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| 種類 | 株式会社 |
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| 機関設計 | 指名委員会等設置会社 |
| 市場情報 | OTC Pink NSANY |
| 略称 | 日産 |
| 本社所在地 |
〒220-8686 神奈川県横浜市西区高島一丁目1番1号(日産自動車グローバル本社) 北緯35度27分48.54秒 東経139度37分34.12秒 / 北緯35.4634833度 東経139.6261444度座標: 北緯35度27分48.54秒 東経139度37分34.12秒 / 北緯35.4634833度 東経139.6261444度 |
| 本店所在地 |
〒220-8623 神奈川県横浜市神奈川区宝町2番地(横浜工場) 北緯35度28分50.21秒 東経139度39分50.07秒 / 北緯35.4806139度 東経139.6639083度 |
| 設立 |
1933年(昭和8年)12月26日 (自動車製造株式会社) |
| 業種 | 輸送用機器 |
| 法人番号 | 9020001031109 |
| 事業内容 | 自動車の製造、販売および関連事業 |
| 代表者 | イヴァン・エスピノーサ(代表執行役社長兼CEO) |
| 資本金 |
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| 発行済株式総数 |
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| 売上高 |
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| 経常利益 |
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| 純利益 |
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| 純資産 |
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| 総資産 |
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| 従業員数 |
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| 決算期 | 3月31日 |
| 会計監査人 | EY新日本有限責任監査法人 |
| 主要株主 |
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| 主要子会社 |
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| 関係する人物 | |
| 外部リンク | https://www.nissan.co.jp/ |
日産自動車株式会社(にっさんじどうしゃ、英: Nissan Motor Co., Ltd.)は、日本の神奈川県横浜市に本社を置く多国籍の自動車メーカーである。インフィニティブランドでも自動車を販売しており、かつてはダットサンブランドも展開していた。また、社内チューニング部門としてニスモおよびオーテックブランドの車両・部品も手がけている。日産の起源は20世紀初頭にまでさかのぼり、「日産財閥」または日産コンツェルンとして知られる企業グループに端を発する。
1999年以降、日産はルノー・日産・三菱アライアンス(2016年に三菱自動車工業が参加)に属しており、日本の日産および三菱自動車、フランスのルノーによる提携関係を築いている。2023年11月年現在[update]時点で、ルノーは日産の議決権付き株式を15%、日産もルノーの同率株式を15%保有している。日産は2016年10月以降、三菱自動車の議決権付き株式34%を保有していたが、2024年11月にはその持株比率を34%から24%に引き下げた。
2017年、日産はトヨタ、フォルクスワーゲン・グループ、現代自動車グループ、ゼネラルモーターズ、フォードに次ぐ世界第6位の自動車メーカーであった。2022年の売上高は780億ドルで、世界第9位の自動車メーカーであった。
日産は2024年12月にホンダとの合併計画を発表し、2026年の合併を目指していた。しかし2025年2月、日産は合併計画の中止を発表した。これは、ホンダの子会社ではなく対等なパートナーとして提携することを望むという日産の意向によるものであった(後節参照)。2024年11月には、日産の幹部が「日産はあと12か月の命しかない」と発言したことが報じられていた。2025年現在[update]、日産は財務的困難に直面しており、経営再建計画を実施している(後節参照)。
2025年2月現在の筆頭株主はルノー、日産は三菱自動車工業の筆頭株主である。前述のとおり、ルノー・日産・三菱自動車の3社でルノー・日産・三菱アライアンスを形成している。春光グループの春光会、芙蓉グループの芙蓉懇談会の会員企業である。日経平均株価およびTOPIX Mid400の構成銘柄の1つ。
本社は横浜市西区高島一丁目1番1号にある(日産グローバル本社)。2009年8月、長らく本社のあった東京都中央区銀座(東銀座)から移転した。
連結子会社に、委託製造会社である日産車体、日産自動車九州、愛知機械工業、ジャトコ、日産工機など多数擁する、2025年現在で 在外(国外)連結子会社が計138社あり、連結子会社は合計233社に及ぶ。
従業員数は2023年9月30日現在、単独で2万3525人、連結子会社も含めると13万1719人に及ぶ。
1990年代後半から日産が経営危機に陥ったことを契機に、フランスのルノーと資本提携を結び、ルノーは同社の筆頭株主としてカルロス・ゴーンを送り込んでリストラなどの経営再建を図った。そのため、ルノーが日産の発行済み株式の約44%を所有して日産に対し強い議決権を持つに至り、日産に役員を送り込むなどしており、両社はさまざまな経営資源を融通し合うことで競争力を高めるアライアンス関係にあった。その後、2023年以降はルノーから日産への出資比率は15%に引き下げられ、対等な資本関係となった(後節参照)。
主に北アメリカなど国外では高級車ブランドのインフィニティ(Infiniti)を展開している。 海外では特にSUVと小型車、ピックアップトラックに強みを持っており、日産の2021年のグローバル販売台数は382万台、グローバル生産台数は338万台である。
日本の自動車メーカーではいち早く電動化技術に対応し、2022年7月以降、日本国内向け二次電池式電気自動車は日産リーフをはじめ、日産アリア、日産サクラの3車種に上る。また、日産独自のシリーズハイブリッドシステムである、e-POWERを様々な車種に搭載している。
また日産は、ルノーの車種を「日産」ブランドで販売している(ルノー・ジャポンは日産グローバル本社の社屋内に籍を置く)。
2025年1月現在、国内自動車メーカーでは首位のトヨタ自動車、2位の本田技研工業に次ぐ3位である。
2010年の世界販売台数は400万台の大台を超えたが、日本の自動車メーカーとしてはトヨタ自動車に次いで第2位だった。順位がピークだったのは2017年で、同年の上半期には、ルノー、三菱自動車と合わせた世界販売台数でグループ第1位を獲得した。だが、近年の国内の登録車台数は、1位のトヨタ自動車、2位の本田技研工業に次ぐ第3位となっている。
女性活躍推進に優れている企業を選定・発表している経済産業省と東京証券取引所との共同企画である「なでしこ銘柄」に第一回(2012年度)から連続して選定されている(2017年度まで)。
1905年(明治38年)に、鮎川義介が最先端技術であった鋳物技術の習得へ渡米した際に、米国工業の頂点に自動車工業があると見たことに端を発する。
義介の帰国後、大叔父の井上馨の斡旋により、親戚の久原家、貝島家、藤田家、三井家の出資を受け、1910年(明治43年)に福岡県戸畑市(現在の北九州市戸畑区)において戸畑鋳物株式会社(現在のプロテリアル、旧日立金属)を創設し、義介が専務技師長となり鋼管製造の傍ら、1924年(大正13年)には農業用・工業用・船舶用石油発動機製造販売へ事業を発展させた。戸畑鋳物東京製作所(深川)を新設し1929年(昭和4年)に自動車用マレブル鋳鉄製造を始める一方で、久原家が興した久原鉱業の社長に就任して同社を改組し、1928年(昭和3年)に日本産業株式会社(略称、日産)とした。のちの日本産業コンツェルンの基となる。
