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本社 | |
商号 | IBM |
|---|---|
現地語社名 | International Business Machines Corporation |
種類 | 株式会社 |
| 市場情報 | |
| ISIN | US4592001014 |
| 業種 |
クラウドコンピューティング AI ハードウェア ソフトウェア サービス |
| 前身 |
コンピューティング・スケール・カンパニー・オブ・アメリカ インターナショナル・タイム・レコーディング・カンパニー タビュレーティング・マシーン・カンパニー |
| 設立 | 1911年6月16日 (C-T-R) |
| 創業者 | |
| 本社 | 、 |
事業地域 | 177ヵ国 |
主要人物 |
Ginni Rometty (Executive Chairman) Arvind Krishna (CEO) Jim Whitehurst (President) |
| 製品 | コンピューター関連ハードウェア・ソフトウェア |
| サービス | アウトソーシング・コンサルティング・マネージドサービス |
| 売上高 |
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営業利益 |
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利益 |
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| 総資産 |
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| 純資産 |
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従業員数 | 282,100 (2021年) |
| ウェブサイト |
www |
IBM(アイ・ビー・エム)こと、インターナショナル・ビジネス・マシーンズ(英語: International Business Machines Corporation)は、アメリカ合衆国ニューヨーク州アーモンクに本社を置く、世界170か国以上で事業を展開するテクノロジー関連企業。愛称はビッグブルー(英語: Big Blue)。日本法人は日本アイ・ビー・エム株式会社。
IBMは1911年にC-T-Rとして創立され、特に1960年代以降はコンピューター市場で圧倒的な影響力を持ったが、1990年代以降はコンサルティングを含めたサービスとソフトウェア中心の事業に舵を切り、2010年代頃にはクラウドコンピューティングとコグニティブコンピューティングを提供する企業と自己定義している。以降も、レッドハットの巨額買収(2019)やキンドリルのスピンオフ(2020)等で絶えず事業を組み替え、近年は、プラットフォームを中心とするハイブリッドクラウドやAI、ソフトウェア、コンサルティング事業をコア事業としている。IBMは企業別特許取得数で29年連続一位を保持してきた。2025年現在、アメリカ合衆国の代表的株価指数とされるダウ平均株価を構成する30銘柄のうちの一社である。
IBMの正式社名「インターナショナル・ビジネス・マシーンズ」を日本語に直訳すると「国際事務機」となるが、日本の東京都江戸川区にある企業「国際事務機株式会社」や沖縄県南城市にある企業「株式会社国際事務機」とは、社名が似ているだけで何ら関係はない。
事業内容はコンピューター関連のサービスおよびコンサルティングの提供と、ソフトウェア、ハードウェアの開発・製造・販売・保守、およびそれらに伴うファイナンシング、メインフレームコンピューターからナノテクノロジーに至る分野でサービスを提供している。

IBMは研究機関としても有名であり、2016年時点では米国特許取得数が23年連続の1位となった。IBMによる発明はDRAM、ハードディスク、フロッピーディスク、磁気ストライプカード、リレーショナルデータベース(RDB)、SQLプログラミング言語、バーコード、現金自動預け払い機(ATM)などがある。
IBMは既存のコモディティ化した市場を脱出し、高付加価値な収益性の高い市場に着目することで、事業構成を絶えず組み替えている。例えばプリンター事業をLexmarkに分社し(1991年に)、レノボへのパーソナルコンピューター(ブランド、ThinkPadやNetVistaなど)およびx86ベースのサーバー事業を売却(2005年と2014年)。またファブレス化として2014年にIBMのグローバルな商用半導体技術事業を米GLOBALFOUNDRIESに工場、技術者、テクノロジー知的財産だけではなく、現金15億ドルまでも付けて譲渡。2021年には成長分野のクラウドとAIに集中するため、売り上げの四分の一を占めるITインフラの保守・更新事業を新会社名はキンドリルとしてスピンオフ。一方でPwCコンサルティング(2002年)、SPSS(2009年)、Weather Company(2016年)などの企業を買収している。
製品やロゴの色から本国アメリカでは「Big Blue」の愛称で呼ばれている。これに由来してIBMのプロジェクトには「Blue」を冠するものが多く、広告などのイメージカラーになっている。IBM社員はIBMの価値観を体現する者として、IBMerという呼称を用いている。ダウ平均株価の銘柄に含まれる30社のうちの1社であり、2016年時点で約38万人 の従業員数がいる世界最大級の規模の企業となっている。基礎科学の研究にも力を入れワトソン研究所やチューリッヒ研究所からはノーベル賞受賞者を輩出。IBM社員から5人のノーベル賞、6人のチューリング賞、10人のアメリカ国家技術賞、5人のアメリカ国家科学賞の受賞者を輩出している。
IBMは企業別特許取得数で長年にわたり一位を保持してきており、2022年にサムスン電子へ一位の座を譲るまで、連続一位取得記録は29年間続いた。IBMは、2020年以降特許に注力しない方針に転換していた旨の声明を出している。
元CEOのジニー・ロメッティは、米『フォーチュン』誌が選ぶ「ビジネス界で最もパワフルな女性」 の一人として長年ランクインしている。
