILの元ベーシストであるジャー・ウォブルらとEP『スネーク・チャーマー』を制作した。またエッジはブライアン・イーノのソロ作品やアンビエント作品、とりわけ『ビフォア・アンド・アフター・サイエンス』を愛聴しており、『焰』以降のイーノの制作参加に繋がった。
アイルランドの伝統音楽とは当初馴染みがなかったが、エッジは後年、開放弦による持続音の上に旋律を重ねる自身の奏法が、無意識のうちにイリアン・パイプスにも通じていたと回想している。また、ボノの歌唱はヴァン・モリソンと比較されることが多かった。初期のアメリカ公演を通じてアイルランド人としての自覚を深め、『アイリッシュ・オクトーバー』(1981年)の「トゥモロー」ではイリアン・パイプスを取り入れた。さらに、1984年のボブ・ディランとヴァン・モリソンとの交流を通じ、ボノはアイルランドの歌の伝統とアメリカのフォークとのつながりを再認識した。
アメリカの音楽には初期から影響を受けており、ボブ・ディランやニール・ヤング、。ブルース・スプリングスティーンの理想主義的な表現に共鳴していた。『ヨシュア・トゥリー』(1987年)と『魂の叫び』(1988年)の時期には、アメリカ音楽のルーツへの関心をさらに深め、ブルース、フォーク、カントリー、ゴスペルを自分たちの音楽に取り入れ、『魂の叫び』では、B.B.キング、ボブ・ディラン、ハーレムのゴスペル聖歌隊と共演した(詳細は「ルーツ・ミュージックとアメリカ文化」を参照)。ボノは後年、黒人音楽を聴いたことが『アクトン・ベイビー』のリズム感につながり、フォークを学んだことが自身の作詞を発展させたと回想している。
1990年代には、ナイン・インチ・ネイルズやKMFDMなどのインダストリアル系の音楽、パブリック・エナミーのヒップホップ、ストーン・ローゼズやハッピー・マンデーズによるロックとダンス音楽の融合から刺激を受けた。『アクトン・ベイビー』(1991年)、『ZOOROPA』(1993年)、『ポップ』(1997年)では、サンプリング、ループ、電子的な音響処理、ダンス・ビートを段階的に取り入れた。従来の楽曲構造やバンド演奏を残しながら、電子音楽の制作手法によって表現の幅を広げた(詳細は「新しい音楽の模索」を参照)。
U2のサウンドは、各メンバーの演奏と、旋律、リズム、音色、歌詞、楽曲構成の組み合わせによって形成されている。音楽理論家のクリストファー・エンドリナルは、単一の要素ではなく、これらの相互作用にU2の独自性があると分析している。
ジ・エッジのギターは、少ない音数と簡潔なフレーズを基礎に、開放弦、ハーモニクス、ミュート・ストローク、アルペジオを組み合わせる。特にディレイの反復音を演奏に組み込み、原音と反復音によって新たなリズムや旋律を生み出す。これにより、ギターは伴奏やソロだけでなく、楽曲全体の音色や空間的な広がりを形作る役割を担う。アダム・クレイトンのベースは、一定の8分音符を刻みながら旋律的に動き、ギターやヴォーカルとは別の旋律を形成する。エンドリナルはこれを「アクティブ・ベース」と呼び、楽曲に推進力とアンサンブルの厚みを与える特徴としている。
ラリー・マレン・ジュニアのドラムは、安定した拍とシンコペーションを組み合わせ、反復に緊張感と推進力を与える。少年期のマーチング・バンド経験は、「ブラディ・サンデー」の軍楽的なスネアの反復にも表れているとされる。ボノは、低音域の抑制された歌唱から高音域の叫びやファルセットまでを使い分け、楽曲の感情的な高まりを作る。録音では異なる声色の歌唱や語り、加工した声を重ねることもある。希望、信仰、愛、社会的・政治的問題を扱う歌詞は、こうした歌唱表現と結びついている。
楽曲構成では、長いイントロで楽器を順に加えるほか、ヴァースやコーラスの長さや配置を変え、間奏や歌詞のない発声を独立した部分として用いるなど、定型的な形式に変化を加えている。また、反復を保ちながら楽器、音域、音量、音色を変化させ、徐々にクライマックスへ向かう展開も特徴である。「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」では、音の重なりと音量を段階的に増し、頂点を曲の後半に置くことで、歌詞の葛藤を音楽の構成にも反映させている。