戸畑鋳物株式会社の傘下として、1931年(昭和6年)にダット自動車製造株式会社を収めるものの、1933年(昭和8年)にダット自動車製造株式会社が、株式会社石川島自動車製作所と合併し自動車工業株式会社(現在のいすゞ自動車)を設立するに際して、戸畑鋳物株式会社がダットサンの商標と製造権、および大阪工場を無償で譲り受け、日本産業株式会社の出資を加えて同年12月に、改めてダットサンの製造のために神奈川県横浜市神奈川区に自動車製造株式会社を設立した。同社を翌1934年(昭和9年)に日産自動車株式会社と改称したのが興りである。
1936年(昭和11年)9月14日、自動車製造事業法に基づき豊田自動織機製作所とともに政府から自動車製造許可を受けた。
なお、先の自動車工業株式会社は、橋本増治郎が1911年(明治44年)に設立した快進社がルーツであり、1914年(大正3年)に誕生したダット号が初の自動車の開発・製造であった。しかし、ダットサンの知財と大阪工場を得たのは日産であった。
創業期より先進技術の吸収に積極的で、日産自動車は日本フォードや日本ゼネラル・モータースなみの大型乗用車を製造するため、1936年にアメリカのグラハム・ペイジから設計図や設備などを購入し、また戦時中の技術的空白を埋めるため、1952年にイギリスのオースチンと技術提携している。
1958年には、当時世界で最も過酷なオーストラリア大陸一周ラリーに自社開発のダットサン・210型で出場してクラス優勝を飾り、1960年には業界初のデミング賞を受賞するなど、創業時より技術力の高さから「旗は日の丸、車はダットサン」、「技術の日産」として親しまれ、故障が少なく高速走行を得意としたことで医者の往診に愛用されたことから「医者のダットサン」としても親しまれた。
橋本増治郎は、1911年7月1日に東京の麻布広尾で「快進社自働車工場」を設立した。1914年、同社は最初の自動車であるDATを製造した。
この新しい自動車の車名は、会社の出資者たちの姓の頭文字を取った頭字語であった。
1918年に社名を「快進社自動車株式会社」に改称し、1925年には「ダット自動車株式会社」に再度改称した。ダット自動車はダットおよびダットサンの乗用車に加え、トラックも製造していた。当時は乗用車市場がほとんど存在せず、また1923年の関東大震災による復興需要もあったため、生産の大半はトラックであった。1918年からは軍用市場向けの最初のダットトラックが生産された。同時期に「実用自動車製造株式会社」が設立され、アメリカから輸入した部品と資材を使用して小型トラックを製造していた[より良い情報源が必要]。
第一次世界大戦中の日本期間中は商業活動が停止され、同社は戦争支援に従事した。
1926年、東京のダット自動車は大阪を拠点とする「実用自動車製造株式会社」(1919年にクボタの子会社として設立)と合併し、大阪に本社を置く「ダット自動車製造株式会社」となった(1932年まで)。1923年から1925年にかけて、同社は「ライラ」ブランドで小型車とトラックを製造した。1929年、ダット自動車製造株式会社はIHIの分離された製造部門と合併し、自動車工業株式会社となった。[要説明]
1931年、ダットは新型の小型車のダットサン・タイプ11を発表した。「ダットソン」という名称は「ダットの息子」を意味していたが、1933年に日産コンツェルン(財閥)がダット自動車を傘下に収めた後、「son」が日本語の「損」と同音であることから語尾を「sun」に変更し、「ダットサン」という名称となった。
1933年、社名は日本語化され「自動車製造株式会社」となり、本社を横浜へ移転した。
1928年、鮎川義介は、持株会社である「日本産業」を設立した。「日産」という名称は1930年代に東京証券取引所上で日本産業を略した呼称として使われ始めたものである。この会社は後に日産コンツェルンを形成した財閥であり、戸畑鋳物や日立を含んでいた。当時、日産は鋳造や自動車部品製造を支配していたが、鮎川が自動車製造に本格的に参入したのは1933年からであった。
この財閥は最終的に74社にまで拡大し、第二次世界大戦中には日本で第4位の規模を誇る財閥となった。一方、1931年にはダット自動車製造が戸畑鋳物と提携し、1933年に戸畑鋳物に吸収合併された。戸畑鋳物が日産系列企業であったため、これが日産の自動車製造の始まりとなった。
1934年、鮎川は戸畑鋳物の拡大した自動車部品部門を分離し、新たな子会社として「日産自動車株式会社」を設立した。しかし、新会社の株主たちは日本における自動車産業の将来性に懐疑的であったため、鮎川は1934年6月、日本産業の資金を用いて戸畑鋳物の株主をすべて買収した。これにより、日産自動車は事実上日本産業と日立の所有下に入った。
1935年、横浜工場の建設が完了した。その年、44台のダットサンがアジア、中南米へ輸出された。また、同年には流れ作業方式による最初の自動車が横浜工場のラインから完成した。日産はその後、大日本帝国陸軍向けにトラック、航空機、エンジンを製造した。1937年11月、日産は本社を新京(満州国の首都)へ移転し、12月には社名を満州重工業開発に変更した。
1940年には、MHID傘下企業の1つである同和自動車工業に最初のノックダウンキットが出荷され、組み立てが行われた。1944年、本社を日本橋に移転し、社名を日産重工業株式会社に変更した。この社名は1949年まで使用された。

ダット自動車はクボタの主任設計者であったアメリカ人技師のウィリアム・R・ゴーハムを引き継いでいた。これに加え、鮎川が1908年にデトロイトを訪れたことが、日産の将来に大きな影響を与えた。
鮎川は常にアメリカの最先端自動車技術を導入する意図を持っていたが、その計画を実際に実行したのはゴーハムであった。日産の機械設備や生産工程の多くは当初アメリカから導入されたものであった。1937年に日産が「Nissan」ブランドで大型車の組立を開始した際、多くの設計図や工場設備はグラハム・ペイジ社から提供された。また、日産はグラハムとのライセンス契約の下で乗用車、バス、トラックを製造していた。
1986年に出版されたデイヴィッド・ハルバースタムの著書『The Reckoning』の中で、ハルバースタムは「技術的な観点から見れば、ゴーハムこそが日産自動車の創設者である」と述べ、「彼に会ったことのない若い日産の技術者たちでさえ、彼を神のように語り、彼の社内での活動や多くの発明を細かく説明できた」と記している。

1934年から、ダットサンはライセンスのもとでオースチン・セブンの生産を開始した。この取り組みはオースチンによるセブンの海外ライセンス契約の中で最も成功した例となり、同時にダットサンの国際的成功の始まりを示した。
1952年、日産はオースチンと正式な契約を締結し、輸入した半完成状態の部品セットから2,000台のオースチン車を日本で組み立て、「オースチン」商標の下で販売することとした。契約には、3年以内にすべての部品を国内生産化するという条件があり、日産はこれを達成した。日産は7年間にわたってオースチン車を製造・販売した。またこの契約によって、日産はオースチンの特許を利用する権利を得た。これらの特許は日産がダットサン車向けに独自エンジンを開発する上で活用された。1953年にはイギリス製のオースチンを組み立て・販売していたが、1955年にはオースチンA50が市場に登場した。この車は日産によって完全に国内製造されたもので、新開発の1,489ccエンジンを搭載していた。1953年から1959年の間に、日産は合計20,855台のオースチン車を生産した。
日産はオースチン特許を基に、自社の近代的なエンジン設計をさらに発展させた。これはオースチンのAファミリーやBファミリーの設計を超えるものだった。その集大成が1966年に登場した日産A型エンジンである。翌1967年には高度な4気筒OHC(オーバーヘッドカムシャフト)型の日産L型エンジンが発表された。このエンジンはメルセデス・ベンツのOHC設計に似ていたが、日産が独自に開発した全く新しい設計であった。このエンジンを搭載した新型ダットサン510は、世界のセダン市場で日産に高い評価をもたらした。さらに1969年にはダットサン・240Zスポーツカーが登場した。これは日産L型エンジンを6気筒化したもので、日産工機(旧東急くろがね工業の一部)が1964年に開発を開始したものだった。240Zは瞬く間にセンセーションを巻き起こし、日産を世界的な自動車メーカーの地位に押し上げた。
朝鮮戦争中、日産はアメリカ陸軍向けの主要な車両供給メーカーであった。戦争終結後、日本国内では強い反共感情が広がっていた。当時、日産の労働組合は強力で戦闘的だった。日産は経営難に陥り、賃金交渉では強硬な姿勢を取った。労働者はロックアウトされ、数百人が解雇された。日本政府と連合国占領軍は組合幹部の一部を逮捕した。組合はストライキ資金を失い、闘争に敗北した。新しい労働組合が結成され、その指導者の一人が塩路一郎であった。塩路はアメリカ政府の奨学金でハーバード大学に留学した経歴を持つ人物で、賃金削減によって2,000人の雇用を守るという方針を提案した。この提案は新しい労働協約に盛り込まれ、生産性の向上が最優先事項とされた。1955年から1973年までの間に、日産は「組合の支援と提案による技術革新を基盤として急速に拡大」した。塩路は後に全日本自動車産業労働組合総連合会の会長となり、「日本の労働運動右派の最も影響力のある人物」となった。