100年以上の歴史を持つ希有なアメリカ企業であり、いまだ創業時の理念や行動規範を尊重する文化を持つ。誠実さを象徴するため、事実上のドレスコードであった青いスーツに白いシャツからIBMの企業としての呼称にビッグブルーが用いられることが多い。また、IBM社員のことをIBMerと称する。ビッグブルーとは、あまりにも強すぎるIBMの市場における存在感に対する畏敬の意として用いることもあれば、保守的で均一的なことへの揶揄として用いることもある。ルイス・ガースナーがIBMを抜本的に改革するため、CEO就任時にあえてブルーのシャツを着て役員会に出席したことで、事実上のドレスコードは撤廃された。
1916年、トーマス・J・ワトソン・シニアはIBM教育プログラムを策定し、社員への教育をコミットメントした。この際にできたのが、「教育に飽和点はない」という現在まで続く理念である。
1962年、当時CEOであったトーマス・J・ワトソン・ジュニアがコロンビア大学でIBMの指針である、「個人の尊重」「最善の顧客サービス」「完全性の追求」についてスピーチした。この指針は21世紀の今なお、IBMのDNAとして続くものである。また、IBMは企業のビジョンを示すことはなく、変化し続ける市場で重要なのは「在り方」であるとしている。
2003年の7月29日から31日の3日間、当時のCEOであったサミュエル・パルミサーノがオンラインジャムセッションを主催し、行動規範や価値観について議論するため、数万人のIBMerが参加した。当時、企業理念を大規模な社員が議論して策定することも、オンラインでジャムセッションすることも極めて珍しいことだった。このジャムセッションを元に、2003年11月にIBMは新しい価値観として、「お客様の成功に全力を尽くす」「私たち、そして世界に価値あるイノベーション」「あらゆる関係における信頼と一人ひとりの責任」を発表した。これは、「個人の尊重」「最善の顧客サービス」「完全性の追求」という40年前の企業理念を現代風に言い換えたものであり、IBMの行動規範が40年以上にわたってDNAとして続いていることをIBMが認めている。
社員への教育理念は、「教育に飽和点はない」。社員の文化である「野鴨」は、ビジネスでは飼い慣らされない野鴨のような挑戦する精神を持って欲しいということで、デンマークの哲学者セーレン・キェルケゴールの書物から引用して作られた。
大文字で書かれた「THINK」は創業者トーマス・J・ワトソン・シニアが、「考えることがあらゆる前進を生み出す源」として1915年に講演したことに起因する。
1953年、トーマス・ワトソン・ジュニアは社会の潮流に先駆け、人種、肌の色、宗教で差別しないという規定を策定した。これは1954年のブラウン対教育委員会裁判での連邦最高裁判決の1年前、そして1964年の公民権法制定の11年前にあたる。
1981年、やがて到来するネットワーク社会を見据えて、オフィスシステムをネットワーク化し、リモート環境でも社内システムにアクセスできるようにした。やがてインターネットの普及により、この仕組みはイントラネットに移行するが当時としては時代の最先端をいく試みであった。
1999年、イントラネットを用いて部分的在宅勤務が制度化され、2009年には完全在宅勤務が認められた。一般的な企業の約10年から20年前に実現した取り組みだった。
2004年、オンデマンドワークスタイルを取り入れ、オフィス内をフリーアドレス化し、「社員に働く場所は自由」であることを明示し、顧客エンゲージメントや在宅勤務に対する心理的抵抗を下げる施策をうった。
2017 年、IBM はWorking Motherの100 Best Companies List に32年連続で選ばれた。
これ以外にも、週休2日制(1972年)、産休(1974年)、フレックスタイム(1989年)、長期勤続リフレッシュ休暇(1990年)、介護休暇(1991年)、ボランティア休暇(1991年)、短時間勤務(2004年)など、社員の働ける条件で働くという環境を作るため、世界でも最先端の試みを最も早く行っている企業である。
アメリカ企業として珍しい点として、日本企業のような社歌の存在が挙げられる。1931年に管弦楽団を用いてEver Onwardを策定している。創業から1980年代までリストラをしたことがなく、1950年に世界で最初に終身雇用制を確立したことから、日本企業以上に日本企業的な一面があった。後述の1993年の巨額赤字を機に企業方針を転換し、家族的経営からハイパフォーマンスカルチャーへと移行した。
また、新卒から生え抜きの人材がCEOになるという伝統を持っている。唯一の例外が累積150億ドルの赤字を計上した1993年に、ハーバードビジネススクールMBAを持つプロ経営者、ルイス・ガースナーを外部から登用し、ターンアラウンドしている。しかし、ルイス・ガースナー退任以降は再び、現CEOのアービン・クリシュナまで生え抜き人材のみがCEOとなっている。
2003年、オンデマンド・コミュニティーと称するプラットフォームをリリースし、退職した社員とITのサポートが必要なNPOや学校とのマッチングを行っている。創業時から社会貢献活動に意欲的だった取り組みのオンライン化である。2004年、スマトラ沖地震救済のため、IT機器の無償支給の他、IBMerによるボランティアを実施し、320万ドル相当の貢献をした。創業の年、トーマス・ワトソンは20以上の慈善団体に資金を寄付した他、2001年、2008年、2010年など天災の際に寄付を続けている。これらは現在のESGの先駆けであるといえる。
社会課題解決に対しても積極的で、2007年にはストックホルム市の交通量最適化プロジェクトでは、交通量25%削減、公共交通機関利用者1日当たり4万人増加、市内の排出ガス14%削減という成果を出した。現在多くの企業が取り組むサステナビリティーの先駆けとなる施策を、本業で社会的インパクトを与えることを視野に入れて果敢に取り組んでいる。
IBMは大規模かつ多様な製品やサービスを持っている。2016年時点ではカテゴリーとして、クラウド・コンピューティング、コグニティブ・コンピューティング、コマース、データ&アナリティクス、IoT、ITインフラストラクチャ、モバイル、およびセキュリティ、に分類されている。