U2のライブは、観客との一体感を重視する演奏と、映像、照明、舞台装置を組み合わせた演出を特徴とする。1980年代には比較的簡素な舞台を用い、ボノが観客へ語りかけ、合唱を促すなど、直接的な交流を中心とした公演を行った。1983年のレッドロックス野外劇場公演は映像作品として記録され、ライブ・バンドとしての評価を広めた。
『アクトン・ベイビー』に伴うZoo TVツアー(1992–1993年)では、多数のスクリーンにテレビ映像、文字、広告などを映し、情報が氾濫するメディア社会を舞台上に再現した。ボノも「ザ・フライ」や「マクフィスト」などの人物を演じ、従来の真摯なバンド像に風刺や演劇的な表現を加えた。音楽、映像、演技、メディア批評を組み合わせたこの公演は、ロック・コンサートの表現を拡張したと評価されている。ポップマート・ツアー(1997–1998年)では、巨大なLEDスクリーン、金色のアーチ、レモン型のミラーボールを用い、消費社会を題材とする色彩豊かな演出へ発展させた。
その後は、会場の規模に応じて舞台と観客の関係を変化させた。U2 360°ツアー(2009–2011年)では、巨大な支持構造から映像・音響設備を吊り下げ、ステージの全周に観客を配置する構成を採用した。イノセンス・アンド・エクスペリエンス・ツアー(2015年)では、アリーナを横断する舞台と映像設備を用い、続くエクスペリエンス・アンド・イノセンス・ツアー(2018年)では拡張現実を取り入れるなど、演奏と映像を結び付ける手法を更新した。
2023年に開始したラスベガスのスフィア公演では、観客を包み込む高精細スクリーンと会場専用の音響設備を活用し、『アクトン・ベイビー』の楽曲を中心とした公演を構成した。移動式の舞台装置によるツアーから、会場自体の映像・音響機能を生かす公演へと、演出の可能性を広げた。
U2は、ギターの音作り、楽曲制作、音楽性の刷新、ライブ表現などを通じて、後続の音楽家に影響を与えた。ジ・エッジは、ディレイの反復音を演奏に組み込む手法や、技巧の誇示よりも音色や楽曲全体を重視する姿勢によって、世代やジャンルを越えたギタリストから評価されている。
『ヨシュア・トゥリー』(1987年)は、壮大な楽曲と広がりのあるギター・サウンドを通じて影響を広げ、コンテンポラリー・クリスチャン・ミュージックでも重要な参照点となった。『アクトン・ベイビー』(1991年)では、音楽性とイメージの刷新、ロックとダンス音楽の融合、Zoo TVツアーの映像や演劇性を取り入れたライブ演出が、後続のバンドにとって参照点となった。
その影響は21世紀にも続き、『NME』はコールドプレイ、キーン、スノウ・パトロールなどにU2特有の音響が受け継がれていると論じた。ザ・キラーズのギタリスト、デイヴィッド・キューニングは、『アクトン・ベイビー』からディレイやコードの音の組み合わせを学び、特に「ウルトラ・ヴァイオレット」が自身の演奏に影響したと述べている。また、ミューズのマシュー・ベラミーは、『The 2nd Law』(2012年)の制作に『アクトン・ベイビー』が影響したと述べている。
日本では、Mr.Childrenの桜井和寿が高校時代に田原健一からU2を薦められ、陰影のあるメロディーと力強いロック・サウンドに惹かれたとされる。LUNA SEAのSUGIZOのラジオ番組でも、U2はメンバー全員が大きな影響を受けてきたバンドとして紹介されている。また、GLAYは「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」をカバーし、シングル「VERB」(2008年)に収録した。L'Arc〜en〜Cielについても、在英国日本国大使館の公演紹介では、U2を思わせるスタジアム向けのアンセムが音楽的特徴の一つに挙げられている。