1966年、日産は経営難に陥ったプリンス自動車工業を通産省主導により合併し、スカイラインやグロリアなど、より高級志向の車種をラインアップに加え、中島飛行機・立川飛行機の流れを汲む人材を戦列に加えた。またプリンス自動車工業の宇宙開発事業を承継し宇宙航空事業部を発足させた。1968年には富士重工業とも資本業務提携を行っている。
のちにプリンスの名称は廃止され、以後のスカイラインおよびグロリアには日産の名が冠された。「プリンス」の名称は日本国内の販売網「日産プリンス店」で1999年まで使用されたが、その後は「日産レッドステージ」に改称された。そして、レッドステージ自体も2007年には姿を消した。スカイラインは現在もインフィニティのGシリーズとして存続している。

1964年東京オリンピックによる新たな投資機会を活かすため、1963年に東京・銀座の三愛ドリームセンター2階および3階に「銀座ギャラリー」を開設。また、1968年には本社を神奈川県横浜から東京都中央区銀座六丁目に移転し、「日産本社ギャラリー」を開設した。
前者のギャラリーでは来場者の関心を引くため、同社は美しい女性ショールームアテンダントを採用し、「日産ミス・フェアレディ」の第一期生として5名を選出するコンテストを開催した。この企画は1930年代に自動車を紹介していた「ダットサン・デモンストレーター」を手本とし、同時代の人気ブロードウェイ作品『マイ・フェア・レディ』にちなみ「フェアレディ」の名を冠した。ミス・フェアレディたちはダットサン・フェアレディ1500の広報担当として活躍した。


1950年代、日産は海外市場への進出を決定した。日産の経営陣は、小型車ブランドであるダットサンがオーストラリアや世界最大の自動車市場であるアメリカ合衆国などにおいて、未開拓の需要を満たすことができると認識した。1958年、日産はロサンゼルス・オートショーでダットサン・ブルーバードを初披露した。日産は1957年に中東市場へも参入し、サウジアラビアで初めて車を販売した。1960年にはカリフォルニア州ガーデナにアメリカの子会社の日産モーター・コーポレーションUSAを設立し、片山豊が責任者に就任した。
日産はダットサン・フェアレディロードスター、レースで活躍した411系、ダットサン・510、ダットサン・240Zなど、スポーティな車種に最新技術とイタリア調デザインを取り入れたセダンシリーズを改良し続けた。1970年までに日産は世界最大級の自動車輸出メーカーの1つとなった。同年、ギリシャの販売代理店のテオカラキスとの協力により、組立工場「テオカー」が設立された。
1960年代初頭にはメキシコ法人のニッサン・メヒカーナが設立され、1966年にクエルナバカ工場が操業を開始し、北米初の生産拠点となった。1973年のオイルショック以降、特に利益性の高いアメリカの市場を中心に、世界的に高品質な小型エコカーへの需要が高まった。日産はこの需要に応えるため、新型日産・サニーの生産を含め、メキシコ、オーストラリア、ニュージーランド、台湾、アメリカ合衆国、南アフリカに新工場を建設した。1964年にアメリカ政府が導入したチキンタックスに対抗し、1980年に日産モーター・マニュファクチャリングUSAを設立した。
1973年の米国環境庁(EPA)の燃費テストでサニーは第1位となり、この間、燃費向上のための高張力鋼板およびボディの防錆性の向上のための亜鉛ニッケルメッキ合金を用いた防錆鋼板(同社では「デュラスチール」と命名)、エンジンの燃焼制御技術の開発からCAD/CAM、産業用ロボットの開発まで、「技術の日産」として先端技術分野の先駆的役割を果たしてきた。しかしその反面、日本では戦時中に自動車の配給を独占していた「日本自動車配給株式会社」が戦後に解散となった際、日本国内各地の地元の有力ディーラーの大半がトヨタ自動車販売(現・トヨタ自動車)に組織化されたために販売力でハンデがついてしまい、技術面では「技術の日産」と評されるほどに優位を保っていた反面、販売面ではマーケティングと販売戦略で業界トップとなったトヨタには及ばず、1980年代以降は更にトヨタとの差は広がった。
1980年代初頭、日産、トヨタ、ホンダはアメリカ国内で生産工場を設立し始めた。日産の初のアメリカの組立工場である日産スマーナ組立工場は1980年に着工し、当初はダットサン・720や日産・ハードボディトラックなどのトラックを生産していたが、後に日産・アルティマ、日産・マキシマ、ローグ、パスファインダー、インフィニティQX60、電気自動車の日産・リーフなど、乗用車とSUVの生産にも拡大した。これは、1981年にアメリカ政府が導入した自主輸出規制に対応したものであった。その後、テネシー州デカードにエンジン工場が開設され、さらにミシシッピ州カントンには2番目の組立工場が設立された。

1980年代初頭には、日産ダットサンはすでにヨーロッパで最も売れている日本ブランドとなっていた。一方でギリシャ工場は閉鎖され、1980年には当時国営のアルファロメオとの合弁事業が開始され、日産・チェリーおよびアルファブランドで展開されたアルファロメオ・アルナのイタリア国内生産が実現した。
2001年にはブラジルに製造拠点を設立。2005年にはインドに子会社の日産モーター・インディア・プライベート・リミテッドを通じて進出した。ルノーとの提携により、日産は約9億9000万ドルを投資してチェンナイに工場を設立し、インド市場向けとヨーロッパへの小型車輸出拠点を兼ねた。
2009年、日産は東風汽車との合弁により中国で約52万台の新車を販売した。生産能力拡大のため、東風日産は広州の生産拠点を拡張し、それは日産における世界最大級の工場となった。また、北米本社であるNissan Americas Inc.をロサンゼルスからテネシー州フランクリン(ナッシュビル地域)へ移転・拡張した。
近年、日産はアメリカ国内でエンタープライズ・レンタカーやハーツなどのレンタカー会社への販売依存を強めている。2016年、日産のレンタカー向け販売は37%増加し、2017年にはデトロイト・スリー(アメリカの三大自動車メーカー)がレンタカー会社への低収益販売を縮小する中、主要自動車メーカーの中で唯一、販売を増加させた企業となった。
プロジェクト901は1980年代半ばに始まった取り組みで、1990年までに技術的に先進的な車を提供するという日産の意志を示すものであった。「901活動」「901運動」「P901アクティビティ」「901アクティビティ」「901プラン」「901オペレーション」などの名称でも知られており、このプロジェクトは当時の日産の社長である久米豊(1985年-1992年)の指揮のもとで開始された。
プロジェクト901は1985年初頭、日本の自動車メーカー全体で新しく高度な技術を備えた車への需要が高まっていたことを受けて始まった。当時約25%あった日産の市場シェアは20%を下回るまでに低下しており、同社はその弱点を克服する必要があった。「1990年代に世界一の技術を目指す」というスローガンのもと、この計画はエンジン、シャシやサスペンションの設計、走行実験におけるハンドリング評価基準の大幅な底上げ、デザイン、品質といったすべての車種の技術開発に焦点を当て、1990年までに投入される新型車の改良を目指した。これにより製品の品質向上はもとより、日産のブランドイメージを大きく向上させた。
1980年代後半のバブル経済(バブル景気)時代には、パイクカーの第一弾として限定1万台で予約を募ったBe-1は発表から2か月で完売となり、オーナードライバーズカーとしては当時日本唯一の3ナンバー専用高級車であったY31型シーマや、美しさと走りの良さでデートカーとして不動の地位を築いたS13型シルビアなどの大ヒットに牽引され、「Be-1効果」や「シーマ現象」なる流行語まで生まれるほど日産への注目度は高まった。この計画のもとで開発されたR32型スカイラインやZ32型フェアレディZなどのスポーツ系車種のみならず、U12型ブルーバードやP10型プリメーラなど、収益を支える量販車種も押し並べて高い評価を得るなど、日本の自動車産業界において存在感を示していた。
しかし、1991年のバブル経済崩壊以降に開発・発売されたU13型ブルーバード(特にEEX/SSS系の4ドアセダン)やC34型ローレル、B14型サニー/B14型ルキノクーペ、S14型シルビア、R33型スカイライン(同R33型GT-Rは除く)、R11型プレセア、N30型ルネッサなどの車種は軒並み販売不振に終わり、低迷の兆しは見え始めていた。