IBM Watsonは自然言語処理と機械学習を用いて大量の非構造化データ(例えばメールやSNS、動画、画像など)から論理的に推論し意思決定に役立たせるためのプラットフォームである。Watsonは2011年に米国の人気クイズ番組『ジェパディ!』でデビューし、3ゲームのトーナメント戦で、人間のクイズ王であるケン・ジェニングスとブラッド・ラターを破った。それ以来、ビジネス、医療、研究開発、および大学などの分野で採用されている。例えばIBMは米国スローンケタリング記念がんセンターと提携しており、臨床データや最新の研究論文と患者データの照合に活用し、悪性黒色腫のスクリーニング検査のがん患者一人ひとりに最適な治療方法を見つける支援を行っている。また企業がコールセンターのためのワトソンを使用して、顧客サービスのオペレーターを支援し始めている。
クラウド・コンピューティング関連のサービスとしてPaaS、IaaS、SaaSを提供している。
など

IBMの歴史は電子計算機の開発の数十年前に始まる。電子計算機の前には、パンチカードによるデータ処理機器を開発していた。1911年6月16日、ニューヨーク州エンディコットにコンピューティング・タビュレーティング・レコーディング・カンパニー(C-T-R:Computing-Tabulating-Recording Company)として設立された。

C-T-Rは3つの別個の企業の合併を通じて成形された。タビュレーティング・マシーン・カンパニー(1896年設立)、インターナショナル・タイム・レコーディング・カンパニー・オブ・ニューヨーク(1900年設立)、コンピューティング・スケール・カンパニー・オブ・アメリカ(1901年設立)の3社である。タビュレーティング・マシーン・カンパニーの当時の社長は創業者のハーマン・ホレリスであった。この合併の鍵を握っている人物は資産家のチャールズ・フリントであり、彼は3社の創業者を集めて合併を提案し、1930年に引退するまでC-T-Rの取締役であった。
IBMでは1911年を創立の年としている。1917年、C-T-Rはカナダ市場に参入する際にInternational Business Machine Co., Limitedの社名を使用し、1924年2月14日に本体の社名を現在と同じInternational Business Machines Corporationに変更した。
トーマス・J・ワトソン・シニアはIBMの創立者と記述されることが多いが、1911年時点の社長は、ジョージ・W・フェアチャイルドである。トーマス・J・ワトソン・シニアは、1914年にNCRからC-T-Rの事業部長(ゼネラルマネージャー)として迎えられ、1915年に社長となった。彼は、C-T-RがInternational Business Machines Corporationに社名変更した1924年の時点も社長の任にあった。
C-T-Rの元となった3社は様々な製品を製造していた。従業員勤務時間記録システム、計量器、自動食肉薄切り機、そしてコンピューターの開発にとって重要なパンチカード関連機器などである。時とともにC-T-Rはパンチカード関連事業を中心とするようになり、他の事業は徐々にやめていった。
1933年6月20日にエレクトロマチック・タイプライターズ・カンパニーを買収して、タイプライター事業にも乗り出した。
| IBMロゴの歴史 | |
|---|---|
| ロゴ | 年 |
| 1924–1946 | |
| 1947–1956 | |
| 1956–1972 | |
| 1972–現在 | |
第二次世界大戦期間中、IBMはブローニング自動小銃BARとM1カービン銃を製造した。同盟各国の軍ではIBMのタビュレーティングマシンは会計処理や兵站業務などの戦争関連の目的で広く使われた。ロスアラモスで行われた世界初の核兵器開発計画であるマンハッタン計画ではIBMのパンチカード機器が広く計算に使用された。このことはリチャード・P・ファインマンの著書『ご冗談でしょう、ファインマンさん』に記された。同じく戦時中、アメリカ初の大規模な自動ディジタル計算機(自動でディジタル式(計算機構としてアナログ的な部分が無い計算機械)ではあるが、リレーだけではなくローターなども含む、電動だが完全に機械式)のHarvard Mark Iの建造も担当した。
大戦前からの流れとして、ホレリス統計機が国勢調査に用いられるようになってから事業が大幅に伸びたことや、前述のように電気機械式計算機Harvard Mark Iに関与したこともあり、企業や政府の計算需要に目をつけてはいたが、戦後、コンピューター事業への進出は、コンピューター黎明期の他のパイオニア的な企業と比較して必ずしも先進的だったわけではない。
エドウィン・ブラック(IBMがOS/2販売方針をエンタープライズ向けに変更した結果、廃刊に追い込まれたコンシューマー向けパソコン雑誌『OS/2プロフェッショナル』『OS/2ウイーク』の編集発行人であった)の2001年の著書『IBMとホロコースト』(ISBN 4-7601-2158-7)では、IBMのニューヨーク本社とCEOトーマス・J・ワトソンが海外子会社を通してナチス・ドイツにパンチカード機器を供給しており、ホロコーストの実行にそれが使われる可能性を認識していたと主張した。また同書は、ニューヨーク本社の協力のもとでIBMジュネーヴオフィスとドイツ内の子会社 Dehomag がナチスの残虐行為を積極的にサポートしていたと主張した。ブラックはそれらのマシンを使うことでナチスの行為が効率化されたとも述べた。2003年のドキュメンタリーザ・コーポレーション(The Corporation)でもこの問題を追及した。IBMはこれらを証拠に起こされた訴訟で、それを裏付けるだけの当時の資料を保有していないとし、これらを退けた。IBMはまた、著者や原告によって提起された主張を真剣に受け止め、この件に関する適切な学問的評価を期待している、と述べた。

終戦後すぐの1946年に、エレクトロニクスによる「電子」計算機であるENIACが完成し、電子式コンピューターの時代が幕を開けた。ENIACはIBMのパンチカード機器を入出力に使用していた。当初、コンピューターの世界で先行したのは、ENIACの主要開発者2人を雇い入れることに成功したUNIVACであった。UNIVAC Iは(当時としては)ベストセラー機となった他、1952年アメリカ合衆国大統領選挙を予想するというデモンストレーションにも印象的に成功するなどしていた。
IBMは、前述のHarvard Mark Iに技術的に引き続くSSECも建造しているが、電子式でない計算機械はすぐに時代遅れとなる趨勢にあった。