マクギネスは、ザ・フーやポリスのように作曲を担うメンバーへ印税が集中することで生じる金銭上の対立を避けるため、作曲印税を含む収入をメンバー4人で均等に分配するよう勧めた。この原則はレコード印税や商品販売収入にも適用され、マクギネスが20パーセント、メンバーがそれぞれ20パーセントを受け取る仕組みとなった。マクギネスはこれを「4人のバンド、5人の会社」と表現し、経済的な上下関係を防ぎ、バンド内の民主的な関係を維持する要因になったと述べている。その後、マネジメント会社とバンドがそれぞれ経費を負担する体制への移行に伴い、マクギネスの報酬も変更されたが、変更後の割合は公表されていない。
意思決定についても、ビジネス上の事項にはメンバー4人とマクギネスが対等に参加したが、音楽、ステージ、美術、写真、アルバム・ジャケットなどの創作上の決定権は、メンバー4人が持った。

1984年、マクギネスはプリンシプル・マネジメント(Principle Management)を設立し、ニューヨークとダブリンに事務所を通じて、契約交渉、ツアー運営、財務管理、宣伝を支える体制が整えられた。
2008年、U2はライブ・ネイションと12年間の包括契約を結び、ツアー、商品販売、デジタル事業、ブランド関連事業を委ねた。一方、録音と音楽出版の契約はユニバーサル ミュージック グループに残された。この提携にはライブ音楽市場の寡占化を促すとの批判もあり、同社とチケットマスターの合併をめぐって、U2と大手興行会社との関係が問題視された。
2013年、ライブ・ネイションによるプリンシプル・マネジメントなどの買収に伴い、マクギネスは35年間務めた常勤マネージャーを退き、ガイ・オセアリーが後任となった。
2022年には、フル・ストップ・マネジメント(Full Stop Management)への移行が報じられた。マネジメントの変更後も、ツアーを担当するライブ・ネイションとの協力関係は維持された。
U2は1979年、CBSアイルランドとアイルランド限定の契約を結んだ後、1980年3月にアイランド・レコードと、アイルランドを除く全世界を対象に4年間でアルバム4枚を制作する契約を結んだ。米国での発売はワーナー・ブラザース・レコードが担った。バンドは、作品の選択、発売時期、パッケージ、ツアーの実施方法についての自主決定権が認められたが、これは当時の音楽業界では異例だった。
1984年の契約更新では、高額な契約金よりも既存の楽曲を自ら所有することを優先し、アルバム1枚につき200万ドルの前払金と印税率の引き上げに加え、従来の音楽出版契約を解消して楽曲の著作権をバンド側へ返還することで合意した。ジョブリングは、ビートルズも実現できなかったこの権利回復を、レコード会社や音楽出版社に有利な力関係をアーティスト側へ転換した交渉と評価している。ただし、録音物の原盤権は引き続きアイランドが保有していた。
1986年、アイランドは映画事業への投資で資金難に陥り、U2への印税を支払えなくなった。U2は支払いを猶予し、追加融資と『ヨシュア・トゥリー』の納品によって同社を支えた。1986年から1987年の交渉では、契約終了後に原盤の所有権をバンドへ戻す条件を確保した。また、未払い印税と引き換えにアイランド株を取得し、1989年のポリグラムへの売却時には、ジョブリングによれば推定2500万ポンドを得た。
1993年にはアイランドとアルバム6枚の新契約を結び、『ロサンゼルス・タイムズ』は契約額を総額6000万ドル超と報じた。バンドは音声に付随する映像の販売権を保持し、将来の電子配信については市場の成立後に利益分配を再交渉する条件を設けた。これは、CD導入時に「新技術」を理由として印税が減額されたような事態を避けるためだった。
1998年には財務再建の一環として、アイランドとベスト・アルバム3作の発売契約を結んだ。一方、ジョブリングは、2006年の『ザ・ベスト・オブU2 18シングルズ』がわずか8年間で3作目のベスト盤だったことを指摘し、相次ぐ発売を収益確保のための企画として批判的に捉えている。
2006年には英国での所属レーベルを同じユニバーサル ミュージック グループ傘下のマーキュリー・レコードへ移し、2013年末にはアイランドへの復帰が報じられた。