バブル崩壊の影響で、高価格で収益性の高いシーマやセドリック、グロリアなどの高級車の販売が減少した上に、もともと商品企画(いわゆるマーケティング)や販売戦略が不得意な上にヒット車種を数多く出せないこと、さらに過激な組合運動に足を引っ張られ、抜本的なコスト削減もままならないまま財務内容はますます悪化の一途を辿る。コスト上昇を招いた走行実験部やデザイン部を中心としたリストラを断行してもなお1998年には約2兆円もの有利子負債を抱え、経営危機に陥ってしまう。A32型セフィーロ、E50型エルグランド、K11型マーチ、C23型バネットセレナ(のちのセレナ)などはコンスタントに販売台数を伸ばして日産を支えていたが、軽自動車市場の拡大を背景に、軽自動車を含めた日本国内シェアで、ホンダの後塵を拝するようになり、国内シェア第3位に転落した。
1999年、継続的な販売の不振により2兆円あまりの有利子債務を抱え、倒産寸前の深刻な財務・経営危機に直面していた日産は、フランスの自動車メーカーであるルノーと資本提携(ルノー=日産アライアンス)を結んだ。同社の傘下に入り更生を図ることとなった。提携内容は、ルノーが6430億円(約50億ユーロ/330億フランスフラン/54億USドル)を出資し、日産の株式36.8%、および日産ディーゼル工業の株式22.5%を取得するとともに、日産の欧州における販売金融会社も取得するというものだった。ルノーとの提携当初は両社の文化的土壌の違いやラインナップの重複、日産の負債の大きさや労働組合の抵抗などを理由に、同業他社やアナリストをはじめとする多くの専門家がその行き先を危惧した。同年中に日本人社長の塙義一は解任され、ルノーの取締役会長兼CEO(PDG)であったルイ・シュヴァイツァーの指示によりルノーの幹部(副社長)であったカルロス・ゴーンが派遣された。
1999年3月27日にルノーが日産の株式の36.8%を取得し、ルノーと日産の間で資本提携が結ばれ、同年6月、ゴーンはルノーにおける役割を維持したままで、最高執行責任者(COO)として日産に入社した。翌年2000年6月に日産の取締役に就任、さらに2001年6月に日産の最高経営責任者(CEO)に選出された。ゴーンCEOの指揮の下で日産生え抜きの志賀俊之が最高執行責任者(COO)に就任した(2013年11月まで。現在は日産社内でのCOO職は設けていない)。
ゴーンは1999年10月に経営再建計画「日産リバイバルプラン(NRP)」を発表。生産拠点の整理・削減や、経営合理的な判断に基づいての下請けの整理整頓、従業員の削減などであり、ルノーから資金や人員が注入されると同時に、東京都武蔵村山市にあった日産自動車村山工場、京都府宇治市の日産車体京都工場の乗用車製造ライン、愛知県名古屋市港区の愛知機械工業港工場の生産拠点の閉鎖、資産の売却や人員の削減とともに、子会社の統廃合や取引先の統合、原材料の仕入れの見直しなどによってコストを削減した。また、これに先立って宇宙航空事業部が石川島播磨重工業に、富士重工業の株式がゼネラルモーターズにそれぞれ売却され、IHIエアロスペースが設立された。車種では、シルビアやブルーバードなどが後継機を世に送り出すこともなく生産中止となった。車種ラインアップの整理と同時にデザインなどを刷新し、積極的な新車投入を行ったことで販売台数を伸ばし、2003年6月には当初の予定から前倒しで負債を完済した。
ゴーンの打ち出した同プランの下で、日産は経営再建を果たし、多くの経済学者から「企業再建史上最も劇的な回復の1つ」と評価される成果を上げた。この改革により日産は過去最高益を記録し、インフィニティを含む車種ラインアップの大幅な刷新を実現した。ゴーンは日本の「失われた10年」における経済停滞期に企業再生を成し遂げた功労者として国内外で高く評価され、日本の漫画やポップカルチャーにも登場した。さらに日本政府は2004年、ゴーンの功績を称え藍綬褒章を授与した。ゴーンは日産の建て直しの手腕が高く評価され、2005年4月からはルノーの取締役会長兼CEO(PDG)も兼任した。さらに2009年5月には同社の社長兼CEOに就いた。
日産は東京・東銀座から創業の地である横浜への回帰として、2009年8月に本社を日産グローバル本社に移転した。
しかし、その前年の2008年にはサブプライムローン問題に端を発した世界的な金融危機や原油高騰による不況の中、世界販売台数は0.9%増加し、アメリカでは自動車販売台数が18%減少の中、日産は10.9%減にとどまった。2012年、ダットサンブランドを復活させASEAN諸国での事業拡大を目指すが失敗。2020年代の経営難の遠因とされる。2014年、ルノーとの部品共通化を2018年までに7割まで拡大すると発表した。また、三菱自動車工業との共同開発で軽自動車の販売をしておりekワゴン→デイズとして販売している。2015年度、2010年代の営業利益のピークを迎える。北米市場の売り上げ増が拡大の原動力となっていたが、内情はモデルチェンジのサイクルを伸ばし、インセンティブの積み増しによる薄利多売が支えていたもので、ピークアウトした2016年度以降はインセンティブの効果も薄れ営業利益が激減していった。モデルチェンジのサイクル延長は、カルロス・ゴーン代表取締役の方針によるものだったとされ、代表取締役が離脱(後述)した後は各国の投入する車種群の見直しが進められた。
2016年4月に三菱自動車の燃費偽装問題が発覚した事に関連し、5月12日に日産が2370億円で三菱自動車の発行済み株式の34%を取得し筆頭株主となり、戦略的アライアンスを締結すると共に、三菱自動車の再建を支援すると発表した。同年10月に日産が2370億円で三菱自動車工業の発行済み株式の34%を取得し筆頭株主となり、ルノー・日産アライアンスに加わったことを発表した。2017年9月に発表した新6か年計画では三菱を含めてさらにアライアンスを強化し、アライアンス全体のパワートレインの共通化を従来の1/3から3/4に拡大するとしている。一方、日産においても2017年9月29日まで、日本国内の全6工場で生産した21車種について完成検査の一部を未認定の検査員が行っていたことが明らかになり、新車販売を一時停止する事態となった。同年10月6日、新車の完成検査を無資格の従業員が行っていた問題を受け、乗用車など38車種、計約116万台のリコール(回収・無償修理)を国土交通省に届け出た。
将来の自動運転社会を見据えて2017年1月、ディー・エヌ・エー(DeNA)と提携し「自動運転タクシー」の開発を進めると発表した。2017年度より「Easy Ride」として実証実験も開始している。
2017年4月1日、ゴーンは日産のCEO職を退き、会長職に専任した。後任のCEOには副社長の西川廣人が就任した。しかし2018年11月19日、ゴーンは収入の過少申告の疑い(金融商品取引法違反容疑)で逮捕された(ゴーン事件)。また、日産は3日後の同月22日に開かれた臨時取締役会で、同代表取締役のグレッグ・ケリーとゴーンの代表取締役会長職の解任を決議した。108日間の勾留後、保釈されたが、29日後に新たな容疑で再逮捕された(2019年4月4日)。当初予定されていた記者会見の代わりに、弁護団はゴーンが自ら録画した声明映像を公開し、2018年から2019年の日産事件自体が企業価値を損ねる証拠であり、日産経営陣の失策を示すものであると主張した。2019年9月には、不正報酬の受け取りが発覚し、西川がCEOを辞任した。その後、山内康裕が暫定CEOに就任し、同年10月に内田誠が新たなCEOに任命された。2019年12月1日、内田が正式にCEOに就任した。日産の社外取締役を含む6人で構成される指名委員会は、3名が次期CEOとしては当初鴻海の関潤を推し、2名が三菱自動車COOのアシュワニ・グプタ、残る1名が暫定CEOの山内康裕を推した。協議の結果、関に決まりかけていたところに、ルノー会長のジャン=ドミニク・スナールからクレームが入り、スナールの推薦の内田が選ばれ、関は副COOに就任した。
一方、ルノーとの資本関係については同社が日産株43%を保有し「不平等」を疑問視する声は根強く、日産が出資比率の引き下げを改めて要請していた。2023年1月、ルノーは日産への保有株式の約30%をフランスの信託会社に譲渡する意向を表明し(両社の承認待ち)、議決権付き株式を15%の少数持ち分まで減らす(日産が持つルノー株と同じく15%にそろえる)ことで、ルノーと日産の株主比率を同等にすることを目指した。資本関係の見直しとの引き換え条件としてこの合意には、ルノーが欧州で計画する電気自動車(EV)新会社(子会社)候補「アンペール」および複数市場での共同プロジェクトに日産が投資することも含まれていた。2023年2月、両社は出資比率変更の実施を承認(新たな提携内容で合意)し、最終的な手続きと規制当局の承認を2023年第1四半期に完了させ、同年第4四半期までに実行する予定であると発表した。また、両社は共同プロジェクトと日産のアンペールへの出資を正式に認可した。2023年11月に株式の譲渡は完了し、両社が15%の株式を相互に保有する新たなアライアンス契約が発効した。
2019年7月下旬、日産は3年間で1万2500人の人員を削減すると発表した。これは前年同期比で純利益が95%減少したためである。当時のCEOであった西川廣人は、削減の大部分が工場労働者に及ぶことを認めた。