IBMもIBM 701に始まるIBM 700/7000 seriesやIBM 650といったコンピューターを開発・出荷したが、初期の機種は性能や機能の点でUNIVACに及ばず(IBM 701には当初は磁気テープが無く、650はより下位機種でドラムを主記憶としていたため遅かった)、IBMの成功はコアメモリを採用した704や、7090などトランジスタの世代からであり、データ処理業界でのその地位を確固なものとしたのは、次の1960年代で述べるSystem/360である(たとえば、コンピューターのトランジスタ化についても、7090が1959年であるのに対し、PhilcoのTransac S-2000は1957年と、他社に先行されている)。
1950年代については、商用コンピューター以外に特筆すべきことがある。この時代にIBMはアメリカ空軍の自動化防衛システムのためのコンピューターを開発する契約を結んだ。SAGE対空システムに関わることでIBMはMITで行われている重要な研究にアクセスできた。それは世界初のリアルタイム指向のデジタルコンピューターで、CRT表示、磁気コアメモリ、ライトガン、最初の実用的代数コンピューター言語、デジタル・アナログ変換技術、電話回線でのデジタルデータ転送などの最新技術が含まれている(Whirlwind)。IBMは56台のSAGE用コンピューターを製造し(1台3000万ドル)、最盛期には7,000人が従事していた(当時の全従業員の20%)。直接的な利益よりも長期にわたるプロジェクトによる安定に意味があった。ただし、先端技術へのアクセスは軍の保護下で行われた。また、IBMはプロジェクトのソフトウェア開発をランド研究所に取られてしまい、勃興期のソフトウェア産業で支配的な役割を得るチャンスを逃した。プロジェクト関係者 Robert P. Crago は、「プロジェクトがいつか完了したとき、2000人のプログラマーにIBM内で次に何をさせればいいか想像も出来なかった」と述べている。IBMはSAGEでの大規模リアルタイムネットワーク構築の経験を生かし、SABRE航空予約システムを開発し、さらなる成功を収めた。


1960年代中には、IBMはバロース、UNIVAC、NCR、CDC、ハネウェル、RCA、GEの、他のコンピューター主要7社を圧倒して大きなシェアを有したため、「IBMと7人の小人」と称された。その後1970年代、IBMとバロース、UNIVAC、NCR、CDC、ハネウェルが市場に生き残り、その頭文字から「IBMとBUNCH」と改称された(英単語bunchには「束」「小さな(粒などの)カタマリ」という意味がある)。その後、これらの企業はバロースとUNIVAC(スペリー)の合併で誕生したユニシス以外はIBMの独占するメインフレーム市場から事実上撤退した。
1964年4月に発表されメインフレームの世界に君臨したSystem/360は、IBM史にとどまらず、コンピューター史上において重要なコンピューターである。主記憶へのアドレス付けはバイト単位とし、4バイトなどを1ワードとすること、科学技術計算用と事務処理用で別の命令セット・別のコンピューターとするのではなく、またハイエンドからローエンドまで命令セットアーキテクチャを共通とした「シリーズ」とし、価格差は実装方法の差とするなど、コンピューターの大きな世代交代(メインフレーム→ミニコンピューター→マイクロプロセッサー)を経た今も共通の標準は、System/360で打ち立てられた。System/360は絶対的に成功し、他社を圧倒してメインフレーム市場をほぼ独占した。またそのために、アムダールや日本の一部メーカーなどは、いわゆる互換機(Plug-Compatible Machine)による商法へと流れることとなった。System/360のアーキテクチャは何度かの(ちょうど30年後の1994年4月発表のS/390など)拡張を受けながらも、基本はそのまま引き継がれ、こんにちのSystem z・z/Architectureに至っている。
一方でこの独占は、政府からも目をつけられる程のものであった。1969年には遂に、司法省により独占禁止法違反で提訴されることになる(1969年1月17日)。IBMが汎用電子デジタルコンピューター市場(特にビジネス向けに設計されたコンピューター)を独占しようと謀り、シャーマン独占禁止法の2条に違反したとの訴えである。具体的には、CDC 6600対抗機種を発表してCDC側の販売に打撃を与え、結局その対抗機種を発売しなかったという件である。訴訟は1983年まで続き、IBMに多大な影響を与えた。同じ訴因でCDCからも訴えられ、CDC側に有利な条件で和解している。なお、IBMは以前から度々独占禁止法違反で訴えられてきた企業ではある。古くは1933年、パンチカード機器とパンチカードの抱き合わせ販売で訴えられている。独占禁止法にかかわる司法省の闘争は、IBMとのやりとりが史上最長である。
日本においては、国産コンピューターメーカーを育成するという政府の意図のもと、IBM製コンピューターを導入するには、政府の認可が必要となる時期があった。国産メインフレーム六社政策のもと、IBMメインフレームを模倣した互換機を日本企業が生産していた時期があった。しかし、IBMが圧倒的シェアと投資額で設計・開発しているメインフレームの互換機を作るのは極めて困難であり、1981年に日立製作所や三菱電機など6名によるIBM産業スパイ事件が起こった。IBMはスパイ行為の被害者だが、当時の日本の潮流としてはあたかもIBMが加害者であるかのような誤解が長期間にわたって流布されていた。なお、この事件は日本企業のIBMのUS本社に対してのスパイ行為であり、日本IBMは関与していない。
1969年、30年続いてきたIBMとNASAの協力により、アポロ計画が成功する。このために数多くのIBMプログラマー、エンジニア、アナリストが参加している。
1970年代に、当初はIBMの住む世界とは遠く離れた(System/360は32ビット(アドレスは24ビット)マシンであり、似たようなスペックの68000が登場したのは1980年である)電卓用などのちっぽけな4ビットプロセッサーから始まったマイクロコンピューターは、しかし、革命という言葉すら使われるほどの(en:Microcomputer revolution)変革となり、1970年代の末にはApple IIに代表されるen:Home computerが一般への広い普及のきざしを見せ、1979年にVisiCalcが登場するに至ってビジネスの世界へも進出が始まった。