U2は、演奏権使用料の分配の遅れや管理費を問題視し、1994年に英国演奏協会(PRS)を提訴して、自らの公演の演奏権を直接管理する権利を求めた。英国の独占・合併委員会による調査を経て、PRSは1997年に会員による自主管理を認める改善措置を受け入れた。一方、アイルランドでは、1995年にPRSから独立したアイルランド音楽著作権協会(IMRO)が国内外の使用料を徴収・分配し、U2もその分配を受けている。
U2の公式ファンクラブは1981年に設けられ、初期にはラリー・マレン・ジュニアの姉セシリアが運営を担当した。会報『U2 Magazine』『U2 World Service』を経て、1986年から2002年まで『Propaganda』を発行し、購読者限定のリミックス・アルバム『Melon: Remixes for Propaganda』なども配布した]。その後は公式サイトU2.comの有料会員制度へ移行し、チケットの先行購入権、会員限定コンテンツ、限定音源や書籍などの年間特典を提供している。運営にはアダム・クレイトンの弟セバスチャン・クレイトンもマネージング・ディレクターとして関与している。
1984年、U2は若手アイルランド人アーティストを支援するため、マザー・レコードを設立した。新人の最初のシングルを制作・発売し、その後は他社と自由に契約できる方針を採った。流通はアイランド・レコードが担当し、ホットハウス・フラワーズなどの作品を発売した。しかし、他社への移籍を認める方針は宣伝投資を難しくし、U2による作品承認も発売の遅延を招いた。また、制作費を回収するための出版権取得をめぐり、新人支援の理念との対立も生じた。レーベルは2000年に活動を終了した。
姉妹レーベルのソン・レコードでは、サッカーアイルランド共和国代表の応援歌「プット・エム・アンダー・プレッシャー」やビル・ウィーランの「リバーダンス」などを発売した。また、1998年にはダンス・ミュージックを扱うキッチン・レコーディングスを設立した。両レーベルの運営法人は、それぞれ1999年と2004年に解散した。
U2は活動初期から、楽曲の商品広告への使用やツアーへの企業協賛に慎重だった。しかし、合法的な有料音楽配信を普及させる企業との提携は、一般商品の広告とは異なるものと位置づけ、2004年にAppleとの提携へ踏み切った。
Appleとの提携では、「ヴァーティゴ」を使用したiPodのテレビ広告への出演、U2仕様のiPod、iTunes Store限定のデジタル・ボックス・セット『The Complete U2』を組み合わせ、製品と音楽作品を共同で宣伝した。U2は広告出演料を受け取らず、Appleの世界的な宣伝活動を新曲とアルバムの販売促進に利用した。
2009年にはリサーチ・イン・モーションと提携し、同社のBlackBerryがU2 360°ツアーのスポンサーとなった。同年には、楽曲、映像、解説、ツアー情報などを組み合わせたBlackBerry向けアプリ「U2 Mobile Album」も公開した。
2014年にはAppleと共同で『ソングス・オブ・イノセンス』を5億以上のiTunesアカウントへ無償提供した。利用者には無料だったが、AppleはU2側へ対価を支払った。一方、希望しない利用者のライブラリにも自動追加されたことが批判を招き、Appleは削除用ページを設置し、ボノも謝罪した。

1992年、ボノとジ・エッジは、共同事業者とともにダブリンのクラレンス・ホテルを取得し、高級ブティックホテルへ改装した。1994年には地下にナイトクラブ「ザ・キッチン」を開業したが、2002年に営業を終了した。しかし、赤字が続き、ノーマン・フォスターによる拡張計画も、歴史的建造物の保存をめぐる論争と2008年の金融危機によって延期された。2019年に営業権と賃借権、2023年に建物を売却し、ホテル所有から撤退した。