2020年5月、日産は2019年度決算で1992年決算以来27年ぶりの巨額の赤字決算(総額6712億円)に転落したことを発表。これを受けて事業構造改革計画「NISSAN NEXT(ニッサン ネクスト)」を発表し、コスト削減、過去の過度な値引きに依存した販売体制・老朽車種の刷新、電動化への対応を打ち出した。また同年7月、新CIが導入され、ブランドロゴが19年ぶりに一新された(詳細は後節)。
さらに同年に起きた新型コロナウイルス (COVID-19) パンデミックの影響により生産能力を20%削減。最高執行責任者のアシュワニ・グプタがアメリカでのブランド再建を担当することを発表し、車種ラインアップの削減と世界各地の工場閉鎖を決定した。同年中ごろ、日産はインドネシアとスペインの工場を閉鎖した。同年12月には、2019年に韓国で起きた日本製品不買運動と新型コロナによる経営環境の悪化を理由に韓国市場から完全撤退した。ただし、撤退後も8年間はサービスセンターを運営し、品質保証や部品管理などのアフターサービスを提供している。
2020年11月、日産は新型コロナとゴーン事件の影響により、当四半期に4億2100万ドルの損失を計上した。日産北米の広報担当者によると、同社は「いかなる犠牲を払っても販売台数を確保する」戦略の影響で苦しんでおり、この方針は専門家によってゴーンに起因すると指摘された。ただし、2020年度決算では新型コロナの影響で減収減益になったものの、2019年度決算時に掲げた損益分岐点の引き下げ、生産能力の削減、新型車の導入には成功した。
2023年、COOのアシュワニ・グプタとCEOの内田誠との間で深刻な対立が明らかとなり、グプタが退任した。この内紛は社内の混乱をさらに拡大させた。
日産の年間販売は2017年度の579万台をピークに、2024年度には334万台まで低下し、4割以上減少した。一方でグループの従業員数は2017から2023年度まで13万人台を維持し、リストラは実施されなかった。工場の稼働率は6割程度と低迷することになり、販売台数がジリジリ減少していく状況で、過剰な設備と人員を抱えたまま日産の経営は放置されることとなった。
2024年11月、日産は年間営業利益予想を70%引き下げて1500億円(9億7500万ドル)とした。これは同年初めの17%の下方修正に続く2回目の修正であった。また日産は、9000人の従業員と2割の生産能力の削減を柱とする構造改革「ターンアラウンド」を示したが、内容は生産ラインの統合やシフトの調整。配置転換が中心であり工場の閉鎖には消極的な対応で、市場関係者からは「(改革の)規模も中身も明らかに踏み込み不足」と批判された。日産の幹部のひとりは『フィナンシャル・タイムズ』に対し、「大きな立て直しがなければ、日産は12か月から14か月以内に存続できないだろう」と語った。
2024年12月23日、日産は同じ日本の自動車メーカーであるホンダと合併に関する基本合意書を締結したと正式に発表し、販売台数で世界第3位の自動車グループを目指すとした。また、日産が24%の株式を保有する三菱自動車工業も統合協議への参加に合意した。「渡りに船」だったホンダとの経営統合では、ホンダが日産経営陣の大幅削減を前提にした人員削減計画と工場や生産ラインの整理を前提にした生産能力の見直し計画を求めたが、内田CEOが回答した再建プランは2024年11月に策定した「ターンアラウンド計画」の延長上の消極的な案であった。日産は業績が急悪化しているにもかかわらず、抜本的なリストラをせず、その一方で経営不振を招いた役員全員の留任を決めた(2024年12月11日公表の幹部人事)。また日産は救済される立場でありながら、幹部は「最初からホンダは上から目線だった」と苦言を呈し、共同会見では「どちらが上、下ではない」、「両社は対等の関係」とマスコミに言い放ち、ホンダの不信感を募らせた。またホンダの三部敏宏社長と内田が協議して決めた事項を日産社内で覆されるということも続き、ホンダは内田の社内統制力に疑問を持った。ホンダは日産による自助努力による再建は不可能と判断し、日産の経営陣の退陣を求めて日産を子会社化を求める方針に転換した。メインバンクのみずほ銀行も日産幹部に子会社を勧めたが、内田CEO率いる日産取締役会は2名が協議継続の意向を示すのみでこれを拒否した。2月6日に内田がホンダ本社を訪問し、三部敏宏社長に協議を白紙にする意向を伝えた。
2025年3月期には最終赤字が800億円の見込みだったものが過去最大の約7500億円に達した。
2025年3月31日付で内田誠が退任。内田の辞任は、業績悪化とホンダとの合併交渉決裂による経営への圧力増大が背景にあると報じられた。後任として、イヴァン・エスピノーサが2025年4月1日付で最高経営責任者(CEO)に就任した。
これに対し、新社長に就任したエスピノーサは同年5月に経営再建計画「Re:Nissan」を発表し、世界全体で計7工場を削減、日本国内ではいずれも神奈川県内にある横須賀の追浜工場と平塚の日産車体湘南工場の生産終了を決定した。また、再建に向けた資金獲得のため本社の土地・建物も売却(20年間の賃貸借契約により本社機能は維持)。さらに、追加で1万人超(計2万人)の人員削減を断行し、固定費削減や生産拠点の集約を進める方針である。これらの施策により収益構造の改善を図り、2026年度までに業績回復を目指すとしていたが、2027年3月期の連結純損益は3年ぶりの黒字化を見込んでいる。
これらエスピノーサの施策に対して、「メスを入れるのがあまりに遅すぎた」(日産元幹部)、「どうして前の(内田社長の)経営体制でこうした改革ができなかったのか?」(報道関係者)との指摘も寄せられている。





| 名前 | 任期 | 注 | |
|---|---|---|---|
| 初代 | 鮎川 義介(あいかわ よしすけ) | 1933年12月 - 1939年5月 | 1967年2月13日死去 |
| 2代 | 村上 正輔(むらかみ まさすけ) | 1939年5月 - 1942年2月 | |
| 3代 | 淺原 源七(あさはら げんしち) | 1942年3月 - 1944年9月 | |
| 4代 | 工藤 治人(くどう はると) | 1944年9月 - 1945年6月 | 1963年10月死去 |
| 5代 | 村山 威士(むらやま たけし) | 1945年6月 - 1945年10月 | |
| 6代 | 山本 惣治(やまもと そうじ) | 1945年10月 - 1947年5月 | |
| 7代 | 箕浦 多一(みのうら たいち) | 1947年5月 - 1951年10月 | |
| 8代 | 淺原 源七(あさはら げんしち) | 1951年10月 - 1957年11月 | 3代目社長の復帰 1970年8月23日死去 |
| 9代 | 川又 克二(かわまた かつじ) | 1957年11月 - 1973年11月 | 元同社相談役 1986年3月29日死去 |
| 10代 | 岩越 忠恕(いわこし ただひろ) | 1973年11月 - 1977年6月 | 1981年3月19日死去 |
| 11代 | 石原 俊(いしはら たかし) | 1977年6月 - 1985年6月 | 2003年12月31日死去 |
| 12代 | 久米 豊(くめ ゆたか) | 1985年6月 - 1992年6月 | 現日蘭協会・(社)日本自動車会議所 顧問 2014年9月10日死去 |
| 13代 | 辻 義文(つじ よしふみ) | 1992年6月 - 1996年6月 | 2007年2月11日死去 |
| 14代 | 塙 義一(はなわ よしかず) | 1996年6月 - 2000年6月 | 元同社相談役名誉会長 2015年12月18日死去 |
| 15代 | Carlos Ghosn(カルロス ゴーン) | 2000年6月 - 2017年3月 | 三菱自動車前会長、同社前会長 ルノー社長兼会長兼任 2018年11月に東京地検特捜部に金融商品取引法違反の容疑で逮捕 |
| 16代 | 西川 廣人(さいかわ ひろと) | 2017年4月 - 2019年9月 | 日本自動車工業会前会長 同社代表執行役最高経営責任者 |
| 代行 | 山内 康裕(やまうち やすひろ) | 2019年9月 - 2019年12月 | 同社代表執行役最高執行責任者 |
| 17代 | 内田 誠(うちだ まこと) | 2019年12月 - 2025年3月 | 同社専務執行役員兼東風汽車有限公司総裁 |
| 18代 | Ivan Espinosa(イヴァン エスピノーサ) | 2025年4月 - | 同社チーフプランニングオフィサー |
| 名前 | 任期 | 注 | |
|---|---|---|---|
| 初代 | 川又 克二(かわまた かつじ) | 1973年 - 1983年 | 元社長 |
| 2代 | 石原 俊(いしはら たかし) | 1985年6月 - 1992年6月 | 元社長 |