IBMはこの乗り遅れを挽回するために、1981年にパーソナルコンピューター「IBM PC」をリリースする。同機はIBMエントリーシステム部門に雇われたフィリップ・ドン・エストリッジと "chess" と呼ばれるチームにより、「IBMとしては異例ずくめ」「突貫工事」で開発されたもので、1981年8月11日に完成した。標準価格は1,565ドルで決して安くは無いがビジネスに使用可能であり、PCを購入したのも企業だった。IBM PCはインテルの8088を使い、OSはIBM PC DOSという名前だが中身はマイクロソフトのMS-DOSであった。
1983年に「VisiCalcのIBM PC版」と言えるLotus 1-2-3が登場すると、企業の中間管理職層がその可能性を見出した。IBMの名前に保証され、彼らはPCを購入してビジネススクールで学んだ計算をPCで行うようになった。しかし、そのようにしてPCの成功が広まる一方で、それまでのビジネスである(PCから見れば)大型のコンピューターの、下位に相当する部分がPCに喰われる、というダブルバインドは1990年代には大いに同社を苦しめることとなる。
パーソナルコンピューター(パソコン)の世界では逆に「先輩」であったAppleが1984年に発表・発売したMacintoshは、洗練されたGUIなど多くの点でIBM機に先行するものであった(1995年のWindows 95の際に、Win95 = Mac84 などとも言われたほどであった)。しかし、ビジネスユースから広まったIBM PC(後には互換機)の牙城をMacintoshはなかなか崩せず、2000年代のAppleの起点は1998年のiMacを待たねばならない。
このように挽回に成功したIBM PCではあったが、他社(サードパーティー供給)による周辺機器にとどまらず、「母屋」であるコンピューター本体の互換機を作られてしまう事態に至り、IBMのパソコン事業は多くの試行錯誤を繰り返すことになる。1987年発売のPS/2では、MCAという高性能・高機能だがIBMが主導権を抑えたバスを採用したが、普及させることはできなかった。CPUについては、1990年代に自社のPower ArchitectureをベースとしたPowerPCにより今度はAppleとも手を組み、PReP・CHRP、次世代OSのTaligent、クロスプラットフォーム開発環境Kaleidaというプラットフォームを打ち出すも、いわゆる「ウィンテル」である、他社製PC/AT互換機とMS-DOS(後にはWindows)というコンビを脅かすには至らなかった。OSについては、MS-DOSのようなシングルタスクではない、次世代の本格的なマルチタスクOSとしてOS/2をマイクロソフトと当初は共同開発していたが、マイクロソフトが「NT」(後のWindows NT)を独自路線で開発することを決定して決裂、Windows NTは、旧来のWindowsからの移行パスにこそ苦労した(当初は95の次は、などとも言われていたものの、最終的に2000年のWindows MEまで旧Windowsが残った)ものの、既存シェアの強みでOS/2を寄せ付けず、「PC/AT互換機のOS」の座はWindows NTのものとなった。
1990年代にはダウンサイジングの潮流によりIBMの主力であったメインフレームは「時代遅れ、過去の遺物(レガシー)、滅び行く恐竜」と呼ばれ、IBMの業績は急速に悪化した。1993年1月19日、IBMは1992年度会計での49億7000万ドルの損失を発表した。これは単年度の単一企業による損失額としてはアメリカ史上最悪であったと言われた。なお1991年の赤字は29億ドル、1993年度の赤字は81億ドル、3年間の赤字は累積150億ドルであり、通常の企業では事業再生が極めて困難な数字である。
この損失以来、IBMは事業の主体をハードウェアから、ソフトウェアおよびサービスへと大胆な転換を進めた。また当時は水平分業モデルのマイクロソフト、インテル、サン・マイクロシステムズ、オラクルなどが好調であったため、米国のPC事業部(IBM PC Company)やプリンター事業部など、IBM分社化の動きも進められた。ハードウェアは主力のメインフレームの低価格化を進め、複数のサーバーシリーズのブランド名や機能の共通化が進められた。IBMは伝統的に、日本で日本企業が採用する以前から、各国で終身雇用を行っていたが、これを方針転換しリストラの実施が開始された。後には最終的に、最盛期には全世界で40万人いた社員を22万人まで削減することになる。
1993年、ナビスコ社から引き抜かれたルイス・ガースナーがCEOに就任し、不採算部門の売却、世界規模の事業統合、官僚主義の一掃、顧客指向の事業経営を行い、独自システムと独自OSによる顧客の囲い込みをやめ、オープンシステムを採用したシステムインテグレーター事業へ戦略を大きく転換した。また顧客の要望を聞き、顧客はトータルなサービスを望んでいると考え、IBM分社化の動きを停止した。これによりIBMはLinuxを推進する大手コンピューター企業の筆頭となった。ガースナーの考えとして、IBMを分社化した場合、同規模の競合他社との競争にさらされるが、誰も一から今のIBMのような統合された会社を作ろうとは思わないだろうという願いがあった。IBMは代々、生え抜きの人材がCEOとなる文化であったが、ガースナーが初めて外部から招聘されたCEOである。このことからも、当時のIBMがいかに危機的な状況であったかがうかがえる。
1995年にはネットワーク・コンピューティング、1997年にはe-ビジネスを提唱した。
1995年、IBMはLotus Notesを持つLotusを買収した。以後も運用管理ソフトウェアを持つTivoli、データベースのInformix、ソフトウェア開発ツールを持つRationalなどを買収し、従来からのIBMソフトウェア(DB2、WebSphereなど)と統合した。この結果、2003年にはソフトウェア事業の5ブランド(Information Management、WebSphere、Lotus、Tivoli、Rational)を形成した。なお、それぞれのイメージカラーは緑・紫・黄・赤・水色である。