2002年、U2はハノーヴァー・キーの録音スタジオ用地の強制収用に伴い、代替スタジオを備えた高層建築「U2タワー」の計画を発表した。開発事業者としても参加し、2007年には高さ約130メートルの住宅棟の最上部に専用スタジオを設ける案が示された。しかし、2008年の金融危機によって計画は棚上げされ、実現しなかった。
アイルランドでは1969年、文化的・芸術的価値を認められた作品から生じる所得を所得税の対象外とする芸術家免税制度が導入された。これに伴い、J・P・ドンレヴィーや フレデリック・フォーサイスなどの著名人がアイルランドへ移住し、その後も、デフ・レパード、リサ・スタンスフィールド、エルヴィス・コステロらが続いた。U2のメンバーも作曲印税の免税を受けたが、ツアーや商品販売の収益は対象外だった。高収入の芸術家にも恩恵が及ぶことへの批判を受け、政府は2006年から免税対象所得に年間25万ユーロの上限を設けた。
同年、U2は楽曲の出版権と印税収入を管理する部門をオランダへ移した。同国は国際的な著作権使用料の管理に適した税制と租税条約網を持ち、ローリング・ストーンズも権利管理事業を置いていた。移転は事業の一部に限られ、メンバーは引き続きアイルランドに居住し、同国での納税義務を負っていた。
しかし、この移転には、ボノが各国政府に貧困対策や開発援助の拡大を求めながら、U2は税負担を軽減しているとの批判が起きた。アイルランド労働党のジョーン・バートンは、一般の納税者と同様に公平な税負担を求めた。また、ボノが政府の援助支出を批判すると、国務相のコナー・レニハンは、ボノが税金をすべて国内で納めれば、GDPの0.7%を援助に充てる目標の達成に大きく近づくと応酬した。2009年にはダブリンで合法的な租税回避が公共財源を奪うとの抗議が行われ。2011年のグラストンベリー・フェスティバルでも、緊縮財政による公共サービス削減とU2の税務方針を結び付けた抗議が起きた[。
これに対し、ボノは、外国企業を誘致する税制がアイルランドの経済成長を支えてきたことを挙げ、U2による国際的な金融制度の利用も偽善には当たらないと反論した。具体的には、インテル、マイクロソフト、デルなどの米国企業による投資が経済復興を支え、自分たちもグーグルやFacebookに米国外の拠点をダブリンへの拠点設置を働きかけたと説明した。ジ・エッジも、抗議者の動機には理解を示しつつ、U2が税金をほとんど支払っていないとの認識を否定し、各国の税法を順守していると主張した。
ほか
| 年 | 日 | 場所 | |
|---|---|---|---|
| JAPAN TOUR '83 | |||
| 1983年 | 11月22日 | フェスティバルホール | |
| 11月23日 | 瀬戸市文化センター(愛知県) | ||
| 11月26日 | 渋谷公会堂 | ||
| 11月27日 | |||
| 11月29日 | 東京厚生年金会館 | ||
| 11月30日 | 中野サンプラザ | ||
| LOVE COMES TO TOWN TOUR WITH B.B. KING | |||
| 1989年 | 11月23日 | 横浜アリーナ | |
| 11月25日 | 東京ドーム | ||
| 11月26日 | |||
| 11月28日 | 大阪城ホール | ||
| 11月29日 | |||
| 12月1日 | |||
| ZOO TV TOUR JAPAN | |||
| 1993年 | 12月9日 | 東京ドーム | |
| 12月10日 | |||
| POPMART TOUR | |||
| 1998年 | 3月5日 | 東京ドーム | |
| 3月11日 | 大阪ドーム | ||
| VERTIGO//2006 JAPAN | |||
| 2006年 | (アーティスト側の都合により、11月に延期) | ||
| 11月29日(振替公演) | さいたまスーパーアリーナ | ||
| 11月30日(振替公演) | |||
| 12月4日(振替公演) | |||
| THE JOSHUA TREE TOUR 2019 | |||
| 2019年 | 12月4日 | さいたまスーパーアリーナ | |
| 12月5日 | |||