| 3代 | 久米 豊(くめ ゆたか) | 1992年6月 - 1996年6月 | 元社長 |
| 4代 | 辻 義文(つじ よしふみ) | 1996年6月 - 1999年6月 | 元社長 |
| 5代 | 塙 義一(はなわ よしかず) | 1999年6月 - 2003年6月 | 代表取締役CEO兼務(1999年 - 2001年) 元社長 |
| 共同 | 小枝 至(こえだ いたる) | 2003年6月 - 2008年6月 | カルロス・ゴーンと共同会長(2003年 - 2008年) 同社副社長兼務 退任後同社相談役 元名誉会長 |
| 6代 | Carlos Ghosn(カルロス ゴーン) | 2003年6月 - 2018年11月 | 同社代表取締役社長兼CEO兼務(2003年 - 2017年) 小枝至と共同会長(2003年 - 2008年) 三菱自動車前会長 ルノー社長兼会長兼任 2018年11月に東京地検特捜部に金融商品取引法違反の容疑で逮捕 |
| 年度 | 台数(単位:千台) | 市場占有率(%) |
|---|---|---|
| 1999 | 2,530 | --- |
| 2000 | 2,633 | --- |
| 2001 | 2,597 | --- |
| 2002 | 2,771 | 5.0 |
| 2003 | 3,057 | 5.3 |
| 2004 | 3,389 | 5.6 |
| 2005 | 3,569 | 5.6 |
| 2006 | 3,483 | 5.4 |
| 2007 | 3,770 | 5.4 |
| 2008 | 3,411 | 5.5 |
| 2009 | 3,515 | 5.5 |
| 2010 | 4,185 | 5.8 |
| 2011 | 4,845 | 6.4 |
| 2012 | 4,914 | 6.2 |
| 2013 | 5,188 | 6.2 |
| 2014 | 5,318 | 6.2 |
| 2015 | 5,423 | 6.2 |
| 2016 | 5,626 | 6.1 |
| 2017 | 5,770 | 6.2 |
| 2018 | 5,516 | 6.0 |
| 2019 | 4,930 | 5.8 |
| 2020 | 4,052 | 5.3 |
| 2021 | 3,876 | 4.9 |
| 年 | 月 | 日本 | 米国 | カナダ | メキシコ | 欧州 | 中国 | その他 | 海外販売 | グローバル販売 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 2021年1月 | 2021 | 1 | 43,211 | 70,458 | 5,159 | 17,762 | 28,336 | 146,245 | 50,001 | 317,961 | 361,182 |
| 2021年2月 | 2021 | 2 | 50,079 | 86,062 | 6,938 | 18,056 | 29,825 | 75,628 | 47,233 | 263,742 | 313,821 |
| 2021年3月 | 2021 | 3 | 69,121 | 129,033 | 12,985 | 21,040 | 52,171 | 130,479 | 60,456 | 406,164 | 475,285 |
| 2021年4月 | 2021 | 4 | 28,339 | 97,527 | 9,128 | 17,444 | 31,241 | 128,297 | 46,680 | 330,317 | 358,656 |
| 2021年5月 | 2021 | 5 | 29,796 | 110,947 | 9,269 | 17,172 | 28,861 | 111,096 | 41,469 | 318,814 | 348,610 |
| 2021年6月 | 2021 | 6 | 31,397 | 89,674 | 9,392 | 17,450 | 31,077 | 114,605 | 45,757 | 308,048 | 339,445 |
| 2021年7月 | 2021 | 7 | 32,969 | 80,297 | 9,200 | 16,420 | 26,148 | 95,783 | 46,168 | 274,131 | 307,100 |
| 2021年8月 | 2021 | 8 | 30,702 | 66,291 | 8,662 | 16,846 | 20,653 | 113,166 | 45,256 | 270,874 | 301,576 |

日産自動車のロゴマークはもともと「ダットサン」で使われていたもので、吉崎良造と田中常三郎がシボレーのマークにヒントを得て、赤の日の丸と太陽をベースに天空をモチーフとしたコバルトブルーをいれ、真ん中に白で横一文字で「DATSUN」と書かれていたのが前身である。なお、1937年に制定された社章=記章、株券等に使用していた=は、日の丸の真中に一本の横棒を挿入し、周囲を“日”を抽象化したもので囲ったもので、日立や日本興業銀行の社(行)章と類似していることから、発足時からの「日産・日立・興銀」の関係も表していた、とされている。
その後、文字を筆記体のカタカナで「ニッサン」 と書き直し日産コンツェルン全体の社紋として統括企業に普及するが、戦後の財閥解体とともに日産自動車のみの社紋としてローマ字表記の「NISSAN」に変更となった。
創業50周年を迎えた1983年には、アメリカのペンタグラム社が制作したロゴマークおよび指定フォント(書体)に一新された。さらに、1999年以降ルノー傘下になってからのゴーン体制下において、2001年には新たなデザインが社内コンペで検討され、立体的なものとなったロゴマークおよび指定フォント(書体)に一新、同年にフルモデルチェンジしたシーマ(F50型)、プリメーラ(P12型)から採用された。ちなみに、このとき採用されたロゴのサンプルはゴーンのオフィスに飾られていたという。その後、2020年には新CI導入によりブランドロゴが一新された。
企業フォントはTBWA開発の「NISSAN AG(Akzidenz Groteskの日産バージョン)」とモリサワ「新ゴ」の組合せ、車名バッジはG10型ブルーバードシルフィからNE-01というフォントに基本的に統一されている。
カタカナの車名ロゴは、2001年にロゴマークおよび指定フォント(書体)が一新された後も、1983年の創業50周年を機に米ペンタグラム社が製作した指定フォント(書体)が引き続き使用されていたが、2007年5月にマイナーチェンジして発売されたラフェスタ(B30後期型)、新規車種として発売されたデュアリス(J10型)以降から、新たに製作された指定フォント(書体)に一新されている。
赤・白・青のトリコロールは、日産自動車のコーポレートカラーとして日産ディーラーの各販売会社の店頭看板やレースカーのボディデザインなどとして古くから親しまれている。日産自動車がスポンサーとなっている横浜F・マリノスのチームカラーとしても起用されている。
そのほか、日産ディーラーの各販売会社の大型看板(NISSAN Blue Stage, NISSAN Red Stage, NISSAN Red & Blue)の「NISSAN」の指定フォント(書体)は、1983年に米ペンタグラム社が製作した指定フォントを引続き使用していたが、2007年から、日本国内の日産販売会社各店のレッド/ブルーの色分けを中止してからは、2001年に一新されたロゴマークおよび指定フォントへ変更されたVI(ビジュアルアイデンティ)への変更が順次進められ、大型看板も2001年以降の指定フォントを中央に配し、赤い線を上部に、グレーの線(線内中央に白文字で日産ディーラーの各販売会社名を表示)を下部に配した新しい大型看板に更新された。2020年7月のCI変更に伴い、大型看板が販売会社名の表示を無くした赤背景・白文字のCIへ順次更新されている。
21世紀の生産・販売戦略として導入した生産方式。顧客の注文に基づく詳細な生産指示書を関係工程に指示し生産する方法で、これにより受注から納車までの時間が最短で3日という迅速な生産を実現した。現在、インフィニティブランドを取り扱う栃木工場などに導入されている。
日産では1960年代以降、以下のような規則でエンジン型式を定めている。例外もあり、ルノーと共同開発したM9R型エンジンや、OEM供給を受けている車種へ搭載している他社製エンジンなどはこの規則が適用されない。
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 |
|---|---|---|---|---|
| エンジン系列名 | 排気量(100cc未満は四捨五入) | バルブ機構 | 燃料供給方式 | 過給器 |
なお、3 - 5はVQxxHR系(「VQxxDE」に対する"High Revolutions"、つまり高回転仕様特有の記号)やHR14DDe(e-POWERの発電専用エンジン)のように例外も存在する。