1999年、IBMはソフトウェア戦略を全世界で方針転換し、IBMは今後はアプリケーションパッケージは開発せず、ミドルウェアまでに集中し、各業務に強いアプリケーション・ベンダーとパートナーシップを組んで、ユーザーにソリューションを提供することを発表した。
コアと位置づけた事業の買収と投資を進める一方で、コモディティ化と価格低下が進みIBMの強みを活かせないと判断した非コア事業の売却を行い、「選択と集中」を進めている。1991年にはタイプライター事業、1998年にはネットワーク事業を売却した。ルイス・ガースナーの当時の判断としては、ハードウェアとミドルウェア、サービス事業をIBMの主軸とし、アプリケーションパッケージは開発しないという戦略であった。アプリケーションパッケージが中心となった2020年代においてもIBMのこの方針は変わっておらず、ERPやCRMのようなアプリケーションパッケージを自社で持っていない。
| 年度 | 成立した特許数 |
|---|---|
| 2008年 | 4186 |
| 2007年 | 3125 |
| 2006年 | 3621 |
| 2005年 | 2941 |
| 2004年 | 3248 |
| 2003年 | 3415 |
| 2002年 | 3288 |
| 2001年 | 3411 |
| 2000年 | 2886 |
| 1999年 | 2756 |
| 1998年 | 2658 |
| 1997年 | 1724 |
| 1996年 | 1867 |
| 1995年 | 1383 |
| 1994年 | 1298 |
| 1993年 | 1087 |
| 年度のリンク先はIBMのその年の業績に関する外部ページ | |
IBMはコンサルティングを含むサービス、ソフトウェアなどからなるビジネスソリューションに重心を移しており、ユーザー企業の業務分析、提案から構築、保守までのワンストップ型のサービスの提供を目指している。
2002年7月、IBMはプライスウォーターハウスクーパース(PricewaterhouseCoopers、PwC)のコンサルティング部門を39億ドルで買収し、従来からのコンサルティング部門と統合し、IBM ビジネスコンサルティング サービスとなった。(なお日本市場のみ、当初は別法人のIBMビジネスコンサルティングサービスが設立されたが、後に日本IBMと合併した。)
またコンサルティング以外のサービス事業(IBMグローバルサービス、IGS)では、システム構築(SI)に続き、ユーザー企業の情報システムの戦略的アウトソーシング(SO)、更には財務・人事・顧客サービス・購買など業務自体のリエンジニアリングと受託を含めたアウトソーシング(ビジネス・トランスフォーメーション・アウトソーシング、BTO)などを提唱している。
「選択と集中」によるコア事業への集中と、非コア事業の売却も続いている。ソフトウェア事業では、2006年にはコンテンツ管理ソフトウェアを持つFileNet、2007年にはBIツールを持つCognosなどを買収し、製品に統合した。また非コア事業として、2004年にはパーソナルコンピューター事業、2006年には企業向けプリンター事業を、2010年にも、IBMの法人向けアプリケーション・パッケージ・ソフトウェアのビジネスとして唯一存続していたPLM事業(CATIA、ENOVIA) を、それぞれ事業部門ごと(製品、施設、従業員など)会社分割し売却した。また、2012年にも、リテール・ストア・ソリューション事業(POSシステム関連事業)の東芝への売却が、2014年には、System xサーバー事業のレノボへの売却が発表された。
IBMは着実に特許件数を増やしており、他社とのクロスライセンス契約時にも重要となる。IBMは1993年から2012年までの20年間連続で米国での特許取得件数で第1位となり、20年間の合計は約67,000件となった。知的財産権の保護はビジネスとしても重要性を増している。この期間にIBMは特許使用料などで100億ドル以上を得た。2003年、フォーブス誌の記事でIBMリサーチの Paul Horn は、IBMが知的財産権のライセンス供与によって毎年10億ドルの利益を得ていると述べた。この特許取得記録1位は2021年まで続き、29年間続いたため、少なくとも29年はこの記録が破られることはないということになる。
2008年にIBMはコーポレート・ビジョンとしてSmarter Planetを提唱し、2009年にはその一部であるスマートグリッド、IoTや人工知能を活用したSmarter Cities(スマートシティ)の取り組みが世界的に注目された。
2009年10月16日、ハードウェア事業の総責任者で次期CEOの有力候補の一人と見なされていた上級副社長のロバート(ボブ)・モファットが、サン・マイクロシステムズとの買収交渉や仕入れ先のアドバンスト・マイクロ・デバイセズ(AMD)などに関する情報をヘッジファンドに漏らしたというインサイダー取引への関与により、連邦捜査局に逮捕・起訴され、モファットはその容疑を認めた。
2010年5月 人事部門のトップであるティム・リンゴが「2017年までに、全世界で40万人いる従業員から30万人を解雇して正社員10万人体制とし、プロジェクト毎に契約社員を雇用するクラウドソーシングの雇用形態に移行する」と発言した事が報道された。しかし、2021年末時点、後述のキンドリル分社後のIBM従業員数は28.2万人であり、クラウドソーシングに移行したという事実はない。
2020年10月、マネージド・インフラストラクチャー・サービス部門の2021年末までの分社化予定を発表した。IBMの顧客向けインフラ・サービス部門はキンドリルとしてスピンオフが2021年11月3日に完了し、キンドリル株(KD)は翌4日よりニューヨーク証券取引所で取引が始まった。
2026年7月14日、IBMは同日発表した2026年4-6月期(第2四半期)の暫定売上高が172億ドルとなり市場予想の179億ドルを下回ったことを受けて株価が一時26%下落し、1968年以来約60年ぶりの下落率を記録した。AI向けデータセンターの建設が世界的に拡大する中で半導体やサーバーの供給が逼迫しており、顧客がメインフレームやソフトウエアよりも半導体・サーバー・メモリーへの支出を優先したことが要因とされ、特にインフラストラクチャー部門の売上高は前年比7%減となった。