| A | 10 | なし | なし | なし |
|---|---|---|---|---|
| Aシリーズ | 1000cc | OHV | キャブレター | 自然吸気 |
| CA | 18 | なし | i | なし |
|---|---|---|---|---|
| CAシリーズ | 1800cc | SOHC | シングルポイントインジェクション | 自然吸気 |
| SR | 20 | D | E | T |
|---|---|---|---|---|
| SRシリーズ | 2000cc | DOHC | EGI マルチポイントインジェクション | シングルターボ |
| VQ | 23 | D | E | なし |
|---|---|---|---|---|
| VQシリーズ | 2300cc | DOHC | EGI マルチポイントインジェクション | 自然吸気 |
| YD | 25 | D | D | Ti |
|---|---|---|---|---|
| YDシリーズ | 2500cc | DOHC | NEO Di | インタークーラー付ターボ |
| TD | 27 | なし | なし | T |
|---|---|---|---|---|
| TDシリーズ | 2700cc | OHV | 分配型噴射ポンプ | シングルターボ |
| VK | 56 | V | D | なし |
|---|---|---|---|---|
| VKシリーズ | 5600cc | VVEL | DIG | 自然吸気 |
| RB | 26 | D | E | TT |
|---|---|---|---|---|
| RBシリーズ | 2600cc | DOHC | EGI マルチポイントインジェクション | ツインターボ |
| HR | 12 | D | D | R |
|---|---|---|---|---|
| HRシリーズ | 1200cc | DOHC | DIG | スーパーチャージャー |
| VQ | 37 | V | HR(特殊) | なし |
|---|---|---|---|---|
| VQシリーズ | 3700cc | VVEL | ハイ・レボリューション/ハイ・レスポンス | 自然吸気 |
| MR | A8(特殊) | D | E | なし |
|---|---|---|---|---|
| MRシリーズ | 1800cc(特殊) | DOHC | EGI マルチポイントインジェクション | 自然吸気 |
| BR | 06 | D | E | T |
|---|---|---|---|---|
| BRシリーズ | 660cc | DOHC | EGI マルチポイントインジェクション | シングルターボ |
この節には独自研究が含まれているおそれがあります。 |
1970年代までに開発された車種には3桁の数字が割り当てられ、モデルチェンジのたびに百の位を増やしていった。各型式初代の百位は「0」で、表記されないため2桁となる。車種の増加に伴い数字の重複が起こり、識別のためアルファベット1文字が付与される場合があった。
同一型式で、エンジン型式や排ガス規制年度に変更があり、新たに型式指定を受けた場合は一の位を増やしていく。
モデルチェンジした際に最初のアルファベットが変わることがある(例:スカイラインは5代目まで「C」、6代目から10代目まで「R」、11代目以降は「V」)。
また、合併で受け継いだ旧プリンス製の車種については、生産完了までプリンスのルールに基づいた型式のまま販売していた。
型式10位の数字
基本的には奇数が乗用系、偶数が貨物およびバス等業務系。現在でも型式10位の付番法則は踏襲されている。
1980年発表のE23型キャラバン/ホーミー、F30型レパード、C31型ローレル以降はアルファベット1文字に2桁の数字を合わせ、モデルチェンジの度に一の位を変えることになった。そのため、同一車種でエンジン・車体形状などの変更、シャーシを共有した異なる車種の場合は、型式名の前(排ガス記号・ハイフンの後)にアルファベットが加えられている。これは車両によってバラバラだが(プラットフォームを共有する車種間で文字の意味が揃えられていることはある)、下記の仕様については共通のアルファベットが割り当てられる。
現行規定への変更後にモデルチェンジした車種で、上記のアルファベットが割当されていなかった場合、アルファベット割り当てた上で一の位を「0」(ブルーバードは「1」)から振り直した。アルファベットがある車種は、流用した上で「1」から開始している(サニー:B11 - 、ローレル:C31 - 、キャラバン/ホーミー:初代がE20→E21→E22のため、E23 - )が、スカイラインは「R」に変えて0から(R30)、フェアレディZは「Z」に変えて1(Z31)から始めるなど、特例も多い。
規定変更以後の新規車種は原則として「0」からとなっているが、ティアナ(J31)やティーダ(C11)、ノート(E11)、セフィーロ(A31)のように、既に使用された型式と重複する場合は「1」から振る場合もある(それぞれJ30型マキシマ、C10型スカイライン、後者はE10型チェリー、A30型グロリアと重複するため)。
レアケースとして、ジューク(型式:F15)や、マツダOEMのラフェスタハイウェイスター(社内型式:B35)、小型CUVのキックス(型式:P15)のように、「5」からスタートしている車種もある(前者は過去にF10、F11が2代目チェリーとして存在し、中者は初代・B30型と、後者はプリメーラ(P10 - P12)と区別するため)。ラニア(藍鳥)は愛称が変わったものの、ブルーバード(藍鳥)の「系譜」を引き継いでいる(U14→U15)。2007年に登場したGT-Rも、スカイラインGT-Rの型式を引き継いで連番(BNR34→R35)となっている。
ノートやノート オーラの場合、上記の法則通りに記述すると、通常、e-POWERの4WD車はHNE12(E12)、HNE13(E13)/HFNE13(E13オーラ)となるが、この車種に限っては、SNE12、SNE13/SFNE13となっている。(同じハイブリッドの4WD車でも、T32型エクストレイル・V37型スカイラインでは上記の法則通りそれぞれHNT32、HNV37となっている)
マツダ・ボンゴのOEMに切り替えられたバネットは、3代目を「S20型」(マツダ型式SS/SE)、4代目を「S21型」(同SK)とする日産独自の社内呼称が与えられ、小型貨物としての「2」が受け継がれている。
軽自動車については、ベース車両(共同開発の場合は製造元の車両)に準じた型式のほかに社内型式が設定されるが(車検証に記載されるのは前者)、前者はベース車両のアルファベット(スズキ製)もしくは数字(三菱自動車工業製)の一部分が変わり、後者は「○(この部分にはアルファベットが入る)A0」からスタートして○A1、○A2・・・といった具合にモデルチェンジごとに数字部分が増えていく。例として、ベース車両であるスズキ・MRワゴン(初代)の「MF21S」に対してモコは「MG21S」ならびに社内型式「SA0」、MRワゴン(2代目)の「MF22S」に対してモコは「MG22S」ならびに社内型式「SA1」、MRワゴン(3代目)の「MF33S」に対してモコは「MG33S」ならびに社内型式「SA2」・・・という具合である。共同開発の場合も日産自体が生産していない限りは同様の法則で、製造元の三菱・eK(3代目)と三菱・eKスペースの「B11W」「B11A」に対してデイズとデイズルークスは「B21W」「B21A」ならびに社内型式「AA0」「BA0」・・・となる。ハイパーミニは日産唯一の自社製軽自動車であったため、届出上の型式も「EA0」であった。
また、電気自動車については、軽自動車の社内型式と似たように「◯E0、◯E1・・・」という型式が与えられている。リーフは「ZE0」(初代)「ZE1」(2代目) 「ZE2」(3代目)、アリアは「FE0」、サクラは「KE0」(社内型式、届出型式は三菱式の「B6AW」)である。
座間工場でノックダウン生産されていたフォルクスワーゲン・サンタナは、他の日産車と同じような「M30」という型式が与えられた。
日産の「総合研究所」(基礎研究・開発)は追浜地区(横須賀市夏島町)にある。1982年にそれまで鶴見地区、荻窪地区に分かれていた技術拠点を統合して、神奈川県の丹沢山塊の大山の麓(厚木市岡津古久)に「日産テクニカルセンター」(NTC:商品・技術開発、デザイン開発、生産技術開発、外製部品の購買)を開設して、その30周年時点(2012年)には従業員が9500人であった。
また、2007年には日産テクニカルセンター近くの青山学院大学厚木キャンパス跡地(厚木市森の里青山)に「日産先進技術センター」( NATC:先行技術開発、基礎研究開発)を開設した。これは上記の総合研究所、横浜本社だけでなく、新しくインド・チェンナイ、米国デトロイトおよびシリコンバレー、ロシア・モスクワの拠点とも連携して先進技術の開発を進める。
車両のプルービンググラウンド(走行試験路)には、栃木試験場、茂木試験場、追浜試験場、北海道陸別試験場がある。
海外には、日産テクニカルセンター・北米(設計・技術開発および商品開発、実験、在ミシガン州デトロイト北西郊外のファーミントン・ヒルズ)、日産テクニカルセンター・メキシコ(設計・技術開発・購買およびアフターセールス)、日産デザイン・アメリカ(車両のデザイン)がある。


2007年2チャネル体制を廃止した。そのため系列がなくなり、日産全店舗で全車種が買えるようになった。
チャネル廃止に伴いディーラーのデザインにレッド/ブルーの色分けを中止し新しいVI(ビジュアルアイデンティティー)の採用を開始した。海外の日産販売店の世界共通VIをベースにしているが、和のイメージも取り入れられている。看板は日産の現行CIが付き、"NISSAN"の文字も全体的に以前より横長で、"S"の中央部分が左上から右下への一直線となった現行ロゴとなった。
2007年頃まで日産販売店各店舗はレッドステージ店・ブルーステージ店を含めてこのVIにリニューアルされた。また、店舗の多くに掲げられていた「NISSAN Red&Blue」・「NISSAN Red Stage」・「NISSAN Blue Stage」の大型看板も変更となり、白地に「NISSAN」の現行ロゴを中央に配し、上部に赤線、下部にグレー線(グレー線には中央に白文字で販売会社名〈「○○日産」・「日産プリンス○○」・「日産サティオ○○」のいずれか〉を記載)を記した新しい大型看板に変更された。大型看板については長野日産自動車 柳原店のように、「NISSAN」ロゴではなく日産のCIとなる場合もある。
栃木日産自動車 上三川店のように日産のCIやロゴを2020年7月からの現行仕様に更新した販売店もあり、新CI店舗では大型看板が赤の背景に白のCIとなり、CIの下に表記されていた販売会社名を廃止。ショールームの外側上部のレイアウトについても、左側に黒文字の「NISSAN」ロゴ、中央に大型看板と同じ赤背景の白CI、右側に2段で販売会社名と小さく店舗名(長崎日産自動車のように、店舗名が営業所名表記の場合がある)が配置される。
商用、社用の特装車は「Biz NISSAN」ブランドによって「商用車プロショップ」で販売している。
販売会社の社名は、系列を分けていた名残で統合後もそのままになっているが、合併などで各都道府県内に1社のみとなった場合は原則として「○○日産自動車」となる。一部地域では地名が日産の後に付いた「日産○○販売」という販売会社も存在する(例:日産大阪販売)。
地域によっては一部系列の販売会社が存在しないところがあり、このような地域では日産店が代わりにその系列の車種を取り扱うことがあった。また、販売会社の資本系列(日産店が後発の系列の販売会社を経営することが多かった)の関係で、異系列の車種を斡旋販売することもあった。そのため、広告では各系列の代表的な車種名を入れて「○○販売会社」と表現していた(例:日産店の場合は「ブルーバード販売会社」、モーター店の場合は「セドリック・ローレル販売会社」、プリンス店の場合は「スカイライン販売会社」、サニー店は「サニー販売会社」)。

男女で定年が異なる(55歳と50歳)ことが男女雇用機会均等法(1972年)制定前の1966年の時点でも民法90条(公序良俗違反)により違法と認められたもの。
死亡した被害者と3名の加害者のうち1人が日産の工場社員で同期であり、事件発覚前に加害者を擁護するような行動があったため批判された。
2007年3月下旬、全国の販売子会社を再編する際に販社側の債務超過を増資などで解消したことに対し、利益を得たとして600億円を超える追徴を受けた。
2009年、日産が女性2人を派遣の期間制限のない専門業務と偽って最大3年の制限を超えて派遣労働者を受け入れていた件について、東京労働局が是正指導したと、首都圏青年ユニオンが記者会見で公表した。製造工程以外の派遣で自動車大手が是正指導を受けるのは初めてであった。労働局は直接雇用を含む雇用確保を求めたが、日産側は雇用関係にないとして組合の団体交渉を拒否し、申告した一人は5月末で雇い止めされた。また日産を解雇された5人が、偽装請負・偽装派遣によって長年正社員のように働かせられた挙げ句に解雇されたとして訴えを起こしている。多くの原告は、正社員として一旦直接雇用したのち、再び派遣社員に戻す「地位のキャッチボール」をされていたという。しかし横浜地裁は「違法性はない」として2014年に原告の訴えを退けた。
2017年8月、追浜工場の検査ラインから正式発表前のZE1型リーフの画像がTwitter上に漏洩。画像を投稿したのは取引先の部品メーカー社員の男性。日産は神奈川県警に告訴し、2018年6月15日に神奈川県警は男性を不正競争防止法違反(営業秘密侵害)と偽計業務妨害の疑いで書類送検した。
2017年9月29日、国土交通省の立ち入り検査によって、日産の完成検査を無資格者が行っていたことが発覚。一カ所に留まらず日産の6工場で常態的に行われており、また偽装用の判子も用意するなど周到に行われていた。この結果OEM供給を含む日本で販売した38車種116万台がリコールとなり、新車販売とCM放送は中断された。しかしこの件が発覚しても日産はすぐに謝罪会見を行わず、4日後に開いた会見では社長の西川が謝罪の言葉を口にしたものの、「無資格であっただけで品質には問題は無い」と頭を下げることはなかった。さらに10月18日、この問題を指摘された後の10月11日まで湘南工場で資格のない従業員に検査を行わせていたことが発覚。この検査はハンドルを回して角度を確認する工程で、日産では安全性を確認したとしていて新たなリコールは行わないとした。
しかし10月19日、指摘を受けた後の無資格検査が湘南工場に留まらず、追浜工場、栃木工場、日産自動車九州でも行われていたと判明。ここに至り西川社長も頭を下げて謝罪、国内向け新車全ての販売を自主停止した。また11月2日に、9月の国交省の立ち入り検査の際現場作業員が事実と異なる供述をしていたことも判明した。さらに同日、日産が生産再開準備完了を報告した工場に国交省が立ち入った際、福岡の2工場と神奈川の1工場で完成検査の手順が整っていなかったなど複数の不備が発覚、異例の再検査となった。
問題になった完成検査は日本国内向け車のみに適用されるもので、大別して(1)保安基準検査と(2)型式検査に分かれる。(2)型式検査の方法は各企業で異なるものの、国土交通省に申請し認可を受けた方法である必要があり、また(1)保安基準検査の基準と手法は全社共通である。完成検査員は、各企業内で「当該検査に必要な知識及び技能を有する者のうちからあらかじめ指名された者(=資格取得者)」が行う必要があった。この事件により、日本の自動車生産を円滑にしていた型式指定検査制度は大きく揺らぎ、経済提携や自由貿易協定の交渉に悪影響が出ることが予想される。
一方で佃モビリティ総研の佃義夫所長は、国内の販売が減少状況で、メーカーがこの(点検)手順を費用のみがかかる形式的な行為だとしていたと分析している。また、韓国の中央日報は、他国には無い不必要な上に十分に監督されるわけでもない規制が問題の一端を提供したのだとして、日本が不要な規制を設けていたことを批判した。
2018年7月9日、複数の工場で、新車の出荷前に行う排気ガス性能の検査結果を改ざんしていたことが判明。出荷前に車の性能をチェックする「完成検査」の中で、数百台から数千台に1台の割合で車を選んで実施する「抜き取り検査」という工程。そこで行われる排ガス性能の測定で、思わしくない結果が出た場合、都合のいい数値に書き換える不正が国内の複数の工場で行われていた。
2018年12月7日、追浜工場とグループ会社オートワークス京都の製品出荷前の完成検査工程のうち、ブレーキ、ハンドル、スピードメーターなど6項目において、全ての車を検査する全数検査の中でブレーキの制動力をかさ上げするなどの不正が発覚した。ブレーキ検査では各工場の検査員のうち1人だけが不正をしていた。安全性能を満たさない可能性があるとして、2017年11月7日から18年10月25日までに上記の工場で生産された11車種、約15万台のリコールを届け出した。
2024年3月7日、下請け業者への支払代金を減額したのは下請法違反に当たるとして、公正取引委員会から再発防止を勧告された。2021年1月から2023年4月の約2年間に部品メーカーなど下請け36社を対象に、一度決まった支払代金から計30億円超を減額したと認定した。減額幅は日産と下請け間で協議して決め、覚書も交わしていた。違法な商慣行は数十年前から常態化していたとみられ、公取委は社長を中心とする順法管理体制を整備するよう日産側に求めた。減額の総額1956年の下請法施行以来、最高額となる。日産は違反を認めており、2024年1月末に業者側へ減額分を全額支払ったという。