同年7月22日(現地時間)、IBMは同四半期の本決算を発表した。ソフトウェア事業の収益は前年比5%増の78億ドル(レッドハットを含むハイブリッドクラウドは11%増)、コンサルティング事業は横ばいの53億ドル、インフラストラクチャー事業は7%減の38億ドル(うちIBM Zは42%減、分散インフラストラクチャーは37%増)だった。会長兼CEOのアービンド・クリシュナは、為替変動の影響を除いた2026年度通期の収益成長率見通しを4〜5%とすると説明した。
なお2009年3月18日にはIBMがサン・マイクロシステムズの買収を交渉中と報道されたが、最終的にはオラクルが買収することとなった。
詳細は「IBMによる合併買収一覧」に記載
IBMの海外オペレーションは事業が大発展した1970~80年代には、ヨーロッパ・中東・アフリカ地域を統括するIBM Europe/Middle East/Africa会社(本部:ベルギー・ブリュッセル、略称:E/ME/A=エメア)、南北アメリカ・アジア太平洋地域を統括するIBM Americas/Far East会社(本部:ニューヨーク州マウントプレサント、略称:A/FE=アフェ)を設置して、後者の下ではさらに日本・韓国・台湾・オーストラリアなどを統括するIBM Asia Pacific会社(本部:東京、後に香港、略称:AP)があって、生産・販売・地域性による開発はなるべく各地域内で行なうような政策を敷いた。しかし1990年代以降は、日本IBM・英国IBM・ドイツIBMのように事業が大きな国のIBMは本社へ直接報告するように戻り、新しいAP(本部:シンガポール)はオーストラリア・韓国・インドネシアなどの諸国を統括する組織になって、世界全体ではもう少し小さな地域性を生かしてお互いに協力する体制へ代った。
IBMの日本法人は日本アイ・ビー・エム(日本IBM)株式会社で、米 IBM 社の孫会社にあたる。また、日本IBMの下には更に複数の子会社と関連会社が存在している。2002年以降はコンサルティング会社のIBMビジネスコンサルティングサービス(IBCS)が並存していたが、2010年4月に日本IBMに統合された。
IBMは競争法・贈賄・雇用・公共部門の大型契約・人工知能事業・監視技術・環境をめぐり、各国の当局や報道機関から批判や法的措置を受けてきた。第二次世界大戦期のナチス・ドイツとの関係は同節、日本法人の事案は日本アイ・ビー・エムを参照。
米国司法省による1969年提訴の反トラスト訴訟(前述)のほか、欧州委員会は2010年7月、メインフレーム市場での支配的地位の濫用が疑われるとして、自社のオペレーティングシステムの抱き合わせと独立系保守業者への交換部品の供給妨害について2件の調査を開始した。前者は詳細な調査を経て2011年9月に終結し(申立ても撤回)、後者はIBMが部品と技術情報を5年間提供すると確約したため、委員会が同年12月、違反を認定しないまま確約に法的拘束力を持たせて終えた。
IBMは海外腐敗行為防止法(FCPA)関連で米証券取引委員会(SEC)から2度処分を受け、いずれも違法性を認めも否定もせずに支払いに応じている。2000年12月には、子会社IBMアルゼンチンがアルゼンチン国営銀行の2億5000万ドル規模の契約受注をめぐり下請企業経由で同行の理事に450万ドル以上を渡したと認定され、30万ドルの民事制裁金を受け入れた。2011年3月には、韓国と中国の子会社の従業員が1998〜2009年初めに両国の公務員へ現金や接待を提供していたとして、SECが帳簿記録・内部統制条項違反でIBMを提訴し、IBMは計1000万ドルを支払った。
アパルトヘイト体制下の南アフリカ共和国でIBMの子会社が事業を続けたことをめぐり、2002年以降、被害者らが外国人不法行為請求権法に基づき、IBMが人種分類制度の実施を可能にする技術と訓練を提供して人種隔離を助けたとして、IBMやフォード・モーターなどを米国で提訴した。IBMとフォードは、子会社が同政府を助けたこと自体は否定しなかったが、米国本社が人権侵害を計画・支援した結び付きは不十分だと主張した。下級審は、同法が米国外で完結した違反に法人責任を認めないこと、米国内の行為と人権侵害の結び付きが不十分なことを理由に訴えを退け、連邦最高裁判所も2016年6月に上告を受理せず、14年にわたる訴訟は原告側の敗訴で終わった。
プロパブリカは2018年3月、IBMが過去5年間に40歳以上の米国従業員を推計2万人以上(同期間の米国内の人員削減全体の約6割)削減したと報じ、高齢労働者を守る法律を無視・回避してきたと批判した。雇用機会均等委員会(EEOC)は2020年8月の決定書で、高齢従業員を大幅に減らすよう管理職に指示する最上層部のメッセージが全国調査で判明したとし、2013〜2018年に解雇対象とされた従業員の85%以上が高齢労働者だったと認定した(IBMは事業上の判断で年齢によるものではないと否定)。2022年2月には、年齢差別訴訟の提出書類からIBM幹部が社内メールで高齢従業員を「dinobabies(恐竜の赤ん坊)」と呼んでいたことが明らかになり、IBMは組織的な年齢差別はなく解雇は事業環境の変化によるものだと反論した。
IBMが元請けとなった各国政府のシステム開発では、遅延や費用超過、契約打ち切りと訴訟に至った事例が相次いだ。クイーンズランド州保健省の給与システムは619万豪ドルの固定価格契約だったが、2010年の稼働後に大量の誤払いが生じて総費用は約12億豪ドルに膨らみ、2013年8月の州の調査委員会報告を受けたキャンベル・ニューマン州首相はIBMが「クイーンズランド州を欺いたようだ」と述べて新規契約を禁止した(IBMは報告書の認定は証拠の重みに反すると反論)。州の提訴は2015年に補足合意による免責を理由に退けられたが、契約の禁止は2025年10月まで12年間続いた。
インディアナ州の福祉受給資格審査業務(2006年の10年・13億ドル契約)は2009年に打ち切られ、州最高裁判所が2016年にIBMの契約違反を認定、7800万ドル超の支払い命令が2018年に州控訴裁で支持された(IBMは失望を表明)。ペンシルベニア州の失業給付システムは約4年の遅延と6000万ドルの超過で2013年に打ち切られ、州の提訴は2021年、IBMが責任を認めないまま3300万ドルの支払いで和解した。2016年のオーストラリア国勢調査ではIBMのオンライン回答システムがDDoS攻撃で約40時間停止し(IBMオーストラリアの責任者は下請けの通信事業者が遮断手順を守らなかったことが原因と主張)、マルコム・ターンブル首相は同年11月、IBMが約3000万豪ドルの和解金を支払ったと述べた。
このほかテキサス州のデータセンター統合契約は2010年、義務不履行を理由に再入札に付された(IBMは州側の不履行が原因と反論)。IBMが2016年に稼働させたカナダ連邦公務員の給与システム「フェニックス」の過払い・未払いについては、カナダ会計検査院が2018年、政府側の日程・費用優先を「理解不能な失敗」と評し、IBMが受け取った額は2026年時点で8億5100万カナダドル超に達している。
IBMは2011年に『ジェパディ!』で人間の王者を破ったWatsonが医療を変革すると宣伝し、2015年のWatson Health事業に報道によれば計約40億ドルを投じた。しかしテキサス大学MDアンダーソンがんセンターとの共同プロジェクトは2016年末に中断され、テキサス大学の監査報告書は同センターが6200万ドル超を費やしながら目標を達成できなかったと指摘した(監査はシステムの科学的根拠や機能への評価ではないと断り、IBMも推奨内容が専門家の判断と90%一致していたとして研究開発は成功だったと反論)。医療専門メディアのSTATは2018年7月、社内の専門家や顧客が「安全でなく不正確な治療推奨の複数の事例」を確認していたとするIBMの内部文書を報じた。IBMは2022年1月にWatson Healthの資産を投資会社へ売却すると発表し、『ニューヨーク・タイムズ』は2021年、Watsonを技術的な誇大宣伝と人工知能への過信がもたらす落とし穴の例として総括した。
ザ・インターセプトは2018年9月、IBMが2012年頃からニューヨーク市警察(NYPD)の監視カメラ映像で肌の色などから人物を検索できる映像解析ソフトを開発していたと報じた(NYPDは同機能の提供を受けたが断ったと述べ、IBMはコメントを控えた)。同メディアは2019年3月、IBMが2012年にフィリピンのダバオ市(当時の市長はサラ・ドゥテルテ、父のロドリゴ・ドゥテルテは副市長)と契約し、ヒューマン・ライツ・ウォッチが同市の多数の超法規的殺害を報告した後も警察の指令センターへ監視システムを提供していたと報じた(IBMは2012年以降の供給を否定)。2020年6月には最高経営責任者のアービンド・クリシュナが米議会への書簡で汎用の顔認識ソフトの提供終了を表明した。
IBMが顔認識の公平性研究のため公開したデータセット「Diversity in Faces」は、Flickrにクリエイティブ・コモンズで投稿された約100万枚の顔写真を本人の同意なく収集・注釈したものだったと2019年3月にNBCニュースが報じた(IBMは削除要請に対応すると述べたが、NBCは削除はほぼ不可能だと指摘)。写真が含まれていたイリノイ州の住民は2020年7月、同州の生体情報プライバシー法に基づきアマゾンやグーグルの親会社などを提訴した。
IBMは1935年から1980年代半ばまで、創業の地エンディコットの工場で部品洗浄にトリクロロエチレンを使い、1979年に地下水汚染が、1990年代末には土壌からの蒸気が住宅に侵入する汚染が判明した。約1000人の住民が2008年に1億ドルの賠償を求めた訴訟は2015年2月に非公開の条件で和解し、IBMは化学物質を当時の基準に従って扱い浄化も続けているとの立場を示した。エンディコット村がIBMの化学物質管理の過失で水源の井戸が汚染されたとして起こした訴訟では、2026年5月に複数の請求の審理継続が認められた(IBMは争う姿勢)。
2010年に最高経営責任者サミュエル・パルミサーノが掲げた1株当たり利益20ドル(2015年)の目標「Roadmap 2015」は、後任のジニー・ロメッティが2014年10月、四半期決算の不振とともに断念を表明した。ロメッティの在任中(2012〜2020年)にIBMの売上高は1050億ドルから770億ドルへ25%以上減り、22四半期連続の減収を記録した。『フォーチュン』は退任時の論評で、巨額の自社株買いが340億ドルのレッドハット買収を上回ったこととクラウドコンピューティング投資の遅れを批判した。
米国最多の特許取得数を持つIBMのライセンス収入の手法にも批判がある。2021年、ペット用品通販のChewyはIBMが「価値のない初期インターネット特許に対して法外なライセンス料を求めている」として3600万ドルの特許料要求の差し止めを申し立て、ブルームバーグは、こうした手法を取る企業は一般にパテント・トロールと呼ばれるが、IBMの立場は法学者の言葉で「特許のゴッドファーザー」に近いと報じた。一方、2018年7月にはデラウェア州の連邦地裁の陪審がグルーポンによる特許の故意侵害を認めて8250万ドルの支払いを命じ、グルーポン側は特許に価値はないと反発した。
2019年のレッドハット買収後、同社の方針転換がオープンソースコミュニティの反発を招いた。レッドハットは2020年12月、Red Hat Enterprise Linux(RHEL)の無償の互換版であったCentOS Linuxの開発終了を発表し、サポート打ち切りに利用者が強く反発して、CentOSの共同創設者はRHEL互換の後継Rocky Linuxを立ち上げた。さらに2023年6月、レッドハットがRHELの公開ソースコードの提供先をCentOS Streamのみに限ると発表すると、Rocky Linuxは「オープンソースの精神と目的に反する」と表明し、AlmaLinuxなど互換配布の開発者も批判した(レッドハット側の担当副社長は、反発の多くはRHELの開発に対価を払いたくない者や再パッケージで利益を得ようとする者から来ていると述べた)。
日本法人の日本アイ・ビー・エムも、システム開発の頓挫や労働をめぐる訴訟を抱えてきた。スルガ銀行が勘定系システム開発の中止で約116億円を求めた訴訟では、2015年7月、日本IBMに約42億円の賠償を命じた高裁判決が最高裁判所の上告棄却で確定した。文化シヤッターとの販売管理システム開発の訴訟では、2024年5月の控訴審判決が日本IBMの過失割合を一審の85%から90%へ引き上げ、賠償額を約20億500万円とした。労働面では「ロックアウト解雇」(解雇予告と同時の社外退去)の無効を求めた訴訟で2017年3月までに判決に至った3件すべてで元従業員側が勝訴した(うち2件は会社側が控訴。ロックアウト自体の違法性は認められていない)。賃金査定への人工知能の利用では2024年8月、日本IBMが評価項目を開示する内容で労働組合と和解した。